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中村 隆文『世界がわかる比較思想史入門』

☆mediopos-2549  2021.11.8

『世界がわかる比較思想史入門』は
その名の通り世界の思想を比較した本だが
それは思想の比較そのものが目的ではなさそうだ

本書では
ギリシア・ローマ文化における
 神話と哲学と法
ユダヤ教・キリスト教・イスラームにおける
 同じ神を崇める啓示宗教
インド思想における
 業と輪廻
中国思想における
 「天」と「道」の思想
日本思想における
 多面的な日本的価値観
近代の哲学思想における
 理性の時代
現代思想における
 啓蒙の先にある多様性
といった「思想」が「比較」されるが

それらの「情報」を得ることだけでは
ただの知識・教養の衣装にすぎない
重要なのは
文化の背後にある構造や歴史を踏まえながら
そこにある「何か」を摑むこと

「世界がわかる」は
「自分がわかる」ということでもある

「自分のことは自分が一番分かっている」
という単純な思い込みは
「自分のことをわかっていない」
ということを意味するといってもいいほどだ

「世界がわかる」ぶんだけ「自分がわか」り
「自分がわかる」ぶんだけ「世界がわかる」
ということを前提にすれば
自分を他者であるように観察することが求められる

自分の分かっているだろうことや
分かっていないだろうこと
どうしても分かりえないだろうことを
思い込みをでき得る限り去りながら
可能なかぎり捉えてみるということだ

そうすることで
自分のなかに可能性としてある
「思考・価値観・世界観」の「多面構造」がみえてくる
そのための比較思想史でもあるのだ
そしてその「多面構造」は人の数だけ異なっている

そこから「何か」を摑むということは
みずからの生き方そのものを
生きることそのものとして
「行」じるということ

「世俗的な意味連関」のとらわれから離れ
いま生きている自分の価値観の
中心にあるものに目を向け
それがいったい自分のなかで
どんな意味を持つのか
かけがえのないものなのかどうか
それらを検証しつつ生きるということでもある

わからないならば
まずわからないことがあることを確かめながら
「何か」を摑むために「行」じる

「行じる」というと誤解があるかもしれないが
宗教的な行のようなものではない
自分を分かるというあくなき旅そのもののことだ

■中村 隆文『世界がわかる比較思想史入門』
 (ちくま新書 筑摩書房 2021/1)

「人間の思考・価値観・世界観というのは多面構造的であって、誰かを−−−−それが他人であっても自分であっても−−−−理解するにあたっては、その振る舞いや考え方を形作っている文化的・思想的背景をきちんと捉える必要がある。そして、それはより良いコミュニケーションの可能性でもある。たとえ互いに完全には同意し合えなくても、相手の振るまいにはなんらかの意味・理由があるということを理解することで、互いに互いの人格を等しいものとして尊重する道が拓けてゆく。
 異文化コミュニケーションの重要性が唱えられてずいぶん久しいが、そもそもその前提としての異文化理解とはどのようなことなのか? それは単に、自分とは異なる文化の「情報」を網羅的に知ることではないだろう。本やネットで調べれば、それぞれの国がどの点で違うのかなどはすぐに分かる。そうではなく、異文化理解とは、それぞれの文化の背後にある構造や歴史を踏まえつつ、自身のそれとはどのように同じでありどのように異なるのかを比較し、「何か」を摑むことにあるのではないだろうか。それは決して、単なる表向きの比較に終始するべきものではない。」

