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岡崎乾二郎「でもの哲学」「一人のなかの妖怪たち」(『而今而後──批評のあとさき(岡崎乾二郎批評選集 vol.2) 』)/水木しげる『河童の三平』

☆mediopos3547(2024.8.3)

岡崎乾二郎の批評選集『而今而後』から
「でもの哲学」
そして「一人のなかの妖怪たち」

論じられているのは
「私は私であるがゆえに私である」
というような単純な自我や
いわゆる高次の自己なるものについてではない

身心をふくめた
「私」という存在の多層性をふまえながら
それ「でも」あらわれ得る
「私」という「固有の主体——身体」における認識である

「私」は「一人」だろうか

「人間はたとえ一人であっても決して、一人ではない。」

私は私であるが
その私の「体は無数の異なる器官の束」であるがゆえに
「真に信用に値する認識は固有の主体——身体には帰属しない」

「足の小指が感じていることを肝臓は知らず、
拷問で耳がそぎ落とされている最中でも、
胃腸は平然と空腹を訴え「グー」と不平の声を上げる。
欲望は知性と無関係であり、
考える葦でもある人間はオナラをしながら、
パスカルを読んでいる」ように

「固有の主体——身体」に帰属する認識を得るためには
「主体的ないかなる実感からも離れていなければならない」

「信頼に値する知とは、その脳が誰のものでもなくなり、
(主体的ないかなる統制、位置づけ、利害関係からも離れ)、
自動計算をはじめたときに得られる」

ゆえに「倫理的であるとは」「外部化された認識
(自分の予想を超えて自分の脳が引き出した答え)に
忠実であること」であって
「私たちの実感(中枢的な感覚)が切断されたときにだけ、
得られうる至高の経験としてある」

たとえば職人の「技術と呼ばれるものは
身体の統御をひとまず解体し、
それを再編しなおすことによって習得される」

「職人の誰もが知っているように、
手や足がそれぞれ独自の判断で
自律的に動き出してしまうようにならなければ、
信頼に足る技術を習得したとは言えない」

「でもの哲学」の「でも」とは

「一般的な善悪の判断(道徳意識)や
中枢的な感覚——主体化された実感に基づくのではなく、
むしろ主体の中枢的な制御に躊躇を与え、
「それでも、しかし」とそれを逃れていく特殊な判断」である

「真の認識を目指す者に
善悪といった基準はおおよそ信頼しえない。
それらは目的によって統御された主体的、
つまりは対他的な認識であるがゆえに、必然的に限界を持つ。
それはついに普遍的な知に到達しえない」

けれど「善悪という中枢的な判断が解体され」
「でも」とそこから逃れ
「無数の異なる運動が同期しえる」とき
その「瞬間」は訪れ得る

なおこの「でもの哲学」に関連した視点は
水木しげるについて論じられている
「一人のなかの妖怪たち」でも示唆されている

身体的なありように関しては
H・G・ウェルズの『宇宙戦争』がひきあいにだされる

「人間は消化と免疫のために、目に見えない他者、
微生物や寄生虫を身体の中に
自分でも知りえないくらい無数に飼っている」のに対し
火星人は「消化器官がなかったために身体が純化されすぎて、
微生物など異物の侵入にまったくもって弱かった」

水木しげるも『河童の三平』のなかで「消化器官」に注目し
「自分の身体は多数の主体の集合体である。だから強い」という

またフロイトの「エス」という「無意識的なもの」は
「抑圧された多数性の現れ」であって
「水木さんの描く妖怪のように、
多数の言語、多数の表現が、地中ならぬエスの中に、
それぞれ、まったく別の時間の流れを持って多層的に住んでいる。
隠れている。それが突然現れる。
自我は、いばっているけれど、
そのうちの可能性の一つでしかない」

「表向きの自我の底には、
得体の知れない他者の集まりである身体=エスがつねにある。
そうすると自我が、いくら自分の経験を勘定し、
自分の口座だけで一貫した収支決算をしようとしても、
うまくいかない。
水木さんのまんがが明解であるにもかかわらず、
了解しにくいところがあるとすれば、エスの原理同様に、
話の損得勘定、勝ち負けがわからないから」だという

以上のように
「私は私である」
「私には高次の自己がある」
といった捉え方では
得ることのできない認識がある

そうした認識のあらわれに立ち会うためには
繰り返しになるが
「一般的な善悪の判断(道徳意識)や
中枢的な感覚——主体化された実感に基づくのではなく、
むしろ主体の中枢的な制御に躊躇を与え、
「それでも、しかし」と
それを逃れていく特殊な判断」が必要になる

