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荻本 快『哀しむことができない/社会と深層のダイナミクス』

☆mediopos2724 2022.5.2

本書の論の進め方とは少し異なるが
「裸の王様」の寓話から
心のフィルターについて

『王様は裸だ!』と言える子どもは
いわば心にフィルターがない

しかしその子どもも教育を受ければ
その教えられたことに染まり
そのフィルターを通してしか
物事を見ることができなくなる

尊敬する人がいてそれに同化していても
同化している人のように見ようとするし
世間のさまざまにも
数限りないほどのフィルターがあり
それに刷り込まれ続けていく
条件づけられていくということだ

そのようにひとは何重にも何重にも
さまざまなフィルターを通してしか
物事を見ることができなくなり
そこから自由になろうとすれば
ひとつひとつ順番にフィルターを
意識的に外していく作業が必要となるのだが

ひとつひとつのフィルターには
それなりに強固なロックがかかっていて
それを外すのは容易なことではない

それらのフィルターには
思考・感情・意志のレベルがある

ロック解除が比較的容易なのは
思考レベルのそれであるが
感情面のロックを外すのは容易ではない
さらに意志のロックを外すのは困難を極める

神秘学では
魂をスポイルしてしまうために
意志に直接働きかけることは禁じられている

シュタイナーが『自由の哲学』において
思考の重要性を強調しているのは
もっとも安全で確かなかたちで
みずからの魂に向かい合えるレベルだからだが
それでさえ容易なことであるとはいえない
もっとも地道に歩いていくはるかな道だからだ

セラピーのように
感情の解放という方法が導入されるのは
自分に向き合えるように
少しずつ感情を解きほぐしていくプロセスが
思考のような特殊な方法でなくても
だれにでもひらかれているからだろう

しかし多くのひとは感情のなかでも
抵抗の少ないものしか受け入れることはできない
ふつうは反感を感じただけで拒絶してしまい
自分の感情に向き合うことはできなくなる

感情にかかっているロックを外すのはじぶんだから
そのきっかけを反感と共感のはざまのなかで
少しずつ感情を解放する道を探らなければならない

とはいえそれが個人的なものではなく
社会や世間や組織によって無意識的に
刷り込まれたフィルーターであるときには
それを外すことは個人レベルではかなり難しい
それを個人レベルで行おうとすれば
そこに激しい軋轢と葛藤が生じてしまうことになる

世の中でいま起こっているさまざまなことも
さまざまに刷り込まれた偏った情報から
フィルターを外していくのは
確かな思考とリテラシーがあれば可能だが
多くの場合そこから自由になることさえむずかしいのは
じぶんの依拠している情報の網目に絡めとられたまま
それ以外の情報からは閉ざされているからだ

歴史的に積み重ねられた刷り込みはいうまでもない
意識の表層ではなく深みに眠った
集合的なレベルの意識が問題となるからだ

とくに自分は理性的で正しい
そう思いこんでいる場合ほどフィルターは強固である
そのとき「王様は裸だ!」という人とともに
「王様は裸だ!」ということはできない
むしろ「王様は裸だ!」といっている人を批判さえして
じぶんではそのことに気づけずにいたりする
そして錯誤のフィルターはさらに塗り固められてゆくことになる

比較的単純な知識的な部分で
「王様は裸だ!」とさえいえないとき
さらに自分の感情に向き合い
じぶんの内に眠るイザナミへの罪意識を認め
みずからの感情の闇を解放するまでには至るのは難しい

罪意識は他罰意識へとすり替えられ
「王様は裸だ!」という者を攻撃さえしてしまい
自分の心の深みにある「哀しみ」を認め
それを解放するどころか
ますますそれを閉じ込めてしまうことにもなる

ほんとうに「哀しむことができない」とき
ひとはじぶんの心の闇のなかに閉じこもってしまうか
そうでなければ闇の意識が投影されたものに対して
他罰的な怒りのような態度をとらざるをえなくなるのだ

■荻本 快『哀しむことができない/社会と深層のダイナミクス』
 (木立の文庫 2022/4)

