みんはや回想記

「みんなで早押しクイズ」をふりかえる

クイズ愛好家の御用達ともいえるアプリ「みんなで早押しクイズ」がリニューアルするという知らせとともに、公式ツイッターが開設された。

もしかすると、このリニューアルをもって、「みんなで早押しクイズ」(以下「みんはや」と略記)は大きく変わるかもしれない。もともと、画面の上半分を参加者のアイコンと問題文が、下半分を早押しボタンが占めているという簡素なデザインが特徴的だったからだ。プロの声優が演じるキャラクターが出てくるというだけでも、ただごとでないものを感じてしまう。

私自身は、長年「みんはや」に熱中しており、その経験は私のクイズ観の多くをなしている。昨年ごろから、そのクイズ観をnoteに記録するようになった。この節目にもなりうる時期に、自分が「みんはや」をつうじて考えたことを、のちに見かえせるようにメモしておきたい。

私がいつ「みんはや」を始めたのか、もう覚えていないが、たぶんかれこれ四年くらいやっている。その期間に、このゲームには二種類の楽しみ方があることを知った。

ひとつは「レート戦」といって、本アプリにプールされている数万問のクイズを使って、ランダムで選ばれた相手と早押しクイズで勝負をする。勝ったらレートが上がり、負けたらレートが下がる。レートは全国ランキングがあり、トップ争いをするためには、100回勝負をしたら99回は勝たないといけない仕組みになっている。同じクイズが複数回でるので、未経験者から見ると信じられないポイントで押しているようにも見える。

もうひとつは、「フリーマッチ」といって、自分が作った早押しクイズを、自分で考えたルールで他人に解いてもらうことができる。あるいは逆に、他人が作った問題とルールで、自分はみんなと早押しクイズで勝負ができる。これはレートには関係ないものの、初めて見るクイズで勝敗を争うときには、強豪クイズプレイヤーがしのぎを削る場にもなる。

早押しクイズの依存症になる

私はまず「レート戦」に打ち込んだ。当時はかなりの時間をかけることができたので、ひたすら答えを覚えて、プラス勝つための様々な工夫(「1字決まり」のクイズを探すなど)をしているうちに、レートは上がっていった。これにより、クイズとは基本的に「傾向と対策」なのだと思うようになった。「レート戦」で勝てることは、それ以上の何も意味しない。

とはいえ、ボタンを早く押して相手を蹂躙するのは快楽である。しかも「レート戦」は問題数がすくないので、かけた労力がそのぶんレートに反映される。だから延々とレートを伸ばしていたが、どうもこれは「依存症」に近いな、と憔悴しつつもうっすら思っていた。のちに依存症についての書籍などに目を通すうちに、その実感は強くなっていった。

依存の形成には「正の強化(快楽が増える)」「負の強化(苦痛が軽くなる)」がある。前者はボタンを押せば押すほどレートが上がっていくという報酬系が作動しており、「スキナーボックス」さながらの条件づけも相まった状況。後者については、ボタンを押して正解を入力するという単調なプロセスに集中することで、私自身の「生きづらさ」を忘れるという、現実逃避の役割。

もちろん、日常生活は送れているので、厳密には「依存症」ではないのだが、レート戦に本気になっていると、それほどの没入をしてしまう。心身ともに不調をきたしていたといっても過言ではない。

クイズ愛好家の生きづらさ

さきに「生きづらさ」といったが、当時「みんはや」で知り合った他のプレイヤーは、知的にはすぐれた能力をもった人々だったが、その一部は、SNSでの発言を見るに、どこか社会にスムーズに適応しにくい特性も兼ね備えているようでもあった。そのせいか、「みんはや」プレイヤーたちは独特の高い凝集性をかもしており、私にも居心地がよかった。

さきほど「みんはや」の早押しクイズには、「正の強化」と「負の強化」による依存形成が起きやすいといったが、これをSNS上の関係依存が補強するという側面もあったのではないかと推測している。「みんはや」だけでなく、SNSに張り付いている時間もけっこう長かった。

そこでは「みんはや」上の成果は、「レート戦」であれ「フリーマッチ」であれ、さながら通貨のように機能したといってもいいだろう。その界隈の外部ではまったく役に立たないのに、私の実存にかかわっていると錯覚させる点で、ほんとうに通貨に似ているのだ。

