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尹雄大『親指が行方不明/心も身体もままならないけど生きてます』

☆mediopos2670  2022.3.9

ひとはだれでも
じぶんだけの心と身体をもっている

そして心と身体にズレを感じるひともいれば
ズレを意識しないで生きているひともいるけれど
ほんとうはおそらくだれでもそれなりにズレている

それを感じにくいとすれば
「正しい」として教えられた通りに
じぶんをいわば調教しているからだ

なぜ調教するかといえば
「心と身体を意識的にチューニングしないと
社会との整合性がとれない」からだ

そうした調教を
ごくふつうに受けとめているひとと
そうではないひとがいる

著者の尹雄大はもちろん後者であるが
「ズレ」としてではなく
「あいだ」として捉えようとする

「ズレ」としてとらえると
そこに向かうべき「正しさやまともさ」があるが
「あいだ」にはそれはないから
「ズレを正すのではなく、統合をズラしたい」のだという

「現実」といわれているものはひとつではない
「多種多様な層で成り立っている」
そこには見えない無形の身体があるのだが
それはもちろん「内観とでも言うほかない内側に
目を向けて初めて観えてくる身体」である
そしてそれは「自分の思いのままに」はならない

教えられたとおりにじぶんの心と身体を
みんなと同じような「正しさやまともさ」に
調教しようとしているのが現代であるともいえる
それが社会に適用して生きることだからだ
そのときほんらいある「ズレ」は意識されない

みんなと同じような「正しさやまともさ」に
適応できないひとは生きづらさを感じるけれど
それは決して間違っているからではない

そうした「差異」を解消する方向ではなく
多層的な次元で生きられるようにすることで
まさに「ズレを正すのではなく、統合をズラ」し
「あいだ」を生きられるようにすること

そうすることではじめて「みんな一緒」ではなく
「あいだ」で「他者」と生きるということも可能となる

■尹雄大
『親指が行方不明/心も身体もままならないけど生きてます』
 (晶文社 2022/3)

(「終わりに」より)

「僕の中には意識で統御したり、精神で統合できたりしない他者がたくさん存在する。それらの存在を煩わしく感じていたのは、まともであろうとすると決まって足を引っ張るからだ。
 たとえば、人とうまく付き合わないといけないと思っているのに、ちゃんとしゃべれないどころか緊張のあまり心のシャッターを下ろしがちで拒絶してしまう。話しかけられても、そっぽを向いてしまうことだってある。
 そんな自分を「なんて社会性がないんだ」と責めてはみても、一向に態度は改まらない。いくら「社会性がないのはいけないことだ」とジャッジしても、同じことを繰り返す。自分は何か欠落しているのではないかとすら思い始める。
 仮に、この現実と呼ばれる次元の社会においては、明らかに不具合を示す振る舞いだったとしても、それを行うだけの理由がある。
 僕たちはそうした自分の必然性に注目することなく、外部に正しさの基準を求め、それと照らし合わせて自分を糾弾することに熱心だ。決して自分の中の「そうせざるを得ない人」の言い分を聞きはしない、「そうせざるを得ない人」とはかつての自分であり、取り残された記憶であり、自己の中の他者だ。
 僕がなぜ人とうまく話せなかったり、他者と関われない自閉的な態度をとってしまうようになったか。
(・・・)
 届く声に耳を貸すと自分が危ういがゆえに閉じることを学んだのかもしれない。感覚が混乱してしまい、右往左往する事態から身を守るために閉じることを学んだ。自分が生きながらえる上では相応しい、自閉する身体にはなったものの、それは社会をうまく生きる上では似つかわしくない身体となったと言える。

 感覚を遮断し、自閉するという身体は硬さ、過緊張、萎縮を特徴とするようになった。比べてコミュニケーション能力の闊達さを良しとするような社会においては、身体は柔らかく、開かれて、つながりやすいことが尊ばれる。僕もそういうふうになりたいと望んでいた。そうなれば、きっと生きやすくなると思ったからだ。
 見落としていたのは、硬さ、過緊張、萎縮の身体が自分のすべてではないということだ。別の身体の層があると発見できるようになってからは、社会の要求する身体とはどういうものか? が見える観えてきた。
 それは情報に感化されやすい、共感を示すことを優位にするあまりに他者に乗っ取られやすいものでもあり、したがって自分がいるという感覚も薄く、そのことに疑問を持たない、有り体に言えば、腰が抜け、腹がなく、足元もおぼつかない。自信が持てないから他者の成功体験を情報として取り入れようとする。
 だから悪いというのではなく、社会に適応すれば自ずとそうなるのだろう。
 適応するから社会を生きやすくなったとしても、生命として見た場合に果たしてそれで生きることを全うしていると言えるぼか。いまはそんなふうに思うようになっている。

 僕のぎこちなくまとまらない、ままならない身体は、現世における生きやすさと手を結ぶことは、この先もないかもしれない。
 だからと言って、ぎこちなさ、まとまらなさ、ままならなさの必然性を生きることは、「そのままでいいのだ」と居直ることを意味しない。そうならざるを得ない理由があったとしても、それをもたらす身体の層を省みることはしていたい。」

(「第1章 バラバラにズレた心と身体のあいだの観察」より)

「僕が一貫して強いこだわりを見せたのは、心と身体との噛み合わなさをズレとしてではなく、「あいだ」として捉えることだった。世間はそれをズレと呼ぶ。本来あるべきところから外れた状態だからだ。そのためズレをいかに「最小化していくか」に関心を払う。それが治療と呼ばれもするだろう。
 だけど、心と身体の不一致はズレであるけれど、僕には「あいだ」でもあった。だから正しさやまともさに戻る必要がない。あいだには正誤もないのだから。」

