見出し画像

多様性について意趣あり

意趣は「おもうところ」と読む。
さて、つい先日多様性推しの新しい上司の視察を受けたので、僕も多様性について色々と「意趣」が生じた。まあそんなところをつらつらと書き連ねたいと思う。

僕は会社では20人の部下を持つ管理職をやっている。僕の上にも上司がいて、いわゆる中間管理職である。その上司が新年度で交代し、部署の視察を受けた。部署の概要を報告し今年度の業務指針について指導を受けた後、こんなやり取りがあった。

「君の部署には女性がひとりもいないな」
「はい」
「何か問題はないのか?」
「何も問題はありません」
「なぜ問題がないんだ」

ここで一瞬言葉に詰まった。正確に言うと僕の部署の人事権は僕にはないのだが、僕の意見はほぼ素通しである。この上司が来る直前に、部署の職歴30年でなんのスキルも持っていないくせに部署の評判を下げて謝りもしない有害物質(ゴミ)BBAをようやく追い出し、全員男にして快適で機能的な職場を作り上げたばかりだった。

「女がいないから余計な問題が発生しないのです」

と正直に言ってしまうほど純粋ではないので、全員男で解決困難な業務はひとつもないと説明したが、納得はしていないようだった。またさらに、上司は他部署でのLGBT新入社員への配慮について持ち出し、これからは多様性の時代だ、と言い残してその日の視察は終わった。

新しい上司は、現場の問題に高い関心を持っているし極めて高い合理精神の持ち主なので、やりやすい人ではある。しかしながら、女やLGBTを入れることが合理性に反する場合はどうするのか。というより、障害者雇用によって道徳ポイントを稼ぐことと何が違うのか。

そもそも、入社試験を課して「選別」していること自体、多様性とは真逆の思想だろう。組織の目標を達成するため、将来性のある人材を選別する目的で入社試験を課しているのである。実効性のある組織運営を考える管理職なら「多様性」より「精強化」を優先させて当然だろう。

そんなことを考えていたら、僕が社会人生活を始めた弊暴力装置はまことに多様性あふれる職場だったなあと思う。募集要項を見れば日本国籍を有することが絶対条件であることは今でも変わっていないが、現在であれば精神疾患の診断名がつきそうな先輩・後輩から大学院卒の若手幹部まで非常に多様性に富んでいた。

僕は仕事がら高校生・大学生とも接する機会が多いのだが、特に大学生のいう多様性は、外国人やLGBTに偏っている。だいたい、日本の大学に来れる外国人はその国でも上澄みだし、まず日本においてもそういった文化交流のできる学生は上澄みである。しかし、学生に自分が上澄みであるという意識を持っている人はまずいない。

つまり、社会レベルの上澄み同士の、横のつながりのみを多様性と言っているのだ。まあそれも多様性のひとつだろう。しかし、カズオ・イシグロが「縦の旅行」と称したように縦の多様性については視界に入っていない上澄み学生が多いように思う。

昔の弊暴力装置では、ヤクザに追われて逃げるために入った者、住所がなくて地方協力本部の住所で住民票を取った者、休みの日の外出で生活隊舎から観閲行進のように腕を肩の高さまで振って歩く後輩、泥酔してリヤカーで営門から運ばれる先輩などが大勢いた。

多様性とはLGBTのことや外人、ましてや女のことだけではなく、犯罪経験者、乞食、精神障害者、社会不適合者をも包摂することである。多様性をうたう企業は、そんな寄せ集めをひとつの目的に向かってなんとか使い物にするのが企業としての多様性であると認識してもらいたい。

ただ、それは営利目的としては「合理的」ではないのだが、多様性をうたって道徳ポイントを稼げる立場の者は多くはなく、ほとんどは「合理的」にやるしかない。それを「女やLGBTを受け入れない日本は後進国! ヘルジャパン!」とやっても、逆に女やLGBTに対するヘイトが溜まっていくだけだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?