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塩瀬隆之「反対語から考えを深める」

☆mediopos3571(2024.8.29)

web岩波に『図書』2024年8月号の転載で
塩瀬隆之「反対語から考えを深める」が掲載されている

ちひろ美術館・東京および安曇野ちひろ美術館で
2024年3月1日からいわさきちひろ没後50年の記念特別展
「いわさきちひろ ぼつご 50ねん こどものみなさまへ」
が開催されたが

塩瀬氏は企画協力者の一人であることから
その著書『問いのデザイン』の視点から
「平和についての問いを考えてほしい」というリクエストがあった

塩瀬氏は
「個人的な習慣としている問い方の一つ」でもあり
また「反対語のワークショップ」」を行ってもいることから

「「平和の反対語は?」と尋ねられたら、
何という言葉を思いうかべますか?」
という問いを考えるが
「そこで得た最初の気づきが、
「わたしたちは平和のことをよく知らないかもしれない」だった」

「平和の反対語は?」と尋ねられたら
ふつうはおそらく「戦争」という言葉が浮かぶだろうが

「改めて、「平和」の反対語を
「戦争」や「争い」といった言葉を使わずに考えるとしたら、
わたしたちはどんな言葉を頼りにすればよいのか。
それがわたしの頭から離れない大きな問いの一つとなり、
この企画をきっかけに、たくさんの人に
同じ問いを投げかけたく」なったのだという

「よく知らない「戦争」という言葉だけで、
果たして平和にちゃんと向き合うことができていたのか。
「戦争はよくない」「戦争はなくすべきだ」。
どんなに美辞麗句を並べても、
やはりわたしたちは戦争を直接は知らないし、
止める方法も起こさないやり方も、理解しているとは言い難い。
まずはもっと身近な言葉から、自分たちの知っている言葉を尽くして
「平和」の反対語を考えるべきではない」かと

塩瀬氏はこれまでに行ってきた
「はたらく」や「まなぶ」などの反対語のワークショップを通じ
「何気なく使っているわたしたちの言葉、
それが表す概念の輪郭をもう一度はっきりさせるきっかけ」を
生むことを意図してきたが

「平和」の反対語について
「違いを認めようとしないこと」や
「知らないことを遠ざけてただ恐れること」といった言葉や
「知らないままにせず、もう一歩近づく勇気をもつ」
「情報を鵜呑みにせず、自ら声をかけて確かめてみる」
といった言葉やアイデアを見つけることの
「延長線上に平和のタネがあるのであれば、
わたしたちにもまだできることがたくさん」あるのではないかという

あらためて考えてみると
反対語とされている言葉というのは
往々にして極端な理解や判断に結びつき
それらの言葉が私たちのなかで
どのように働いているのかに対して無自覚なまま
死んだ言葉さらにいえば危険な言葉となっていることも多くある

白に対して黒(善に対して悪というものそうだが)
というのはあまりに二階調的短絡に陥りがちだし
階調を増やし灰色を加えたところで
白と黒にとらわれていることに違いはない

まずは白の反対語や黒の反対語を
それぞれ黒や白ではないところに見出す必要がある

そしてそれらの言葉がじぶんのなかで
どのように働いているのかを確かめながら
言葉を生きたものとしていくこと

現代では教育やさまざまなメディアなどを通じて
死んだ言葉でしかない情報や知識が日々垂れ流されているが
そうした言葉に安易な理解で巻き込まれてしまわないためにも
「反対語」とされているものにとらわれず
そこにむしろ新たな視点を導き入れることで
見えてくるものもあるのではないだろうか

■塩瀬隆之「反対語から考えを深める」
 (web岩波 2024.08.02/『図書』2024年8月号より]
■安斎勇樹・塩瀬隆之『問いのデザイン 創造的対話のファシリテーション』
 (学芸出版社 2020/6)

**(塩瀬隆之「反対語から考えを深める」より)

*「「平和の反対語は?」と尋ねられたら、何という言葉を思いうかべますか?

