佐藤優は「雑学クイズ王」なのか?(クイズ愛好家の立場から)

昨年(2021年)、元外交官である作家の佐藤優を名指しで批判した本が出版されました。

題して、『佐藤優というタブー』。

出版社のページによると、

〝雑学クイズ王〟佐藤批判はタブーか!?
クイズの答的知識の多さに圧倒されるのは、自立した判断力を持たない優等生である。
私は二冊も佐藤と共著を出した責任を感じて、ここで佐藤批判を、特に佐藤ファンの読者に届けたい。

という意図の本らしい。

私は佐藤優という人物について詳しくはないのですが、巷がもっている「クイズ」についてのイメージを把握するのに、ひじょうに役立つ本だと思いました。

ちなみに佐藤優氏は、本書に名誉毀損等の内容が含まれるとして、著者と出版社にたいして訴訟を行っていますが、私が調べた限りでは、この「雑学クイズ王」という強烈なワードについては何も訴えていないようです。

なぜ、佐藤優は「雑学クイズ王」なのか?

出版社のサイトによると、

佐藤は端的に言えば〝雑学クイズ王〟である。確かに博学であり、小さなことまでよく知っている。しかし、それは断片的なものであり、生きてはいない。知識の剥製と言ったらいいか。干物の知識である。

著者のインタビューによると、

博覧強記ではあるが、実際は受験勉強的な知識の蒐集であり、なんら思想的裏付けがない。そんな佐藤を、私は〝雑学クイズ王〟と評した。雑学のネタは余るほど持っている。このオタク気風の雑学ぶりに幻惑されてしまう人があまりにも多すぎるのである。

いずれも、佐藤優本人よりはクイズ愛好家にグサグサ刺さる言葉ではないかという気もしてきます。私が佐藤優の著書や講演を楽しんでいるのも、「自立した判断力を持たない優等生」であるせいかもしれない。

ならば、佐藤優は「雑学クイズ王」なのか?

結論としては、クイズ愛好家の立場からみると、佐藤優は「雑学クイズ王」ではありません。しかし、「雑学クイズ王」と罵られるような、ある側面をもっていることは否定できません。どういうことでしょうか。

佐藤優=「雑学クイズ王」でないことは、私の経験から自明です。

かりに「佐藤優」=「雑学クイズ王」であれば、「雑学クイズ王」=「佐藤優」でもあり、したがって「雑学クイズ王」には「佐藤優」みたいな能力があるということになります。しかし、いまのところ、私自身のクイズ経験から想像できる「雑学クイズ王」には、あるジャンルについて系統だった説明をする(たとえば佐藤優の講義録『いま生きる「資本論」』のように)ことは要求されていない。「雑学クイズ王」に要求されているのは、むしろその逆で、説明されたものにたいして、ひとつの単語を導きだすことが大半です(そのかわり「雑学クイズ王」に要求される知識の広さはもっと広い)。

いっぽう、佐藤優が「雑学のネタは余るほど持っている」と揶揄される筋合いも若干はあると思います。彼は話をすすめる過程で、そういった「断片的な知識」をうまく活用して面白みをもたせている。もちろん、これは「断片的な知識」しかないのとは大違いです。おかげで、本にせよ講演にせよ、記憶に残りやすくなっている。実用的な効果をめざしています。しかしながら、そうした知識が、ときに佐藤氏が会話の主導権をとるために使われている印象をもたらすことはあります(某議員の国会での質問が、「クイズ答弁」と揶揄された経緯に近いのかもしれません)。

いずれにせよ、「雑学クイズ王」=佐藤優でない以上、佐藤優=「雑学クイズ王」ではない。しかし、佐藤優のなかに「雑学クイズ王」的な側面は、おそらくある。

そうなると、クイズ愛好家としては、「佐藤優が何であるか」をひとまずカッコにいれつつ、こういう問いを提示できます。

本書は「雑学クイズ王」批判ともとれる。その批判は正当か?

