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『リターンズ――二十一世紀に先住民になること』  ・ 『イシ―北米最後の野生インディアン』

☆mediopos-2437  2021.7.19

「先住民」という言葉は
かつては未開とローカル性
ときにはジェノサイドの悲劇とも
関連づけられるところもあったが

この『リターンズ』で示されているように
とくにカリフォルニア・アラスカ・オセアニアの先住民は
いまや「変成プロセスに参加している人々」として
理解されはじめるようになっているという

かつて先住民だった人々の後裔が
「祖先の地への帰還」
「文化遺産のパフォーマンス」
「ディアスポラ的な絆の維持」といった
未来に向けて前進するための戦術的展開によって
「伝統的未来」とでも呼べるものを創造しようとする
そうした運動を展開しようとしているのである

それはもちろん一本道ではなく
「曲がり角や帰還を含み込んだ様々な進み方」であり
「歴史の中の複数の別の方向や運動、
共にそして別個に生起する複数の展開を想像すること」によって
生成されるプロセスとしての「未来」への道である

それは決して過去の「先住民」へと
「帰還」するということではなく
「伝統的未来」を創造するための
生成プロセスとして理解する必要がある

『リターンズ』の「訳者あとがき」に書かれているように
副題には「二十一世紀に先住民になること」とある
それは先住民「であることbeing」ではなく
まさに先住民「になることbecoming」
「未来になりつつある現在(present-becoming-future)」において
「伝統的未来」を創造することにほかならない

さて本書の第二章では
「北米最後の野生インディアン」である
「イシの物語」が展開されている

「イシ」について稀有の記録をはじめて書著にまとめたのは
アーシュラ・K・ル=グウィンの母である
シオドーラ・クローバーである
最初に刊行され話題となったのは一九六一年のことだが
岩波の「同時代ライブラリー」の一冊として
日本語版が再版されるときに
ル=グウィンによって「序」が付されたのは一九九一年のこと

「イシ」は「北米最後の野生インディアン」として有名となり
シオドーラ・クローバーの伝記が
ベストセラーになったことで再び有名になったが
さらに二〇〇〇年頃
カリフォルニア・インディアンの人々による
イシの「遺骨の返還」を求めるプロセスを通じて
「カリフォルニア先住民の消滅の象徴だったイシ」が
「同じ先住民の存続を表象するように」なり
「典型的な先住民消滅の物語が、
再生の物語になってゆく」ひとつの象徴ともなっているようだ

しかしあらためてその問題を
私たち一人ひとりの問題としてとらえかえしてみるとき
おそらく多くの場合わたしたちは
じぶんひとりきりの「先住民」でしかないのかもしれない
じぶん以外にはどこにも存在しない魂の孤独者
言葉をかえていえば「故郷喪失者」

神秘学を学ぶものは
みずからが「故郷喪失者」とならねばならないというが
それはじぶんの魂をみずからの「自由」において
「未来」へと向けて再生していくことにほかならない

先住民とその末裔は
かつての先住民の物語をもとにし
そのあらたな再生と創造への道を歩んでいるといえるが
「故郷喪失者」としてひとり歩む者は
みずからがみずからの物語を創造し歩きながら
霊的再生への道を歩んでいかなければならない
つねにじぶんひとりきりの「先住民」として

■ジェイムズ・クリフォード (星埜守之 訳)
 『リターンズ――二十一世紀に先住民になること』
 (みすず書房 2020/12)
■シオドーラ・クローバー (行方昭夫 訳)
 『イシ―北米最後の野生インディアン』
  (岩波現代文庫 2003/11)

(『リターンズ』より)

