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戸谷洋志「スマートな悪/技術と暴力について 6」

☆mediopos-2459  2021.8.10

小林秀雄に
「僕は無智だから反省なぞしない。
利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」
という昭和二十一年二月
雑誌『近代文学』に載った座談会での言葉がある

「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。
黙って処した。それについて今は何の後悔もしていない。
大事変が終った時には、
必ず若しかくかくだったら事変は起らなかったろう、
事変はこんな風にはならなかったろうという議論が起る。
(・・・)
この大戦争は一部の人達の無智と野心とから起ったか、
それさえなければ、起らなかったか。
どうも僕にはそんなお目出度い歴史観は持てないよ。
僕は歴史の必然性というものをもっと恐しいものと考えている。」
という発言に続けられた言葉だ

ハンナ・アーレントはアドルフ・アイヒマンの体現した悪を
「悪の陳腐さ」と表現しているが
それはナチスに同調した普通の人々すべてにも帰せられるという

そうした人々に「良心」がなかったわけではない
むしろ「常識があり、品行方正であり、家族を愛し、
教養がありさえしたかもしれない」人たちでさえあり
そうした「普通の人々がもっている普通の良心」は
むしろそれに加担してしまうものにもなるのだ

その背景にあるのは
道徳の「習俗」化だとアーレントはいう
習俗と化した道徳に従うことは
他律的であるということでもあるからだ

習俗化した良心に問題があるとすれば
それは良心を他律的なかたちで
「自動的に作動させ」たからだ
それに対して
良心を「自動的な形で機能させなかった人々」は
ナチスに抵抗し密告の義務を果たさなかった

「悪の陳腐さ」とは
共同体のなかで自動化した「そういうものだ」に
他律的に順応してしまうということだ
だからナチスが崩壊して民主主義的な価値観になると
今度はそれに自動的に順応してしまうことになる

日本でも第二次世界大戦後は同様に多くが
民主主義的な価値観へと自動的に順応することになった
まるで戦争中は軍国主義に
欺されていたとでもいうかのように

最初に小林秀雄の
「僕は無智だから反省なぞしない」
と言う言葉を引用してみたのは
小林秀雄のその発言は
習俗と化した道徳に他律的に従うのではなく
あくまでもみずからの道徳性にもとづいて
考えようとしていたものからだ

「そういうものだ」に従う「良心」と
「じぶんはこうありたい」に従う「良心」とは
まったく異なった道徳性のもとにある

民主主義という価値観はいうまでもなく
昨年来起こっている「事件」に対して
どのような態度をとるかに関しても同様である

おそらく現在起こっている「事件」の後も
新たな「そういうものだ」に対して
形ばかりの「反省」をするか
「一部の人達の無智と野心とから起った」とかすることで
自動的に順応することになる方がほとんどだろう

「みんなと同じ」であろうとし
「そういうものだ」に身を委ねてしまうこと
それこそが「悪の陳腐さ」を表しているともいえる

考え方や価値観を変えない方がいいというわけではない
そこに「自分の行為をその都度の状況の変化から
独立に判断するための」〈根〉を持ちえているかどうか
ということである
そしてそれこそが「自由」に関わる態度でもある

■戸谷洋志「スマートな悪/技術と暴力について 6」
 (『群像 2021 9』講談社 所収)

「『エルサレムのアイヒマン』において、ハンナ・アーレントはアドルフ・アイヒマンが体現した悪を「悪の陳腐さ」と表現した。」
「このとき「陳腐」である、ということは何を意味するのか。結論からいえば、それはありふれているということだ。言い換えるなら、「みんなと同じ」であろうとすること、自分以外の中にも自分と同じものが見出せるものになろうとすること、自分が特定されないものへと埋もれようとすることに他ならない。
 そうであるとしたら、「悪の陳腐さ」を体現するアイヒマンは、なんら個性的な存在ではなく、その他大勢の人々と同質的である、ということになる。事実アーレントはそのように考えていた。つまり、実際にはアイヒマンのように裁かれなかった人々、その他大勢としてドイツに暮らしていた人々もまた、アイヒマンと同じように悪に加担したのであって、両者の間に質的な差はない。」
「したがって、「悪の陳腐さ」はアイヒマンだけに帰せられる個人的な問題ではない。むしろそれは、ナチスに同調した普通の人々すべてに帰せられるのであり、アイヒマンはその一つの拡大鏡に過ぎないのである。たとえばナチスは秘密警察を介して国民に対してユダヤ人に関する密告を義務付けていた。そしてその義務に従って積極的にユダヤ人の殺戮に加担した人々も、大勢いたのである。」

「なぜ、普通の人々がこうした巨大な悪に加担してしまったのだろうか。私たちはそれに対して、そうした人々は善良ではなく、良心をもっていなかったからだ、と結論付けたくなる。しかし、それは事実と異なる。ナチスに加担した人々は、善良ではなかったわけでもないし、良心を失っていたわけでもなく、むしろ常識があり、品行方正であり、家族を愛し、教養がありさえしたかもしれない。だからこそ問題は深刻なのだ。なぜなら、普通の人々がもっている普通の良心では、ナチスに抵抗できないどころか、むしろそれに加担することにさえなるからである。アーレントはその背景に道徳の「習俗」化を指摘する。」

