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エリアーデ『生と再生』

mediopos-2238

かつて
死と復活の秘儀は
イニシエーションとして
制度化されていた

現代にもさまざまな儀式は存在しているが
それはすでにその宗教的意義を喪い
ほんらいの意味が忘れられた
エポック行事となっている

おそらくそれらの喪失には
喪失することでしか得られない
それなりの意味があるだろう

かつてすべては制度のなかで
遂行された義務として与えられることでしか
習得することのできない魂があった
集合的なかたちの物語のなかでしか
魂はみずからを再生させることができなかったのだ

現代人の魂は
海原に放置されている孤独な魂だ
そのただなかの生において
みずから魂を再生させなければならない
そしてそれが可能な段階に
現代人の魂はあるということでもある

かつては教えられることでしか得られなかったが
これからは自由においてみずから学ばなければならない
それは嵐のなかに放り出された小舟のように
波風に翻弄され死の恐怖のまえで
孤独に対さなければならない

そこに厳粛な導師はもはやその姿はない
みずからの思考と感情と意志において
みずからの道をひらいていかなければならない

そのための知識は世に充ちているが
知識は知識を超えられない
知識はみずからが引き受ける試練によってしか
経験となることはないのだから

死と復活の秘儀としてのイニシエーションは
現代においてはひとり一人の自由において
なされていかなかければならない
集合的なかたちでしかなされない儀式は
すでに過去への退行でしかない

試練は生きることそのものにある
ひとり孤独に生を歩むこと
そしてそれゆえに共同できる生
それこそが現代のイニシエーションではないか

■M.エリアーデ(堀一郎 訳)
 『生と再生/イニシエーションの宗教的意義』
 (東京大学出版会 1971.7)

「近代世界の特色の一つは、深い意義を持つイニシエーション儀礼が消滅し去ったことだとよくいわれる、伝承社会では第一義的な重要性を持つこの儀礼も、近代の西欧世界ではめぼしいものは実際上存在していない。」
「近代人はもはや伝統的な型のいかなる加入礼も持っていない。何ほどかの加入礼的テーマはキリスト教にも残っているが、いろいろのキリスト教派はもはやこれを加入礼的価値を持つものとは認めていない。古代後期の密儀宗教から借用した儀礼や影像や術後は、その加入礼的雰囲気を失ってしまっている。」

「加入礼は正しく人生の核に横たわっている。そして二つの理由から、この見方は正しい。第一は、正しい人生とは深刻な危機、責苦、苦悩、自我の喪失と再確立、「死と復活」を含意するからである。第二の理由は、ある程度仕事を成就したにしても、ある時点では万人がその人生を失敗と見るという点である。この幻想はその人の過去に対してなされる倫理的判断からではなくて、その召命(天職)をとりにがしたとの漠然たる感情からおこるのである。つまり、その人はみずからのうちにある最善なるものを裏切ったという感情である。こうした全面的な危機の時点で、ただひとつの希望、人生をもう一度始めからやり直すという希望だけが、ある成果をもたらすように思われる。要するに、このことは、こうした危機に見舞われている人は、新しい、再生された生活を充分に意義あるものにしようとの夢を持つことなのである。それは宇宙が更新されるように、万人の魂が季節的にみずから更新されるといった漠然たる希求以外のもの、それをはるかに越えたものである。こうした八方塞がりの危機に際する夢は決定的で、全体的なレノヴァティオ(renovatio)=生命の変革できる更新を獲得することである。
 しかし、真の決定的回心は近代社会では比較的稀れである。非宗教的人間もときとして、その存在の最深部にこの種の精神的変革への希求を感じとるという事実こそ、もっとも重要なものと考えられるのだ。これは、ほかの文化圏ではまさしく加入礼の目的とするところなのである。それは伝統的加入礼がどの程度その期待を充足したかを断定しようというのではない。大切なことは、伝統的加入礼が人間生命の変革の意図をあきらかにし、その手段を持つことを公言している点である。加入礼的更新へのノスタルヂャが、近代の非宗教的人間の最深部から時折りおこるという点がたいへん重要なもののように思えるのだ。それは人間が「死」に積極的意義を見出し、「死」をより高い存在様式への過渡の儀礼としてうけとろうとする永遠の願いの近代的な公式をあらわしているように見える。加入礼が人間存在の特殊次元を形づくっているといい得るとすれば、それは何よりも「死」に積極的価値を与えたからである。「死」は「時間」の破壊的行為に従わない存在様式にいたる、新しい純粋に礼的な誕生を用意するものなのである。」