 最初にうかぶ言葉の一つは、「戦争」ではないでしょうか。しかし、わたしたち戦争を直接に経験していない世代は、戦争についてちゃんと理解できているとは言い難い。それがよくないことだとは知っていますが、メディアで見聞きする以上のことは何も知らない。では、知らないその言葉を反対語にしたところで、当然ながら、想像する元の言葉の輪郭もあいまいにならざるをえない。そう考えると、実はわたしたちは平和というものを考える土台を、そもそもちゃんともってはいないのではないでしょうか。

 2024年3月1日から、絵本作家いわさきちひろさんの没後50年の記念特別展「いわさきちひろ ぼつご 50ねん こどものみなさまへ」が催されています(ちひろ美術館・東京、安曇野ちひろ美術館にて)。あそび・自然・平和という三つのテーマを掲げていますが、その企画協力者の一人として声をかけていただきました。自然や遊びに関するワークショップや、テレビ番組の制作協力などには多少経験があったためにお声がけいただけたと思っていたので、「平和」というテーマをいただいたときは正直戸惑いもありました。これは拙著『問いのデザイン』(学芸出版社)の視点から、一緒に平和についての問いを考えてほしい、というちひろ美術館さんからのリクエストでした。概念の輪郭があいまいなとき、個人的な習慣としている問い方の一つが「反対語のワークショップ」です。それで冒頭の問いをまず考えてみました。そこで得た最初の気づきが、「わたしたちは平和のことをよく知らないかもしれない」だったのです。

 自分の経験を振り返ってみても、戦争に関係して覚えていることといえば、小学生のときに足を運んだ広島平和記念資料館でみた、凄惨な写真などしか思い当たりません。目をそむけたくなるような写真をみた印象は残っていますが、目をそむけてしまった結果、戦争がどういったものかについての思考もそこで停止してしまっていました。その記憶を除けば、映画や漫画などフィクションの世界か、どこか遠い国同士の諍いをニュースで見聞きしたくらいでしか、戦争のことを知る機会はありませんでした。戦争をすることがよくないことはわかっていても、それをなくす具体的な方法や、自らに何ができるかを考える機会は決して多くはありませんでした。

 いわさきちひろさん自身は、青春時代を戦時下で過ごし、終戦後もベトナム戦争などの報に心を痛めていたそうです。「世界中のこどもみんなに 平和と しあわせを」ということばを残しているのですが、戦争そのものを扱った作品は必ずしも多くはないそうです。

 特別展の相談をするなかで、たくさんの絵本を拝見して気づいたのは、いわさきちひろさんは、ただただ日常の子どもたちの姿を描き続けてきたという事実です。「子どもは、そのあどけない瞳やくちびるやその心までが、世界じゅうみんなおんなじ」。子どもの絵本を描いてきた、いわさきちひろさんならではの視点こそ、わたしたちが平和について考えるきっかけとして大切だと直感しました。

 反対語のワークショップで、これまで何万人にも問いかけてきた言葉のうち、とくに多く扱ってきたのが「はたらく」と「まなぶ」です。地域住民や会社で働く大人向けには「はたらく」の反対語を、学校で学ぶ児童生徒には「まなぶ」の反対語について、それぞれ問いかけてきました。

 「はたらく」や「まなぶ」の反対語に、あそぶ・楽しむ・休む、といったポジティブな言葉が並ぶことは少なくありませんが、そうなると元の言葉がどちらかといえばネガティブな印象だったことになります。ある高校での講演で「まなぶ」の反対語を尋ねたときに、「教わる」という言葉を書いた生徒さんがいました。講演後の高校生代表者挨拶で、その生徒さんが「わたしたちは三年間、教わってばかりで自ら学んでいなかったことに気づかされました」とその気づきを紹介してくれました。このように、反対の言葉を一度考えてみることには、言葉の輪郭が見えてくる効果があるのです。

 最近、問いかける回数が増えてきた言葉の一つが「すてる」です。講演や出前授業のテーマとして持続可能社会に関するリクエストが増えているからだと考えられますが、このとき最初に出てくる「リサイクル」「リユース」「リデュース」は、学校の社会の時間などに習う3Rの定着がうかがえます。では、この習ったことのある三つの言葉を使わずに、別の表現で言い換えてもらうとどうなるか。