「アーレントによれば「習俗」とは、「恣意的に変えることのできる慣例、習慣、約束ごと」である。習俗と化していない道徳と、習俗と化した道徳との間に違いがあるとしたら、それは人間がどのような動機で道徳に従うか、という点にある。習俗と化していない道徳、つまり恣意的に変えることができない道徳は、それが普遍的な妥当性をもつと信じられるがゆえに、尊重される。それに対して習俗と化した道徳は、それがある共同体の間でルールとして承認されているがゆえに、尊重されるのである。したがって、共同体のなかでルールが変われば、習俗と化した道徳は簡単に取って代わられてしまう。」
「この意味において、習俗と化した道徳に従うということは、他律的であるということを意味する。いわば「郷に入れば郷に従え」のように、その共同体ではそう決まっているから従う。という服従の形態が、そこでは展開されるのである。アーレントはそうした服従を、「良心」が「自動的」に機能するという事態として解釈(・・・)する。」

「アーレントによれば、ナチスに加担した普通の人々は、良心をもっていなかったわけではなかった。そうした人々は明らかに良心をもっていた。問題なのは、そうした人々が良心を杓子定規に「自動的」に作動させていた、ということなのだ。悪に加担するか否かを左右したいたのは、良心をもっているか、もっていないかではない。良心を自動的に作動させるか、自動的にではなく作動させるか、ということだったのである。
 私たちは、良心をもっていさえすれば悪に加担せずに済む、などと考えるべきではない。そのように考えている限り、ナチスのような破局を理解することはできないし、これから起こりうる別の新たな破局を回避することもできない。それがアーレントの訴えの核心なのだ。」

「その一方で、ナチスドイツにおいて、すべての国民がナチスに加担していたわけでもない。そこにはナチスに抵抗し、密告の義務を果たさなかった人々もいた。アーレントによれば、「公的な生活に関与しなかった人々は、良心をこのようにいわば自動的な形で機能させなかった人々だと言える」、それだけが悪の陳腐さを回避する方途である。ではそのとき、良心を自動的ではない形で働かせる、ということは、何を意味しているのだろうか。」

「アーレントによれば、良心を自動的にではない仕方で働かせる、ということは、「自分と仲違いせずに生きていくこと」を意味する。そのとき良心は、習俗と化した共同体の規範に従うのではなく、その行為をした自分とともに生きることができるか、という観点から「私」を問い直すのである。ただしこの行為は、決して、何か精神分裂症のごとき症状のことを指しているのではない。」

「私たちは、ある行為を強いられたとき、その行為をした自分とともに生きていたいかを、自分自身に問い直す。それが自動的ではない形で作動する良心である。アーレントによれば、この良心の声に耳を傾けることこそ、「思考」に他ならない。思考は自動的には作動しない。なぜなら、「私」は自分の行為の正しさを、もう一人の「私」に対して語り、またもう一人の「私」の語ることにも耳を傾けなければならないからだ。そして「私」はこのもう一人の「私」を無視することができない。「私」はそのもう一人の「私」とともに生きなければならないのである。
 アーレントによれば、「こうした思考は、すべての哲学的な思考の〈根〉のところにあるもの」である。私たちの道徳的な判断の起源にあるのは、その行為をする自分とともに生きていきたいかを吟味することあである。しかしそれは、単に論理的な先行性という意味で起源であるだけではなく、私たちの道徳的な判断に対して、その都度の状況の不安定さに左右されない確かさを与えるものでもある。「人間にとっては、過去の事柄を考えるということは、深いところに向かって進むということであり、自分の〈根〉をみいだし、自分を安定させること」である。それによって人間の道徳的な判断は「時代精神や〈歴史〉やたんなる誘惑などの出来事によっても、押し流されないようになる」。だからこそ思考は、習俗と化した道徳とは異なり、共同体の変化に左右されない首尾一貫した行為を可能にするのである。
 悪の陳腐さは、思考の欠如として性格づけることができる。そしてそれが意味しているのは、自分の行為をその都度の状況の変化から独立に判断するための、〈根〉をもっていないということだ。アーレントによれば、こうした〈根〉の喪失は、自分の行為に対する忘却という形で顕在化する。」

「だからこそ思考しない人間たちは、共同体が変わり、道徳的なルールが変わった瞬間に、新しいルールへと自動的に考え方を変えることができる。なぜなら、それまで自分がどのような規範に基づいて行為していたのかを、もはや覚えていないからだ。普通の人々が、一夜にしてナチズムのイデオロギーに賛同し、ナチスが崩壊すると、一夜にして民主的な価値観に賛同することができたのは、その度ごとにどの価値体系が優れているかを比較する基準を節操なく変えているからではない。そうではなく、ただそれまで自分が信じていた価値体系が何であったのかを、覚えていないからである。
 注意するべきなのは、ここでアーレントは、普通の人々がナチズムという凶悪な価値体系へと靡いてしまったから、悪の陳腐さを批判しているのではない、ということだ。そうではなく、共同体の変化によって、新しい価値体系へと何も思考せずに順応する自動性を批判しているのである。どんな価値体系に靡くかということは、悪の陳腐さにとって問題ではない。アーレントはナチズムに順応した普通の人々を批判するのとまったく同じ強度によって、ナチズムから民主主義へと順応した人々をも批判するだろう。なぜならそうした人々は、同じようにして、民主主義から再び別の価値体系へとやすやすと順応しうるからである。」

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