「『リターンズ』は、一九八八年に『文化の窮状』からスタートし、一九九七年の『ルーツ』に引き継がれたシリーズの第三作にあたる。他の二作同様、おおよそ十年のあいだに書かれた仕事をまとめたものである。」
「『リターンズ』はもっぱら、いま現れつつあるひとつの脈絡を辿ってゆく。すなわち、一九八〇年から一九九〇年代に広く見られるようになった、先住民の存続、戦い、そして刷新を巡る複数の歴史である。部族、アボリジナル、ファースト・ネイションズなどと呼ばれる諸社会は、西洋文明と経済発展の漸進的な暴力のなかで、ながらく消滅の運命にあると考えられてきた。もっとも教養ある人々も、(悲劇的な)ジェノサイドと(不可避の)文化変容が歴史の仕事をおこなうだろうと仮定したのだ。しかし二十世紀の終わりになって、何か違った事態が生じていることが明らかになった。確かに多くの先住民が殺された。多くの言語が失われ、いくつもの社会が崩壊した。しかし多くの人々は、中断された生き方の残滓を適応させ、組み合わせなおしながら、持ちこたえたのである。彼らは深く根付いた適応可能な伝統の数々を過去から選択的に取り出し、複雑なポストモダニティのなかで新しい生き方を創造している。文化的持続とは、ひとつの生成プロセスなのだ。」
「『リターンズ』において私は、民族誌的、歴史的なリアリズムを擁護する議論を展開する−−−−−−歴史や現実についての様々な観念が、今日では。土地返還要求から博物館・大学にいたる、権力の負荷がかかった多くの場において、異を唱えられ、また創発的に翻訳させられていることを認識した上でのことだ。こうした危機的状況すべては、偶発的であり矛盾した様々な脈絡から構成されている。したがって、適切なリアリズムとは、そこから帰結する部分的な物語の数々を並置する−−−−結合し、引き離す−−−−ものでなければならない。私はこの半世紀のあいだ有効であった三つの語り、すなわち、脱植民地化、グローバル化、先住民の生成とともに仕事を進める。それらは、それぞれ区別されるべきエネルギー、行動の尺度、可能なるものの政治を表している。それらは単一の決定論的構造や歴史に還元することはできない。かといって、いつまでも別々のものとして維持することもできない。これら三つの歴史は、互いに構築しあい、強化しあい、邪魔しあっている。このような「十分に大きな」歴史は、同時的でありつつ同期しているわけではないような、弁証法的緊張関係のうちに保たれることを必要としている。それゆえ、『リターンズ』はごつごつした迫真性を提供するものであり、そこにあっては、政治的、経済的、社会的、そして文化的な諸力が交差しつつも、ひとつの全体を形づくることはない。本書が物事をすべて包み込んで変わりゆく時間を支配することができないとしても、この、意識的に引き受けられた失敗にこそ、本書におけるリアリズムの主張の根拠がある。」

「『リターンズ』は穏やかに結びついた三つの部分によって編成されている。
 第一部は、一般的かつ理論的な視点から書かれている。」
「第三部では、太平洋島嶼世界に比較文化論的な一瞥を加えた後、アラスカ中部、とりわけコディアック群島に焦点を合わせる。」

「第二部では、典型的な先住民消滅の物語が、再生の物語になってゆく道筋を辿る。「イシ」は一九一一年、開拓移民の住むカリフォルニアの町に姿を現し、「アメリカ最後の野生インディアン」と考えられたことで有名になった。彼は一九六〇年以降、シオドーラ・クローバーによる伝記がベストセラーになったことから再び有名になる。そして二〇〇〇年頃、カリフォルニア・インディアンの人々がついに彼の遺骨を埋葬し、そのプロセスのなかで、開拓者の植民地的暴力の遺産を紐解いたときに、またもや新聞に見いだされることになる。私は遺骨の返還のプロセスに関心を抱いて、公開の集会に参加したり、参加者と話をしたりもした。かつてカリフォルニア先住民の消滅の象徴だったイシは、同じ先住民の存続を表象するようになったのである。その生においても死においても、謎めいた、そして生産的な彼の経験は、多くの人々にとって、様々に異なった仕方で意味をもっている。イシの物語は、今も続く植民地的暴力の遺産、人類学の歴史、癒やしの効力、ポストコロニアルな和解の可能性、その他、多くの事柄を語りかけている。」

「『リターンズ』の第一部と第三部がリアリズムの徴のもとに構想されている一方で、第二部はこれとは異なった分析的、想像的道筋で展開されている。一方で開拓移民の植民地的歴史の頓挫を辿ってゆくが、だからと言って、それに代わるより適切なあたらしい語りを探し求めるわけではない。そうではなく、複数の、矛盾した、そしてユートピア的な成り行きの余韻を残した、ひとつの反語的な「メタ」的展望を採用する。「イシ」の名前を辿る複数の物語が増殖し、あらたな複数の可能性を開くのである。別の種類の進展−−−−既にここにあるかもしれないユートピア群、進歩するのではなく、むしろ曲がり角や帰還を含み込んだ様々な進み方−−−−が想像可能になる。課題は、歴史の中の複数の別の方向や運動、共にそして別個に生起する複数の展開を想像することである。ここにおいて、『リターンズ』は言語の果てるところに至る。」

