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古東哲明『沈黙を生きる哲学』

☆mediopos2961  2022.12.26

「沈黙」について考えるようになったのは
高校生のとき図書館で見つけた
M・ピカート『沈黙の世界』だった

それ以来おりにふれずっと
「沈黙」について考えてきた

その「沈黙」についての深みに迫る一冊

著者の古東哲明には
『〈在る〉ことの不思議』という懐かしい著書があるが
「沈黙」こそが「存在神秘」に気づくために必要であり
そこから「〈在る〉こと」を汲み出すことができる

ここでいう「沈黙」とは勿論
ただ無言でいるということではない

まずこの世この生の原初に「非知なまま」触れ(沈淪)
それにより視座転換が起き(変容)
この世この生の真相・深層[=存在神秘]に
目覚めること(覚醒)

この三つの非言語的根本体験が重層的に起きる営みが
「沈黙」としてとらえられている

著者によればわたしたちは
「質的にまったく異なる二つの次元」を生きている

対象像(音・色・形・匂・触)となったものを
現実だと思いこんでいる位相と
その「対象化の前提となって暗黙裡に沈黙のうちで
生きられてしまっている、不可視の実在世界」の位相である

後者の位相は
静寂を生きることであり
沈黙を生きることにほかならない

ノヴァーリスも言っているようにそれは
「見えないもの」
「聞こえないもの
「感じられないもの」
「考えられないもの」である

にもかかわらず
それらすべての源泉となっているものがある

そうした深い沈黙としての「存在神秘」にふれることで
現代が陥っているであろうニヒリズムを克服するための
根源的な源泉としての「倫理」に出会うことができる

根源的な「倫理」とは
何が悪くて何が善い
といったようなありかたではない
それらすべての源から涌き出ている
「存在」の「原水」を汲みだし
それを呑むということにほかならない

そのためにこそ「沈黙を生きる」
そうしてはじめて「存在神秘」へと開かれることができる

■古東 哲明『沈黙を生きる哲学』
 (夕日書房 光文社 2022/12)

(「序章 なぜ沈黙なのか」より)

「沈黙するのは、なかなかむつかしい。口を閉ざし、なにも喋らなければ、それが沈黙というわけではないからです。沈黙は、無言になることではありません。」

「沈黙こそが、唯一、存在(実在・リアリティ)に触れる態度だということです。この「存在の別名が静寂です。静寂にほかならない存在に触れ、存在の真相を味わうとき、さまざまな痛苦や難問を脱ける道が、開かれるということです。」

「沈黙こそ、実在への通底回路です。沈黙において、ぼくらは実在世界に「じかに触れて」います。郡司ペギオ幸夫さんのご労作のタイトルと思索エッセンスをおかりして言えば、沈黙は「天然知能」が働く現場であり、実在は沈黙のなかで「やってくる」。というより、沈黙は「実座員家」。存在が素材となり、存在が主導し造りなし、存在の静寂の響きをひびかせる家です。沈黙の考察が、新実在論が求める隘路を拓くはずです。」

「質的にまったく異なる二つの次元を、同時にごくあたりまえのように、ぼくらは生きていることになります。音や匂いや色のあるモノゴト(対象像)の位相と、そうした色形あるモノゴトが「そこに於いて在る場」の位相です。

 それぞれを、B位相とA位相と名づけておきましょう。

 対象像(音・色・形・匂・触)となったものを、ぼくたちは現実と即断し、対象像の世界(B位相=形而下世界=ルーパ)が現実だと、思いこんで疑いません。しかし、対象像なるB位相が成立するためには、すでにぼくらは、対象化の前提となって暗黙裡に沈黙のうちで生きられてしまっている、不可視の実在世界(A位相=形而上世界=空=「於いて在る不可視の場」=静寂)につつまれ、それを土台に生きていなければなりません。

 しかも、その包摂的で非意識的な土台であるA位相(・・・)を、対象化することは永劫にできません。対象化したとたん、それはB位相(・・・)」に転化してしまい、A位相自体は逃げ水のようにして、対象化する視線の向こう側へ、逃げ去ってしまうからです。A位相は、「じかに直接それを生きる」という仕方以外、つまり沈黙で触れる以外、ぼくらには近づきえない奇妙な場(だからプラトンは「コーラ」と名づける)というしかありません。にもかかわらず、音色形あるモノゴトがそれとして経験されるとき、そのモノゴトがそこに於いて存在し、またそのモノゴトの経験がどこに於いて生起する先行事実として、迫るほどの間近さで、かならず実在しています。

 その意味でA位相は、もろもろのモノゴトがそこに「於いて在る場」です。端的にモノゴトが「存在する場」。もっち正確にいえば、モノゴトが存在するという、その「存在の事実がつくりなす次元」です。(・・・)それは、普段のぼくらの対象化する意識では見つけることができぬほど、無限に遠い彼方をなしますが、同時につねにぼくらの足下に、静寂の沈黙の中で、じかに生きて嗅ぎ分けられ続ける次元です。」

「現実(存在)とが、そしてほんとうの自己とは、そんな不可視で非意識的な存在次元のことです。そのあまりもの透明性・静寂性のため、五感的位相から脱漏してしまい、いつも不断に非思量化しています。(・・・)