「でもの哲学」では示唆されてはいないが
ある意味でそれは「身心一如」であり
「身心脱落・脱落身心」
そして「脱落即現成」の「瞬間」が
そのあらわれでもあるのかもしれない

■岡崎乾二郎「でもの哲学」
      「一人のなかの妖怪たち」
(岡崎乾二郎『而今而後──批評のあとさき
       (岡崎乾二郎批評選集 vol.2) 』亜紀書房 2024/7)
■水木しげる『河童の三平』(ちくま文庫 1988/6)

**(「でもの哲学」より)

・1

*「世界は決して一つではない。その同期しえない無数の流れ、運動が、だが確実に同期しうる一点が存在する。

 人間はたとえ一人であっても決して、一人ではない。

 身体は無数の異なる器官の束であって、足の小指が感じていることを肝臓は知らず、拷問で耳がそぎ落とされている最中でも、胃腸は平然と空腹を訴え「グー」と不平の声を上げる。欲望は知性と無関係であり、考える葦でもある人間はオナラをしながら、パスカルを読んでいる。トラッキングが乱れたテレビ画像同様に、私たちの身体はアレルギーを起こす。身体が複数に分裂し(散漫に)、勝手な暴走をはじめるのはほとんどの病気の常である。

 病気は一人の身体から、別の身体へも伝染するし、ゆえにあくびもまた伝染する。

 私たちは知っている。

 真に信用に値する認識は固有の主体——身体には帰属しない。」

*「こうした認識の獲得は、身体が誰のものでもなくなり(統制——同期を失い)、それぞれの身体から、ばらばらに流れ出す————そのとき身体の諸部分が帰属を離れた自律性を獲得する————事態と正確に対応する。すなわち脳もまた身体であって、信頼に値する知とは、その脳が誰のものでもなくなり(主体的ないかなる統制、位置づけ、利害関係からも離れ)、自動計算をはじめたときに得られるのだ。

 真の認識は主体的ないかなる実感からも離れていなければならない。」

「倫理的であるとは、このように、外部化された認識(自分の予想を超えて自分の脳が引き出した答え)に忠実であることだ。それは、私たちの実感(中枢的な感覚)が切断されたときにだけ、得られうる至高の経験としてある。」

・2

*「技術と呼ばれるものは身体の統御をひとまず解体し、それを再編しなおすことによって習得される。」

*「職人の誰もが知っているように、手や足がそれぞれ独自の判断で自律的に動き出してしまうようにならなければ、信頼に足る技術を習得したとは言えない。バスの運転やレストランの料理が、運電子やコックの精神状態あるいは家庭の事情に影響されていたとしたら、なんと恐ろしいことか。すぐれた職人は、たとえ心の中で不埒な事柄を思い描いていようと、その手や足は勝手に、そして正確に動き、ほとんど自動的にまったく清らかな宗教画を仕上げてしまったりする。フラ・アンジェリコのすばらしさは、彼がそういう手を持ってしまったところにあるのであって、決して彼の人格の純粋さによるものではない。それはフィリッポ・リッピのことを考えればもっとよくわかる。そもそも、天使的なものとは固定した人格から外へと無制限に(惜しみなく)流出していくもののことを言う。

 猥談を話しながら、作曲したモーツアルトを思いだせ。」

・3

*「ここで、ようやく「でも」の哲学に私たちは辿り憑く。

*「「でも」、それは主体が唐突にその主体を放棄する瞬間である。死刑台に行く途中ですら、その瞬間は訪れる。明日の晩にチョコレートを食べよう。死の寸前に胃がそんなことを考え、うきうきしはじめる。この肝心なときに。

 しかし肝心な事柄とは所詮善悪の判断の範疇にあるにすぎなかった。死刑台に行く途上で、胃が思うチョコレートこそが真実の対象である。自分がそれを食べるわけではないがゆえに。でも、胃とともにわれわれの気分までわくわくしはじめるのはなぜか。真の認識を目指す者に善悪といった基準はおおよそ信頼しえない。それらは目的によって統御された主体的、つまりは対他的な認識であるがゆえに、必然的に限界を持つ。それはついに普遍的な知に到達しえない。善悪を万人のものとして正当化することはひたすら顚倒している。

「でも」はこの中枢的な欺瞞に、疑問を突きつける(かすかな高揚とともに)。いかなる危機も、その危機を根拠として確保される正当性もこのとき、一挙に解体される。「でも」という至高の切断————忘却によって。」