「よく知られた寓話「裸の王様」では、子どもが『王様は裸だ!』と言ったとき、即座に周囲の人たちが『そうだね、自分の目がおかしいのかと思っていたけど、ほんとうに王様は裸だよね』と、子どもに同意するのですが、日本ではなかなかそうはいかないようです。『王様は裸だ』と言ってしまった人は、逆に、ハブられ、身元を明かされ、叩かれ、やり玉となり、吊し上げられる。そうしたことが繰り返されてはいないでしょうか。

 組織・社会の問題をするときには、たとえ熟慮を重ねたうえでの発言だったとしても、当然、私たちには「こんなことを言ってもよいのだろうか?」というと、心のなかの制止が起きます。そのため、私たちの発言は、うわずったり、緊張したり、ときに感情的になってしまう。相手が見えなくなることも起きます。社会・組織の問題であることはわかっているものの、どうしても個人的な疼きと重なるのです。

 そのようなときに私たちは、組織の〝いつもの感じ〟と自分が失敗する〝いつもの感じ〟の両方に絡めとられているように感じます、まるで、組織・社会のダイナミズムと個人のダイナミクスが交叉して生じる渦にはまっているかのようです。その渦から抜け出ようとして、発言はときに激烈なものになることがあります。つい発言に力が入り、感情的になってしまうのです。」

「日本においては、『王様は裸だ』と言った人はなぜハブられ、スケープゴートになるのでしょうか。それは、(・・・)その言葉を耳にした周囲の人たちの多くが、あまりにも、その王様に没入的かつ依存的に自己を重ね合わせているからだと考えます。

 これを本書では〈自己愛的な同一化〉と呼びました。王様に対する自己愛的な同一化が起きている場合、『王様は裸だ』という一言は、周囲の人たちにとっては「自分の裸だ」ということを指摘されたかのように感じるのです。そのため日本では、王様を笑うのではなく、声を上げた人を叩くということが起きる。

 かたや寓話のなかの民衆は、それほど自己愛的な同一化が王様に対して起きておらず、ある種の独立性を保つことができているので、子どもも『王様は裸だ』という一言に、『そうだよね、王様は裸だ』と現実を受け入れることができ、民衆はその子どもと共に笑うことができました。

(・・・)

 組織・社会には、集団の力というものを作り出し、人に空虚な服を着させるところがあります。そして、王様も大臣も、自己のなかにそれに気づく基準をもっていない(もしくは失っている)ので、空虚な服がまるであるかのように、振る舞い続けるのです。」

「「服」というのは、発達の最早期から母親の代わりに赤ん坊を温め、赤ん坊を抱える母親の腕代わりとなるものです。王様は「世界最高の服」を求めていたというのは、最早期の母親を求める心が服に置き換わったのかもしれません。

 この本のなかでも、イザナキ・イザナミ神話で描いたように、王イザナキは、最愛の妹であり、妻であり、母であるイザナミを失っています。しかしその〝喪失の悲しみ〟や、自分がイザナミを死に追いやった〝罪意識〟は、記憶の深く、記憶の泥の沼のなかに押しやっている。それどころか、根の国の宮殿を覗き腐りつつあるイザナミを見た衝撃から、「怖ろしいものを見せられた」「穢れた」と、みずからを被害者化し、被害の神話を作り出しました。日本においてはこの「神話的思考」が共有されているように思われます。

 王も大臣も、そして民衆も、皆、自分の母を締めつけ最愛の対称を損なった過去や罪を抑圧し、その抑圧の結果として、被害の神話を信じている。だからこそ『王様は裸だ』という声が、「あなたには母親がいない」「あなたは母親を傷つけた」という指摘にも等しく聞こえたのだと思います。深く抑圧された〝喪失の記憶〟が疼き、それは慄きを生むのでしょう。」

「この本で指摘してきたように、私たちが根源的に失っているのは、地位や名誉、あるいは体面ではなく。幻視的な対象です。〝喪失の痛み〟は、もとからそこにあり、むしろその喪失を認め、喪の作業をおこなうことこそ必要なのです。

 私たちが失ったものを悼み〝喪の作業〟を回復し、哀しむことへ至るなら、日本における「裸の王様」の物語は、別の形となるかもしれまえん。告発する人をハブることなく、寓話のように、民衆は子どもと一緒に笑うことができる物語になるかもしれないのです。そして、それに気づいた王様も、子どもや民衆と笑い合うことができるのかもしれません。」

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