 この二つの位相の区別と、二つの位相の間の往還こそ、じつは哲学的思考や宗教的覚醒や芸術的創造などが、ゆきかう活動圏です。そして、A位相に非思量(思弁)というしかたで、じかに「触れている/触れられている」認識態度が、「沈黙」です。そんな沈黙が触れているA位相は、あるいは「ほんとうの自分」は、必然的に「沈黙態=静寂」ということになります。沈黙において、ぼくらははじめて、自分自身に出逢うことにもなりましょう」

(「第二章 非知に触れる」より)

「非知は、「観念がその限界をさらしだすような地点————あらゆる観念の彼方」(バタイユ『非知』)。ですから、「知はひろがっていくにちつれ、非知のなかに消えていく」ことになります。ぼくら人間は、「言葉によって反省し思考する」のですが、その「思考の対象が言葉に収まらなくなる瞬間」を、つまり〈沈黙〉をむかえるわけです。

 哲学詩人ノヴァーリスは、そんな知の極限をつぎのように詠っています。

  見えるものすべては、見えないものに触れている。
  聞こえるものは、聞こえないものに触れている。
  感じられるものは、感じられないものに触れている。
  おそらく、考えられるものは、考えられないものに触れているだろう。
  (ノヴァーリス「光についての論文」『新断片集』二一二〇節)

「考えられるもの」が触れているだろう「考えられないもの」。これが非知の闇です。

 だとすれば当然ですが、非知におちいるそのとき、そこには、深く広大な沈黙がひろがっているはずです。」

(「終章 黙受————海容倫理の可能性」より)

「 沈黙は、ゆるしと愛のための自然な土台である。(M・ピカート『沈黙の世界』)」

「神〔究極原理〕の死ゆえ、「すべてがゆるされている」。それが現代の思想状況。だから、人はこう生きるべきであると唱えるような「倫理」とか、あるいはM・ガブリエルも言う「普遍的価値」など、もはや成立不可能な仮名念仏。そう想われている時代です。

 ですが、そのうえでなお、倫理(生の堅固な指針)は一形態のみ可能だと、ぼくは考えています。その唯一可能な倫理とは、「すべてをゆるる倫理」。「海容倫理」と名づけておきましょう。

「すべてがゆるされている」状況を大前提にする生き方(倫理)だから、論理的に考えてももう、「すべてをゆるす」生き方しかないでしょう。」

「そんな倫理のさらなる源泉はなんでしょう。倫理の源泉とは、倫理を成立させている暗黙裡の前提、倫理を可能にしている深奥の原理のこと。山奥や地下に源泉あって水が湧き出るように、隠れた深奥に源泉あってはじめて、倫理という水も湧き出てきます。(・・・)
 そんな倫理の源泉(原動力)とは、ではなんでしょう。モノゴトの存在を大切に想い大切にしようとする生き方を導きだしてくる源泉はなんでしょう。」

「倫理の源泉は、存在です。よりていねいに言えば、深い沈黙のなかで、存在を神秘だと洞察(覚醒)すれば、自然に湧き出る「存在畏敬」の想いです。なんであれ、その存在は、理論的には在りえないことの実現、つまり神秘・奇蹟。そんな奇蹟の存在を前にすれば、いやでもそれを尊い・冒しがたいと想う気持ち、つまり存在畏敬が内発し、存在畏敬の想いがおのずから、モノゴトの存在を大切に想い、モノゴトに大切にかかわろうとする生き方・生の指針、つまり倫理を発露させます。(・・・)

 つまりは、存在が倫理の源泉(原動力)です。存在している、たったそれだけでもう、すでに倫理という水は涌きでている。あとはそのこと〔存在の真実=存在神秘〕に気づき、倫理の原水を汲みだし、豪奢に飲み干せばいい。こんな簡素な真実を、ぼくら人類は長いあいだ忘れてきました。なぜなた、漢人「存在を忘却してきたから」(ハイデガー)です。

 その存在に触れる通底回路は、沈黙。だからつまりは、「沈黙を生きるのを忘れてきた」。そのため、存在の凄さ(存在神秘)を見すごし、存在への畏敬の想いを忘失し、存在を源泉とする倫理の泉が枯れてしまった。」

「考えてみたら、海はすごい。なにもかもを受け容れます。(・・・)

 そんな海のように、善いことはもちろん、悪いことももろともに、嘆き哀しみつつも受け容れ、黙々と呑みこむ態度・生き方。それが倫理ということになります。」

◎古東哲明(ことう・てつあき)

1950年生まれ。京都大学哲学科卒業、同大学院博士課程単位取得満期退学。広島大学名誉教授、NHK文化センター教員。専門は、哲学、現代思想。著書に『〈在る〉ことの不思議』(勁草書房)、『現代思想としてのギリシア哲学』(ちくま学芸文庫)、『ハイデガー=存在神秘の哲学』(講談社現代新書)、『他界からのまなざし』(講談社選書メチエ)、『瞬間を生きる哲学』(筑摩選書)、『マインドフルネスの背後にあるもの』(サンガ、共著)などがある。

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