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安田登『三流のすすめ』

☆mediopos-2442  2021.7.24

「三流」というのは
ぼくのような人間のことだと
勝手に思うことにした

一流なんかであるわけもない
二流のようにサブ的なスタンスでもない

専門などなにもなく
何者であろうともせず
あれこれと渉猟し
役に立たないことばかりして
ものにならず
失敗なんか気にしないで
究めようともしない
究めないから評価もされないけれど
評価されようとも思っていない
そんな螺旋的な生き方をしている者のこと

それはこんな発想だ

ご専門ばかりで
ほかのことが見えなくなるのはいやだ

じぶんを○○する者だ
というふうに○○として見られるのはいやだ

興味のあることは
ちょい囓りでも覗いてみたくなる

ものにならなくて結構
ものになってしまうと
○○する者としてレッテルを貼られてしまう

なまじ役に立つことをして
ひとにほめられようなどとは思わない

成功するという発想がないから
失敗するのはあたりまえだと思っている

評価を気にしすぎると
評価されようとする下世話な気持ちが起こってしまう
評価なんかむしろ迷惑だくらいがいい

そんな生き方をしていると
世間的に得をするどころか
だれにも理解されないまま
損な役回りを演じることも多くなるが

そんなことよりも
自由に三流であったほうが
ずっと幸せでいられる

興味のあることを
じぶんなりの仕方で
ひとつひとつ
枠にとらわれずに
理解しようとしてみる
それさえできれば最高だ

三流の
NOBODYであるのが
よろしいようで・・・

■安田登『三流のすすめ』
 (ミシマ社 2021.7)

「「三流でいいんじゃない?」
 (・・・)
 それに対して、私は「三流で」ではなく、「三流がいいんじゃない?」にしませんか、と提案しました。」
「三流の本来の意味は「いろいろなことをする人」です。
 試験勉強を始めると別の本を読みたくなる。なにかをやっていても目移りをして、すぐほかのことに手を出してしまう。そんな人は、一つのことに満足できずに、いろいろなことに手を出します。いろいろなことに手を出すから、一つのことがなかなかものにならない。むろん、その道のトップになどなれはしないし、世の中に認められて有名にもなれない。大金持ちにもなれません。
 でも、それがいいのです。
 それが三流の人の生き方で、なかなか楽しい。そして、じつはこの生き方こそが、昔の賢人・君子たちにとっての理想の生き方でした。」

「一流とは「一つのことの専門家」、二流とは「二つのことの専門家」という意味で使われているのです。」
「「三流とはいろいろなことを専門にする人をいうんだ」と『人物誌』(『三国志』で有名な魏
の国にいた劉劭の書いた本)ではじめて知りました。私はあれこれ目移りして、子どもの頃から「お前はなんて飽きっぽいんだ」と責められてきました。そんな自分に反省の日々でした。ところが『人物誌』によって自分の人生が全肯定された、そう感じました。」

「三流人の最大の性格特性は「飽きっぽさ」です。これがすべての三流の特徴の源泉となっています。」

「多能にして「ものにならず」これも三流の特徴です。」

「三流をめざすと、なにもものになりませんし、ほとんどのことは役に立ちません。」

「飽きっぽい、ものにならない。役に立たないという特徴を持つ三流ですが、もう一つの特徴は「評価の否定」です。誰も評価してくれないし、自分からも他人の評価を求めない、それが三流です。」

「三流の特徴として、「短絡的」だということも挙げられるでしょう。未来が見えないと言ってもいい。」
「なにかをめざすなんてことはしない。あるいは苦手。常に「今」が起点。その代わり、「今」の目の前には無限の可能性が広がっています。そんな無限の可能性を前にして、今の自分からどこに向かうかを自由に決める。それが三流の人です。」

「三流の特徴の最後に、「究めない」というお話をしてこうと思います。
 「究めない」、正確に言えば「究められない」なのですが、自他ともに認める三流人は、自ら意識して「究めない」ということをします。
 一流の人は究めます。そのためにちゃんと準備をして、日々努力をする。しかし、三流の人は、一流のひとほどの準備もせずに、いろいろなことをどんどんするから究めることなど絶対できない。そして、よく失敗をします。でも、それをあまり気にかけない。それも三流の人の特徴です。究めようとしないから、失敗もたいしたショックではない。
 究める人の生き方は、目標に向かって一直線に進む「直線的に生き方」です。それに対して究めない人の生き方は、ぐるぐるとあちらこちらまわっていく「螺旋的な生き方」です。」
「やっては忘れ、忘れてはやる、というのをぐるぐるくり返していく。」

「三流人の生き方は「螺旋的な生き方」です。ぐるぐる、ぐるぐるまわっていって、なにに出会うかわからない。そのことに常に開かれているのが三流的な生き方です。これから先、なにに出会って、そしてどんな人生になるか想像もつかない。」
「世阿弥も言いました。「命には終わりあり。能には果あるべからず。」
 ひょっとしたら生きているうちには実現できないかもしれない。でも、自分が死んだことにも気がつかず、ぐるぐる、ぐるぐる螺旋的人生を生きていく。それが三流の人なのです。」

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