*「善悪という中枢的な判断が解体されるとき、すなわち、
  私たちが日常、道を歩いていて、ふと自分が誰であるか、わからなくなるとき、
  自分の鼻が花の匂いに同調して、思わず電信柱にぶつかってしまうとき、
  「でも」は確実にそこにある。自分の生死を忘れて、花の匂いに酔えるなら、
  とりあえずそれを美的判断として認めてもいいだろう。
  無数の異なる運動が同期しえるのはこの瞬間だけであり、ただここだけがチャンスである。
  正しい知識は、よい香りを持つ。そして必ず伝播する。
  世界はこんなふうに組み替えられる。」

・「でもの哲学」についてのノート
 [初出:『RAM DEMO SITE』(Web)二〇〇三年三月一〇日]

*「本稿で言うところの「でも」とは、イラク戦争に際して世界中で巻き起こった多種多様な半円運動(=「デモ」)を示すと共に、一般的な善悪の判断(道徳意識)や中枢的な感覚——主体化された実感に基づくのではなく、むしろ主体の中枢的な制御に躊躇を与え、「それでも、しかし」とそれを逃れていく特殊な判断を指している。この特殊な判断「でも」にこそ、場所を越えて連帯を可能にする契機があると説かれている。この点については、本書収録の水木しげる論(「一人のなかの妖怪たち」)における「消化器官」と「エス」についての考察も参照のこと。」

**(「一人のなかの妖怪たち」より)

・「微生物と消化器官、うんことエス」

*「スピルバーグ監督の《宇宙戦争》(2005)という映画が公開されていますね。H・G・ウェルズの原作。」

「この映画のもっとも奇妙な点は、(主人公トム・)クルーズが、不合理なまでに「どんなことがあっても、戦わないで逃げる」という信念を持っていることです。なぜ不合理かというと、そもそも逃げることが不可能であるとされている状況で、なお逃げるということがどういう意味なのか、という問いに関わります。」

「ともかく絶滅されることが必至であっても、なお逃げるというクルーズの思想は何だったのか。解決されないのは、この問題です。結末だけなら勝手に火星人が滅びてくれて運がよかっただけですから。最後にナレーションで「地球人は絶対に滅ぼせない。なぜなら地球人がは何百万年もの間、目に見えない微生物と共生してきたからだ」と流れる。つまり目に見えない、かつては。それがいるとも知らなかった微生物と何百万年もの間、人間は知らずに共生してきた。(・・・)逃げるとは、表向き存在しなくなっても、殺されてしまっても、あるいは降伏してしまっても、目に見えない部分は存在している、という事実に確信を置いた行動です。ゆえにゴキブリも細菌も絶滅させることはできない。せいぜい、その存在が意識されなくなるくらいに、どこかに見えなくなるということでしかない。クルーズは何百万年もの間、火星人が地下に潜っていたように、人間ではなく、微生物になってでも逃げるという選択をした。いかなる暴力も通用しない地下に潜る。まさにThe War of the Worldsのタイトル通り、この世界ではない他の世界に潜る。この見える世界で絶滅され見えなくなったとしても、その世界からは見えない他の世界、複数の世界がある。」

*「水木さんの『河童の三平』の不思議さ、魅力は、この世界観をもっと徹底したものでしょう。登場人物たちは、三平のおじいさんもお父さんも、水の精の娘も三平も、死んで幽霊になるのではなく、互いにもう会えない別の世界へ行く。もう会えない、もう終わり、では、さようならということが死です。生きている間にはもう決して会えない。しかし、それが本当に存在しなくなったのかどうかというのは、究極的には問うてもわからない。永遠に不明である。みんな死んでしまった一〇万年後にひょっこり生き返るかもしれない。」

*「原作のH・G・ウェルズのThe War of the Worldsには、捕まえた火星人を解剖する場面があるんですが、火星人の身体はきわめて合理的に発達していて、消化器官がない。身体のほとんどが脳です。反対に火星人の身体と比べると人間の身体はほとんど消化器官で支配されているということになります。外部から何かを取り入れて、長い時間をかけて消化して排泄するという消化作業に、人間の身体は空間も時間もエネルギーもとられている。こんな無駄なことはない。で、火星人は自分で消化するという労働をしないで、いきなり(地球人の消化=労働の成果である)血液を摂取する(もっともおぞましいのは、火星人が地球人の血を吸う場面ですが)ことで消化という無駄を排除したのだと(これが当時のイギリスの植民地政策を揶揄しているのは明らかですが)。しかし、火星人の身体のこうした合理的な仕組みが、火星人の命とりになる。消化器官がなかったために身体が純化されすぎて、微生物など異物の侵入にまったくもって弱かったわけです。対して人間は消化と免疫のために、目に見えない他者、微生物や寄生虫を身体の中に自分でも知りえないくらい無数に飼っているわけですから、もともと不純だからこそ汚れたものを食べても大丈夫なのね。