「より重要なのは、そうした学びやそこから得られる有用なフレームは、まずは自分自身を理解することに役立つということである。「自分のことは自分が一番分かっている」と思っている人は多いが、自分が何気なく発する言葉、自分が考えるライフプラン、自分にとって許せることや許せないことなどは、普段意識されていない自身の多様な文化的バックグラウンドに基づいている(だからこそ、すぐさまそれを「日本人か、アメリカ人か」というような単純なナショナリティに還元しようとすることは早計であるのだが)。自分自身を含め、物事を理解し何かをしようとする際は、文化的バックグラウンドとその特性、長所をうまく捉えるための幅広い教養と、それをうまく使いこなす素養と訓練が必要となる。
 つまり、ある人間をきちんと−−−−それは自身であろうが他者であろうが−−−−理解するためには、その全体像をクリアにしてゆくための多角的アプローチとそれを可能とする思想的パースペクティヴが求められる。そして、それらを学ぶなかで、自分自身を問い直し、自身のコアな在り方を発見し、自分の人生を自覚的に生きてゆこうとする契機も訪れるかもしれない。宗教や哲学といった「思想」について学ぶということは、それに囚われるためではなく、その構造と限界を知ること、そしてそれを踏まえた上で、自身が何をもって生きるべきかという問いとその答えの手がかりを可能な限り得ようとすることでもある。」

「限られた時間のありがたみを噛みしめてさえいれば、そこにおいて壮大な目標や厳格な規律などがないとしても、目の前の日々の生活に集中するその在り方そのものがその人にとっての「行」となり、それ自体が生きる指針を示すようになることもあるだろう。
 漁師は漁師人生のなかで船を出して魚をとって売りさばき、町医者は地元のお年寄りを診察し、さえない大学教員はあまり見向きもされない本や論文を書く。たとえ一週間後にこの世界が終わるかもしれないとしても、相変わらずそれをやり続けるであろう。それらの振る舞いは、何かに向かってはいるがそれが何かを実現するかはまた別の話であいr、しかし、惰性でやっているわけでもない。その人たちにとってのその残りの時間を使った「行」であり、そこには。それ意外の選択肢にはない何かがある。カルヴァン派における「職業人」も、おそらくは同様に、そうして仕事に専心することで救済が約束されているのではないだろうか。
 人はそれぞれ限られた時間のなかで常に何かの終わりに向かって−−−−極端にいえば死に向かって−−−−生きざるをえない。その究極においては、「どう死ぬか」という問いが「どう生きるか」と直結することすらある。たとえば、誰かを助けてかっこよく死ぬということは、誰かを助けて死ぬというかっこよい生き方をするということである。
 その生き方が自身にとっての当たり前の繰り返しとしての「行」であるとするならば、いずれ終わるその人の終わり方は、きっとその人の生き方となるはずである。大事なことは、そうやって生き、そうやって死んでいってよい、と思えることを日頃から実践しているかどうかである。そうした「行」の人は、世俗的な意味連関を超越した実存として今を生き、そしてその「今」を積み重ね続けた「人生」を生きているといえる。そう、充実しているのだ。
 誰もがみんな「自分自身にとっての行」をもちうる。一生懸命生きてゆくなかで、いつしか人はそれを身につけ、それがいつの間にか生き方そのものとなってゆくだろう。
 しかし、もしまたそれをもっていないとするのであれば。そして探してみようとするのであれば。私からいえるのは、偏見や見下しから心を自由にして、世界を見つめ、己をもつめてみるべき、ということである。そうする以前には憧れていたものが実は虚飾であることが分かり、そして、くだらないようにみえていたものがそうではないように見えることもあるだろう。その認識の変化が、自身のこれからの「行」に関するなんらかのヒントを与えるかもしれない。」

「おそらく真の自由とは、かけがえのないものと向き合い続けることを自分で決めるまさにその在り方にあるように思われる。損得考えず、限られた時間を目の前のその人と、あるいは目の前のそのこととただ向き合うような素朴で愚直な生き方にだって自由はあるのだ。そうした自由のもと、人は何かを信じ、その信念のもと目の前の物事を大切にしつつ、それを積み重ね、自分の人生を生きてゆく。
 逆に、通り過ぎたかけがえのないもの、目の前にある唯一限りのものを過小評価し、「こんなものじゃなく、もっとよいものを・・・・・・」と求めるその態度は、我欲にとらわれ熱に浮かされた不自由な選択であって、そこには信念も思想もありはしない。そんな人に欠落しているものこそ、まさにその瞬間瞬間に集中するための「行」としての生き方なのである。」

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