見出し画像

崔 相龍(小倉紀蔵/監訳) 『中庸民主主義 /ミーノクラシーの政治思想 』

☆mediopos2686  2022.3.25

まさにいまこそ
中庸民主主義(ミーノクラシー)が
政治に生かされなければならないが
現状はそこから激しく逸脱している

その逸脱を加速させているのが
あまりにも偏向しているメディアである

現代においてもっとも中庸から遠いのが
政治であり科学であり
教育であり医療である
ということに気づくのは
少しでも意識的になればむずかしくない

それにもかかわらず
多くのひとが
それらの逸脱に気づかず
それらを疑わないがゆえの逸脱を
逸脱だと意識し得ないのは
メディア等から流される情報を
そのまま鵜呑みしているからだ

過去五十年間の戦争は
メディアによって起こされてきた
という視点もあるが
それ以前から
与えられた情報をそのまま信じることで
戦争体制は加速されてきたところが大きい

現代ではとりわけ
インターネットをはじめとしたメディアからの
きわめて偏向した情報は
そうした条件づけを加速させている

条件づけされそれに翻弄されるのは
「心の弱い善良な国民」であり
「極端を選択することに心を決めてしまえば、
あとは楽になるので疾走するだけになるのである」

始末の悪いことに
その「条件づけ」の「甘い誘惑」は
「平和」というだれも否定しない価値であり
またここ数年でいえば
「安心」という生死に関わる教導である

そして「みんなで渡ればこわくない」から
レミングの大移動のような結果を導いてしまう

そこにもっとも欠けているのが
まさに「中庸」なのだが
おそらく偏向している人たちは
みずからを偏向しているとは思わず
正しいことをしていると思っていることが
現状を袋小路にしてしまっている

かつて仏陀は「正見」「正思」「正語」「正業」
「正命」「正精進」「正念」「正定」という
「八正道」を説いたが
その正しさとはまさに「中」であることだった

「中」であるためには
まず与えられるものが「中」であるかどうか
そしてじぶんのなすことが「中」であるかどうかを
吟味することが不可欠となる

現代は「検索」することで
または学校で教えられることで
「正しい答え」が与えられるという信仰があるが
それは決して「中」なのではない
「中」であるためには
不断に問いつづけなければならないからだ

■崔 相龍(小倉紀蔵/監訳)
 『中庸民主主義 ――ミーノクラシーの政治思想 』
 (筑摩選書 筑摩書房 2022/3)

(「日本語版への序文」より)

「人間の行為は広い意味において、政治と無関係なものがほとんどないように思われる。一九六〇年、四・一九革命(李承晩政権を打倒)が起きたあの日、私は十八歳という若い年齢で政治学徒としての人生を歩み始めた。その後、六十年以上政治学を勉強し続けているが、政治とはこんなにも難しいのか、この難しい政治現象を扱う政治学というのは本当に難しい学問だな、ということを今も切に感ずる。政治学はすべての学問の中でもっとも理解し難いとプラトンは言い、統治術は特殊な学問であるといった。そしてアリストテレスは、政治学は学問の大本(master science)であり、理論学ではなく実践的な知恵を扱う実践学だといった。この二人の政治哲学者の視座は今日でも息づいている。昔も今も政治哲学は、可能な最善の政治、政治家、そして政治体制は何であるのかについて、最適の答えを見つけようとする学問である。
 今まで私は政治哲学および国際政治の分野において三つの主題、すなわちナショナリズム、平和、そして中庸に関して深い関心を持ち続けてきた。」

「一九七〇年代以来、私の研究関心は平和思想だけでなく、その延長線上で中庸の政治思想に集中させてきた。平和が民主主義の核心的価値であるなら、中庸な民主主義とともに正義論の核心的主題である。このことがまさに、私が中庸正義論の根源を探求する理由でもある。「正義が中庸である」という命題、すなわち中庸正義(Justice as mean)が西洋の古代ギリシアと東洋の古代中国において同時平衡的に存在したことを確認できたのは、私にとって驚きであり、新鮮な学問的衝撃であった。
 プラトンは『国家論』で、ソクラテスの節制思想を忠実に継承し、節制と中庸が正義であるということを一貫して説いた。『国家論』は正義論から始まり、中庸論で幕を下ろす巨大なドラマであり、その意味で中庸正義を提示した最初の西洋古典なのである。アリストテレスはプラトンの中庸正義、中庸の統治術、中庸の制度化としての「法」の哲学を融合し、中庸正義を中庸の政治体制として体系化するのに決定的な寄与をした。孔孟学(孔子・孟子の学)で示された「政治正也(政とは正なり)」は古代中国の中庸正義を一言で表現したアフォリズム(aphorism)の精髄である。言葉の根源からは政は正、つまり政治が正義であることを読み取ることができる。孔孟学において正義は仁義と表現されるが、その仁義がまさに中庸であり、中正、中道、時中などと軌を一にする。
 公正正義(justice as fairness)を主題とする二十世紀正義論の大家ロールズ(John Rawls)も、広い意味で中庸正義のカテゴリーにおいて解釈されうる。」