つまり、「雑学クイズ王」の知識は、

断片的なものであり、生きてはいない

という批判です。

これらは、「受験勉強的な知識の蒐集」であり「思想的裏付け」がない。と本書はいいます。ゆえに彼らの知識は生きてはない。

反転させると、「雑学クイズ王」にない「生きた知識」とは、

思想的裏付けにもとづいて、有機的に活用される知識

ということになるでしょう。

私はクイズ界隈の「内部」における「生きた知識」に与する物言いには反対なのですが、上にあげた「生きた知識」像は理屈としては一貫していると思います。したがって、その批判は「外部」からクイズ知識の限界を示すものとして正当だといえます(本書の著者はクイズ関係者ではないから)。

これを逆にクイズ界隈の「内部」からいうと、クイズは「思想的裏付け」を求めないゆえに幅広いものを対象とすることができ、「断片的」でもよいからこそエンタメとして成立しているので、クイズという場でやりとりされる知識に「生きた知識」(ここでは「思想的裏付けにもとづいて、有機的に活用される知識」)などそもそもない。その意味では「外部」からの批判は免れえないが、クイズの性質上それは仕方がないことだし、それでいいのだとしか言いようがない、ということになります。

ちなみに上記のようなクイズ批判は、かならずしも目新しいものではありません。アメリカの人気クイズ番組『ジェパディ』について論じた『Jeopardy and Philosophy』という本のなかに、『Jeopardy! Monkeys Ain’t Smart』という文章があります。日本語にすると、「ジェパディのサルは賢くなんてない」といったところでしょうか。

論者はアメリカの教育者、ベンジャミン・ブルーム(1913-1999)が提示した学習目標のモデルを用いて、「賢い」とはどういうことかを説明しています。

ブルームは教育において達成すべきことを、「KNOWLEDGE」「COMPREHENSION」「APPLICATION」「ANALYSIS」「SYNTHESIS」「EVALUATION」の順に高度化させています。クイズプレイヤーが知識を暗記したり名づけたりする作業(「KNOWLEDGE」)は大事だけれども基本のキであって、じつはサルでもできる。しかし、人間はそれを「理解」「適用」「分析」「統合」「評価」(「COMPREHENSION」〜「EVALUATION」)することができ、そこに本当の知識があると論者はいいます。

賢い学生、知識豊富な学生とは、単にアイデアや概念を定義したり、名前を付けたり、列挙したりするだけでなく、データ、事実、情報、アイデア、概念、議論などを構築し、まとめ、批判し、判断し、正当化することができる学生のことです。

本書が「佐藤優」批判のついでにやっている「雑学クイズ王」批判は、このようなクイズ批判をよりざっくばらんに展開したものともいえるでしょう。

さて、本題に戻ると、もうひとつ気になるのは、

「雑学クイズ王」はどれくらい「佐藤優」になれるか?

という点です。

佐藤優は、その旺盛な著作活動や見識の広さと深さから「知の巨人」と呼ばれることもあります。じっさいこうした「教養人」的なスタンスをめざしてクイズを始めたり、取り組んでいる人もいることでしょう。

その「知の巨人」に、クイズはどうすれば近づけるのか?

私自身は、クイズ観を広げることによって、まあまあ近づけるのではないかと思います。どのように広げるのかというと、かつて放送されていた『うんちく王決定戦』的な方面の知識をクイズの一部としてとらえるのです。

いまの一般的なクイズは、説明から単語を導き出すのがメインであり、それこそが本質的な能力ととらえられがちです。しかし、昔のクイズ本などを見ると、「アメシストはどういう意味か?」「レンガはなぜ赤いか?」「魚は歌うか?」といった説明系の知識がのっており、かなり時代によっても変わる相対的なものなのです。

「うんちく王」は単語などの「お題」から説明を導き出すという方式になっていました。おそらく「うんちく王」はおじさんのキャバクラトークなどが念頭にあり、おもしろい話をすることが重要なファクターなのですが、クイズ文化としての「うんちく王」を想定するならば、年号とか固有名を正確に言えることもより大きな加点要素にしていいのではないかと思います。このあたり佐藤優が得意とするところです(「何年何月の〜」や「誰某のどの著書で〜」といった「小さなことまでよく知っている」)。

こうした「一連の説明ができる」ことをクイズの一部に組み込んでいけば、「生きた知識」を実現できるとは当然いえないまでも、「佐藤優は“雑学クイズ王”だ」と揶揄されるところの「雑学クイズ王」にはなれるだろうと思います(ただし競技として成立させるのが難しいため「王」というポジションも消える可能性はある)。

そうすることで、もしかするとクイズプレイヤーは、ブルームの分類でいう「KNOWLEDGE」の先(「COMPREHENSION」「APPLICATION」くらい)を見ることができるのかもしれません。(終)

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