(『リターンズ』〜「訳者あとがき」より)

「本書の副題にある「二十一世紀に先住民になること」とはどういうことなのでしょうか。先住民「であることbeing」ではなく、「になることbecoming」という表現には、おやっ、と思う方もいるのではないでしょうか。」
「まず、本書で扱われているアメリカや太平洋の先住民運動が、まさに「先住民になる」(ないしは「再びなる」)ための戦いであったことを想起しておく必要があります。」
「もうひとつ付け加えておくべきなのは、「なること」という言い回しのなかに、先住民の未来を見据えたクリフォードの眼差しが読み取れることです。先住民の「伝統」は、たしかに過去との連続性を維持しつつも、長い時間の流れ−−−−長期持続(longue durée)−−−−のなかで、そして現代では近代化やグローバル化の力と交渉しつつ、変成を遂げてきています。先住民の世界は無時間的なものではないし、未来をもつのは西洋近代の特権ではない−−−−クリフォードの言うところの「未来になりつつある現在(present-becoming-future)」は、先住民のものでもある、というふうにも言えるでしょうか。
 副題には「二十一世紀に」という言葉も入っています。これは二〇〇七年に国連総会で「先住民族の権利に関する宣言」が採択されたことに象徴されるように、先住民を巡る時代の流れの変化を物語っています。日本では、二〇一九年に「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律」(いわゆる「アイヌ新法」)が成立したことが記憶に新しいところです(この法律自体には、アイヌの実質的な権利回復への言及が欠落しているなど、多くの問題がありますが(・・・)。
 さらに言えば、今日では多くの先住民集団がインターネットで情報を発信し、「先住民のワールドワイドウェブ」を創り出しています。「二十一世紀に」という言葉には、このような新しい条件のもとでの先住民の現在と未来を展望するという含みも込められているでしょう。」

(シオドーラ・クローバー『イシ』より)

「イシが偶然石器時代から迷いこんで来て現代の世界を驚かせてから、もう半世紀近くになる。ここに今から述べられることは、彼について知られている確実なことのすべてである。彼が現代の世界で、また以前彼自身の世界で、信じ感じ行なったことが彼の物語の結節点である。このいわばビーズ玉のようなものをつなぎ合わせて、一連のネックレスを再現することが私の仕事であった。驚くべきことに、彼の生涯というネックレスは、多くの欠けたところがあるにも拘わらず、何とか円をなし得ているようである。
 イシと彼の部族の歴史は否定しようもなくわれわれ自身の歴史の一部となっている。われわれは彼らの土地を吸収して自分たちの所有地にしてしまった。それに応じて、われわれは彼らの悲劇をわれわれの伝統と道徳の中にとりいれ、それについての責任ある管理人とならねばならない。」

(『イシ』〜アーシュラ・K・ル=グウィン「序文/『イシ』再版に寄せて」より)

「イシの物語はクルーソーの物語を逆にしたようなものである。イシの物語は一九六一年の初版以来、アメリカ人の心を強く捉えてきた。無人島のクルーソーの姿よりも、道徳的な意味合いにおいて、イシの姿のほうがアメリカ人の心に強く迫るものがある。クルーソーの孤独は海での嵐という自然力の猛威によってもたらされたのだったが、イシの場合は、同じ人間である筈の白人の卑劣な集団的残虐行為によるのだから、イシは、皆殺しにされた部族の最後の生き残りとして、家族の惨死を悲しみつつ何年間もひっそりと身を隠して暮らしていた。その間に彼の周囲では侵入した白人の町や農園が次々に出来ていったが、彼は足跡を一つも残さなかった。山の中にまだ「未開人」「野生インディアン」が生存しているのをさとられぬようにと、一歩歩くごとに足跡を掃いて消していたのである。何という孤独であったことか! クルーソーの味わったよりもずっと悲痛な孤独である。
 けれども、彼が孤独で悲惨な暮らしにもはや耐えられなくなった白人の世界に迷い出て来た時、彼の見出したのは、皮肉なことに、覚悟していた死ではなく、思いやりと友情と理解であった。そして「未開」から連れ出されると、すぐに近代都市の真ん中で残りの生涯を送ることになった。」
「私の父で人類学者のアルフレッド・クローバーは、イシをもっとも親しく知っていた人物の一人であったけれど、イシの物語を執筆するのを望まなかった。」
「実際にイシの物語を書くことになったのは、私の母イシドーラ・クローバーであった。」

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