「これまで私は、平和と中庸という政治哲学の永続的な問いに答えるため、平和の政治思想研究から導き出された民主的平和と、中庸政治思想の核心的価値である中庸正義の融合を試みてきた。民主的平和が実現される平和状態と中庸正義が実現される中庸状態は、二極化の葛藤や戦争そして構造的暴力の最小化を志向する国家・市場・市民単位の複合的国際社会において、私たちが現実的に期待できる最善の政治状態であるといえる。」

(「終章 中庸と平和の政治体制」より)

「一九七〇年代以来、米国の学会を中心に提起されてきた民主的平和論は国家的水準の平和研究を発展させ、政治体制の民主化と平和の関連を経験的に説明しようとする学問的成果である。民主的平和論は「民主主義国家間では戦争をしない」という命題によって広く知られているが、これを唱える研究者たちは、その理論の哲学的根拠をカントの共和的平和論に見つけ出そうとし、ある人たちはカントを「平和の発明家」として位置づける。
 しかしこのような主張はそもそも事実としても間違っているだけでなく、思慮深いといえないその単純化に驚きを禁じえない。まず、政治体制の民主化と平和の相関関係(elective afirnity)は、カント以前にすでに多様な形で深く議論されてきたという点を忘れてはらない。(・・・)
 また、「平和の発明家」としてのカントに関する議論についても再定義を促さざるをえない。すなわち、カントが平和思想の中で共和制を平和の条件と考えた視座に注目するならば、(・・・)カント以前、すなわち古代アリストテレスの中庸状態から近代ルソーの民主改革論に至るまで、類似した問題意識が多様に存在したことを確認することができる。ここで強調したいのは、カントより二百年前、すでにエラスムスは功利的観点による経済的平和論とともに平和のために有効な体制として混合政体を提起したのだし、そのことによってアリストテレスの混合政体からカントの共和制に至る架橋の役割を果たしたという点である。
 このように見ると、米国の民主的平和論者たちは彼らの平和論の思想的拠点としてカントの『永遠平和のために』に執着すべきではなく、二千五百余年の西洋政治思想史の本流において探るべきであり、民主的平和論に基づく現実の政策もそのぶん、歴史の重みと政治的思慮を土台にして作られなければならないだろう。
 クリントン政権時代の「democratic peace」とブッシュ政権時代の「democracy leads to peace」はどちらも民主的平和論の理念を土台にしており、それは先に指摘した通り歴史的な流れに乗っているわけだが、その理念の実践としての具体的政策は、相互承認を土台にする平和と中庸の原理を大きく逸脱している。したがって中庸民主主義の視座から見るならば、民主的平和論とそれを政治理念としている米国の対外政策は過度な「十字軍民主主義(Crusade Democracy)」へと疾走すべきではなく、適正な民主的現実主義(democratic realism)」を必ず選択しなければならないだろう。」

(小倉紀蔵「監訳者あとがき」より)

「著者も「日本語序文」で語っているように、現実の政治状況が中庸を喪っている現在、「中庸民主主義(ミーノクラシー)」の洞察と智慧こそが、もういちど「よき生」のための政治を取り戻すうえで必要だと核心するからである。右と左のポピュリズが猖獗を極め、「極端」という甘い誘惑が強大化して心の弱い善良な国民を翻弄している。極端を選択することに心を決めてしまえば、あとは楽になるので疾走するだけになるのである。本書では「疾走する」という意味の韓国語が何度も使われているが、まさに「突っ走る」わけである。このような時代に本書が語る世界観は、とりわけ重要である。著者によれば、正義とは極端ではなく中庸であり、平和とは中庸としての正義の結果であり、法治とは、中庸の制度化である。著者の哲学の核心は中庸正義であり、それを実現させる中庸政治である。これには中庸を通した中庸外交も含まれる。そして中庸民主主義(Meanocracy/ミーノクラシー)は、中庸正義と民主的平和の融合によって実現されるとする。著者本人かた聞いたところによれば、著者にもっとも深い影響を与えたのはカント、ロールズ、そして坂本義和である。カントやロールズはすばらしい業績を残したが、東洋の思想に対する理解が不足している。西洋中心主義を脱し、東洋にまで外延をひろげて平和や正義を考える必要がある、というのが著者の一貫した姿勢だ。」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?