 けれど、こうした消化器官への注目ということこそ、水木しげるのなんが、そして描かれたものの特徴でもあった。」

*「自分の身体は多数の主体の集合体である。だから強い。これはH・G・ウェルズの原作の結論と同じです。一人の人間とは多数の主体の集合体である。この原理を戦争のモデルに置き換えてみると、敵、見方双方にそれぞれを統制する支配者がいて、そのどちらかが降伏すれば、戦争には勝ったことになる。けれど、その統制する代表が代表を名乗るだけで、実際はちっとも代表ではなく、ばらばらにすぐ分解してしまうのだったらどうなのか。

 たとえば暴力が暴力として効力を持つのが、相手の主体および行動をいやおうなしに従わせ支配することにあるとしたら、そしてそれが暴力的抗争の勝ちを意味するのであれば、そうした勝ち負けが成り立つ限り、最終的なもっとも強力な暴力とうものもあるはずだという論になるでしょう。そして、そもそも「国家は国家である」という根拠不明のものが存在することをみなが認めているのは、そうした暴力を国家が独占しているがゆえだというストレートな論も成り立つのでしょうが、この論は暴力を行使する双方の主体が安定していることを前提にしており、それが安定していなければ、そもそも勝ち負けも成立せず、暴力の効果もなくなるということになる。ゆえに、いかなる暴力であれ、うんこの太さも制御することができないというのが水木しげる+H・G・ウェルズの考えなんですね。」

・水木式損得勘定

*「第一次大戦後、ヨーロッパでは文化の枠組みが大きく変容しました。いままで、まっすぐ進んでいると思われていた歴史が終わるわけですね。そしてそれぞれが異なる時間を刻む多数の文化、言語が多層的にあることを認識せざるをえなくなった。この多数性は一人の人間の中にもある。フロイトもそれまでの「意識」「前意識」「無意識」の三つ組みの理論を大きく転回して、「超自我」「自我」「エス」(英語では「IT」、スティーヴン・キングが小説にしています)の三つ組みのモデルに展開する。

 もっとも重要なのが「エス」です。エスを導入することで無意識を実体的に捉えることを止めるんですね。」

「それをフロイトは「無意識的なもの」と呼んでいます。「無意識」という実体を持っているような名称ではなく、「無意識的なもの」と言い換えた。それは無意識ではなく、抑圧された多数性の現れなわけですね。こうして、まさに水木さんの描く妖怪のように、多数の言語、多数の表現が、地中からぬエスの中に、それぞれ、まったく別の時間の流れを持って多層的に住んでいる。隠れている。それが突然現れる。自我は、いばっているけれど、そのうちの可能性の一つでしかない。」

*「こうして妖怪というのは、自分の外にいっぱいあるだけでなく、スティーヴン・キングが書いたようにエス(IT)として自分の中にも、たくさん住んでいる。ゆえに河原三平を自我とする少年が河童かん平にひっくり返る可能性がつねにある。柳田国男が気づいていたことも同じだと思います。」

*「そういうわけで、表向きの自我の底には、得体の知れない他者の集まりである身体=エスがつねにある。そうすると自我が、いくら自分の経験を勘定し、自分の口座だけで一貫した収支決算をしようとしても、うまくいかない。水木さんのまんがが明解であるにもかかわらず、了解しにくいところがあるとすれば、エスの原理同様に、話の損得勘定、勝ち負けがわからないからですね。儲かったのか損をしたのか、計算ができない。惨めなのか、幸福なのか、英雄伝なのか、悲劇なのか、喜劇なのか、主人公が一つに確定できず、妖怪さながら身体の消化器官レベル、微生物レベルまで変化(へんげ)し、複数に化けていってしまうから、一つの口座で決算ができない。消化器官や微生物のシャドウワークにもきちとお給料を払わなくてはいけない、そういうモノたちを無視して未払いにしていると、忘れた頃にきっと最速に現れそうで怖いわけです。計算しないで貯め込んでいると、水木しげる二等兵が溜め込んだ巨大なうんこみたいに、突然、切ろうにも切れない大きなものが出てきたりする。これが戦争を深く経験した、フロイト+水木しげるの教訓です。」

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