「心と身体を意識的にチューニングしないと社会との整合性がとれない。
 でも、僕は整合性が取れないままに生きてきた。それが生きづらい状態を引き起こすのだけれど、整合性が取れてしまっては、かえって統合を失調したにちがいない。ここが悩ましいところだ。

 なぜなら社会に合わせて自分を統合しようとしたら、「あいだ」はあいだではなくなり、単なる断絶になってしまい引き裂かれた状態になるからだ。無自覚か本能かわからないけれど、僕は生きづらさを盾にして「あいだ」をズレに回収させずに自身を生き延びさせてきたのかもしれない。」

(「第2章 ズレているのにズレてはいけない奇妙な世界」より)

「心と身体が一致している状態など、ブッダやキリストのレベルでもない限り、とうていかなわない。無理だと思う。だから誰しもみんなズレている。ただ、ズレを隠したり、埋めたりできるようになるのが成長や発達だと思っているようだ。ズレてはいけないという考えと実際の自分とが癒着しすぎて、ズレを罪悪感で捉えることしかできなくなっている。そういうメカニズムを何気ない日常の中で体得しているように思える。」

「社会と自分とがズレなく接続するためには、その下ごしらえとして自分の心と身体が社会から逸脱しないようにしつけておく必要がある。
(・・・)
 統合の「統」とは「すべる」を表し、「ひとつにまとめる」「全体をまとめて支配する」を意味する。これと普段の暮らしで慣れている「意識する」という言い回しが合わさって、無自覚のうちに僕らに強いているのは、「意識で自身を支配する」「意識的な行為によって物事をコントロールする」だ。」
(・・・)
 僕はズレを正すのではなく、統合をズラしたい。
 統合とそれが目指すものとの「あいだ」に手を突っ込んで、その切れ目から見える景色を見てみたい。
(・・・)
 僕らが心や身体を統合しようと試みるとき、自身に対して権力的な振る舞いをしている。無意識のうちに。」

(第3章 「あいだ」から見た現実」より)

「人間が現実と呼んでいる世界は奇妙だ。
「あれをしなくてはいけない」とか「こうでなければならない」といった発想を当たり前にしている時点でかなりズレている。そのズレを意識によって埋めることがまともだと思われている。」

「僕らが生きる、この現実はたったひとつだけではない。
 もっと多種多様な層で成り立っているし、現実には穴も空いていれば亀裂も走っている。」

「それぞれの困難を「生きづらい」という説明に預けてしまうとき、社会化が始まっている。自分の身体で感じていることなのに、みんなと共感できるつらさと地続きになってしまっている。僕はそれを「滑らかにコントロールされた身体」と呼びたい。」

「「見えない」から「ない」のではなく、「見えない」からこそ真に「ある」のだと言えないだろうか。
 それは手で触って目で見て確認できる、物質的な層の肉体ではない。無形の身体が確実に人間にはある。そもそも生命は無形の現象だ。この身体という有形は結果であり、原因は無形の何かだ。(・・・)
 最も生命がその本領を生き生きと発揮している瞬間は、必ずや無形のはずだ。生命の活力は決して目には見えないものだからだ。
 肉眼で捉えられるような客観的・物理的な身体ではなく、内観とでも言うほかない内側に目を向けて初めて観えてくる身体がある。」

(「第4章 身体観から現実を捉える」より)

「「苦しいと感じている」と言葉にして、それを繰り返し唱える演出を自分に許すとき、「苦しい」と「感じている」が癒着している。そのあいだをきつく結ぶのが意識や精神だったりする。本当に苦しさ、生きづらさを内省するのであれば、癒着してしまった言葉の外から自分を眺める必要があるはずだ。言葉の外にあるのが身体だ。そして。それは層になっており、肉体の次元と内観の次元では、それぞれ色合いが異なる。」

「いまの社会でやたらと共感が強調されるのをずっと不思議に思っていたけれど、干渉し合って互いの壁を溶かしたいからなのかなとも思う。
 というのも、「共感が大事」というコンセプトの行き着く先は、「私とあなたは一緒」だからだ。親密さの最大の高まりとは、互いの違いを超えて、共感しかないような境地を言うのだろうか。
(・・・)
 親密圏というときの「圏」は自分を囲っている非物質的な場だ。
 目で見たり手で触ることもできない。けれど、誰しも自分が自分として保たれる領域があり、それが破られると心持ちが不安定になる。心が不安になれば動悸がしたり、脂汗をかいたり、足がすくんだり、と人によってさまざまな反応が身体に生じる。
 ということは、非物理的で知覚できない域で何事かが起きると、認識の及ばない層に属する身体がちゃんと反応するということだ。非物質的な域において見えないものやことに応じている。」

(「第5章 武術で知った身体と現実の多層性」より)

「この身体が「自分の思いのままになる」という設定がそもそも幻だと気づくと、「ままならない」と感じていることは、それはそれとして尊重すればいいのだとわかってくる。そうならないだけの必然性が僕の中にあるからだ。」

「異なる言語を話す人の言い分をわかろうとするならば、いまの自分にはまったく理解できない言語を習得するほかない。そうすることで、向こう側からこちらを省みることができるようになる。自分の中にさまざまな他者が芽生える。それが多様な感性を養っていくのであって、異文化を概念的に理解することは多様な生き方を保証するものではないだろう。
 僕は統合されていない身体としてここにいる。さまざまな問題を起こしはする。だけど、いまはその問題は他者としての僕が多様さとは何かを身体をかけて問うているのだと思えるようになっている。それはそれで存外悪くないなと思い始めている。」

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