「イニシエーションという語のいちばんひろい意味は、一個の儀礼と口頭教育(oral teachings)群をあらわすが、その目的は、加入させる人間の宗教的・社会的地位を決定的に変更することである。哲学的に言うなら、イニシエーションは実存条件の根本的変革というにひとしい。修練者(novice)はイニシエーションをうける以前に持っていたものとまったくちがったものを授けられる、きびしい試練をのり越えて、まったく「別人」となる。いろいろのイニシエーションの範疇のなかで、成人式(Puberty Initiation)はとくに前近代人には大切なものと考えられていた。こうした「過渡の儀礼(“transition rites”)はその部族の全少年に義務づけられている。おとなの仲間入りを許される権利を獲得するために、少年は一連のイニシエーション的苦業を通過しなければならない。彼がその社会の責任あるメンバーとして認められるのは、これらの儀礼の力によるのであり、またその苦業が課すところの啓示に負うのである。イニシエーションは志願者(candidate)を人間社会に、そして精神的・文化的価値の世界に導き入れる。彼はおとなの行動の型や、技術と慣例(制度)を習得するだけでなく、またその部族の聖なる神話と伝承、神々の名や、神々の働きについての物語を学ぶ。何よりも、彼はその部族と超自然者との間に、天地開闢のときの初めにあたって樹立された神秘的な関係について知らされるのである。」

「宇宙開闢を儀礼的にくりかえすことは、カオスへと象徴的に逆戻りすりことがつねに先行する。新たに創造されるためには、古い世界はまず滅ぼされなければならない。新年に結びついて演ぜられる種々の儀礼には、二つの主要なカテゴリーがあてはめられる。すなわち、第一はカオスへの逆転をしめす儀礼(すなわち、火を吹きけすこと、「悪」と罪の祓浄、慣習的行為の倒錯、オージー<Orgies>、死者のこの世への帰還)であり、第二は天地開闢を象徴する儀礼(新しい火を点ずること、死者のあの世への出発、神々がこの世をつくりなせるわざのくりかえし、きたるべき年の天候の厳粛な予報)である。」
「すべての再生や復活の儀礼と、それらを含む象徴は、修練者が別の存在様式、つまりイニシエーションのきびしい試練に耐えられない人や、死を経験しなかった人々には近づきがたい存在に到達したことを示している。われわれはこの古代心性(archaic mentality)の特徴に注意しなければならない。すなわち、一つの状態はまず滅却させられることなしには変更され得ないという信仰、−−−−今の場合でいうなら、子供としての幼年時代を死ぬことなしには変革させられ得ないという信仰である。この始原に結びつくということの重要性、つまり絶対的始原、天地開闢と結びつくことの重要性はどんなに強調してもしるぎるということはない。あることがらがうまく行くためには、それは始めのときになされたようになされなければならない。」

「現代用語でいうなら、イニシエーションは自然人たることをやめさせ、修練者を文化に導くものである。しかし、古代社会にとっては、文化は人類の所産ではなく、その起源は超自然的のものである。それだけではない。人が神々や他の超自然的存在の世界との接触を再現し、それらの創造的エネルギーにあずかるのは、じつにこの文化を通してである。超自然的存在者の世界は事物の始めておこりし世界−−−−そこで最初の樹木や最初の動物があらわれた世界。そこでの一つわざ、それ以降宗教的にくりかえされるわざが始めて演ぜられた世界。そこで神々や英雄が、例えば、かくかくの遭遇をなし、かくかくの災難になやみ、特殊な言葉を発し、特殊の規範を宣言した世界である。神話はわれわれをたんに「物語られる」だけで記述され得ない世界へと導き入れる。なぜならそれは自由に企てられたわざの、予知しがたき決断の、荒唐無稽の変形の歴史から成り立っている。要するに、それはこの世の創造以来おこった重要なあらゆることがらの歴史、人間を現在あるごとくつくりなすにあずかったあらゆるできごとの歴史である。修練者はそのイニシエーションでその部族の神話的伝承を教えられるが、それは世界と人類の聖なる歴史を教えられることなのである。
 この理由かた、イニシエーションは前近代人の知識にとって、ひじょうに重要なものである。それはほとんどふるえ上がるほどの恐ろしい厳粛さを啓示する。それによって古代人社会は精神的価値をうけとり、これを伝達する責任を担うことになるのである。」

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