 不要になった日用品を溶かして素材に戻して再利用したり、燃焼時の熱を取り出して利用したりするなど、いわゆるリサイクル技術は、わたしたちが一個人として家庭内で用いることはとてもできません。わたしたちが主体的にできるのはリサイクルゴミとして分別し、適切な回収業者に引き渡すことであり、結果としてリサイクルシステムの一翼を担うことです。ほかにも主体的に持続可能社会に貢献する方法は何かないでしょうか。このとき生活のなかで用いる身近な言葉で「すてる」の反対語を多様に探ることで、様々なアイデアに結び付きます。

 たとえば「大切に使う」や「譲る」などの表現が、反対語のワークショップでたくさんの人から提案されます。キレイな形状のペットボトルを、一輪挿しとして部屋の飾り付けに使う方法や、不要品をオンラインフリーマーケットで譲るなど、主体的にとれる行動の選択肢がいろいろ増えていきます。

 その前に、どうすればその製品を捨てずに済むようになるでしょうか。それは、製品などにあらかじめ付与された価値とは異なる価値を、もう一度主体的に見出すこと、あるいは自分以外の誰か、そこに価値を見出してくれる人に受け渡すことで、そのモノの価値は延命されます。持続可能社会は、この価値の付与を、不断に創造し続けられる人が集まることによって実現するのではないでしょうか。ゴミと呼ばれるものは、それそのものに価値がないというよりも、わたしたちのアイデアや工夫が不足し、創造性が欠如することによって生み出されているだけではないでしょうか。

 反対語のワークショップを通じて、何気なく使っているわたしたちの言葉、それが表す概念の輪郭をもう一度はっきりさせるきっかけが生まれます。改めて、「平和」の反対語を「戦争」や「争い」といった言葉を使わずに考えるとしたら、わたしたちはどんな言葉を頼りにすればよいのか。それがわたしの頭から離れない大きな問いの一つとなり、この企画をきっかけに、たくさんの人に同じ問いを投げかけたくなりました。

 ある人は「差別」や「格差」といった強く否定的な言葉を用い、またある人は「ぎすぎす」や「ざわざわ」といった表現でなんとか頭の中にあるモヤモヤしたものの輪郭を説明しようとしてくれました。「平和」の反対語を考えるときに、よく知らない「戦争」という言葉だけで、果たして平和にちゃんと向き合うことができていたのか。「戦争はよくない」「戦争はなくすべきだ」。どんなに美辞麗句を並べても、やはりわたしたちは戦争を直接は知らないし、止める方法も起こさないやり方も、理解しているとは言い難い。まずはもっと身近な言葉から、自分たちの知っている言葉を尽くして「平和」の反対語を考えるべきではないでしょうか。

 「平和」の反対語についてはまだ考え始めたところで、適切な言葉は見つかっていません。それでも「違いを認めようとしないこと」や「知らないことを遠ざけてただ恐れること」など、説明可能性を高めてくれそうな重要な言葉も見つかり始めています。日常生活のなかで、自分が経験してきた言葉で説明できれば、少しずつ手元で考えられることも増えてくるはずです。

 反対語の反対を考えることで、「知らないままにせず、もう一歩近づく勇気をもつ」「情報を鵜呑みにせず、自ら声をかけて確かめてみる」といったアイデアも浮かんできます。これならどこかの誰かに解決を任せきりにせず、自分たちにも主体的にできることが残されています。この延長線上に平和のタネがあるのであれば、わたしたちにもまだできることがたくさんあるはずです。

 そのような視点で改めて、いわさきちひろさんの絵本を読み返してみると、平和という言葉が直接に使われていないだけで、絵本のなかに示唆に富むたくさんの視点が見つかります。人生で何か、かなしい気持ちや絶望的な気持ちになってしまったとき、やさしい世界が広がる絵本の一冊を思い出すことで、心の安寧が手に入り、平和に向き合う力の一つとなることを祈念して。」

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