私自身の実感をいうと、「みんはや」に参入してくるプレイヤーの傾向は、時期によってすこし違うような気もする。私がとくに「みんはや」ばかりやっていた時には、そのような「生きづらさ」と親和性が高い人々が多いようにみえたが、もっと前だと従来のクイズプレイヤーの層が、もっと後だとたんに知的好奇心が高いクイズ未経験者の層が目立つ。

「みんはや」から得るものは得てしまった

プレイヤー層についての印象論を述べるのには、理由がある。私は「みんはや」の今後にかなり楽観的である。それは、今回のリニューアルでアプリがもっと面白くなると期待しているからではない。すでに「みんはや」のもっとも面白い肝の部分を味わってしまったと思っているからだ。

私は「レート戦」をやめた後、もっぱら「フリーマッチ」をやっていた。そこでクイズの多様性は人の数だけあることを実感した。いままでに触れてきた「競技クイズ」では汲み尽くせない豊かさがあった。クイズに活用されている、それぞれの専門分野や卓越した技能の数々、それらの凄みは「傾向と対策」で到達するにはかなわないことを知った。

クイズで正解するだけなら「傾向と対策」でもなんとかなるが、彼らの理解には到達できない。クイズをつうじて逆説的にそれが分かってしまった。逆にいえば、自分がふだん興味をもっているジャンルについて、「傾向と対策」では到達できない理解をもちうる、ということも分かった。その理解は「競技」のかたちをとらないクイズならば、「分かち合い」に活かせるのではないか、と考えるきっかけにもなった。

そうしたなかで、「みんはや」をやり込んでいなければ、けっして知ることもなかったような面白い人々を、(SNS上にすぎないとしても)目にすることができた。これがいちばんの財産だと感じている。

そして前述したプレイヤー層の変遷をみるに、今後、より私が面白いと思うような(しばしば「生きづらさ」との親和性を示すような)人々に遭遇することはないと予想している。章題にしたように、もう「みんはや」から得るものは得てしまったのである。

クイズと資本主義はどう関係するか

これからの「みんはや」について興味があるのは、これからどのように収益化を目指すのか、という一点に尽きる。以下のサイトを見るに、現時点でもそうとう潤っているようでもあるが、プロの声優を使ったキャラクターを動かしていくために、どのように変わっていくのだろうか。

クイズが収益化される場面といえば、ふだんの生活であればクイズ番組だろう。芸能人などを出演させて、バラエティとしても楽しめるようにする。広告費が収益につながる。クイズプレイヤーが参加するような競技クイズの大会は、参加費と観戦費用が収益につながる。「みんはや」の収入はいまのところ、広告費+その目障りな広告を消すための料金がメインに見える。それが変わるのだろうか。広告費をふやすために「みんはや」が公式に芸能人を雇ったりするのだろうか。あるいは大会などを開いて参加費を募る日が来るのだろうか。

現在あるクイズゲームはどうか。『黒ウィズ』ならばカードの育成を楽しんだり、キャラクターを楽しんだりできる。一日にできるクイズの量は限られており、よりクイズがしたいひとはお金を払えば延々とプレイできる。『クイズノックスタジアム』ならば、知名度が高いクイズノックのファンを見込めることと、ボタンを押すことの気持ちよさ、やり込むことで結果がよくなるという快楽(依存性)がかかわっているだろう。おなじように、「みんはや」もキャラクター消費を楽しむコンテンツになったり、クイズノックのような知名度の高いクイズ企業とコラボしたりするのだろうか。

他のクイズゲームとことなり、「みんはや」が珍しいのは、基本的にユーザーが作ったクイズで動いていることである。運営はシステムを作り、投稿された多くのクイズから、レート戦で出題されるクイズの採用や訂正などを行っているだけである。フリーマッチのクイズについては、禁止ワードなどを設定して、公序良俗に反するやりとりを防いでいる。

この単純明快なシステムだけで、上記のリニューアルが見込めるようになるのは凄いことだ。このリニューアルにともない、「みんはや」はどう変わるのか。あるいは変わらないのか。クイズが資本主義ーーそれ自体がひとつの報酬系ともいえるーーとどのような関係を取り結んでいくかの一面として、ぜひフォローしていきたいものだと思う。(終)

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