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村上靖彦『交わらないリズム: 出会いとすれ違いの現象学』

☆mediopos-2419  2021.7.1

「人間はリズムに貫かれている」

人間は「人−間」という
「間」の存在だが
まさに「間」があることで
リズムによる分節を持ち得ている

人間はリズム存在なのだ
リズムが存在することでカオスは分節化される
分節化されることで人間は人-間となり
世界との関係を立ち上げることができる
分けることで分かるということでもある

著者はこれまで
医療や福祉の現場で
人々の語りに耳を傾けてきたという

本書ではそれを
「リズムとメロディー」という
「哲学の問い」としながら
「行為と出会い」について論じているが
それを複数のリズムである
「ポリリズム」という観点から捉えている

リズム存在である私たちは
ひとつのリズムだけで生きているのではない
一人ひとりのなかには
「多様なリズムがきしみ合い響き合っている」
そして他の人間のリズムと絡み合いながら
ポリリズムを生きている

「ポリリズム」とは
さまざまなリズムの
出会いであり
絡みあいであり
ぶつかり合いであり
響き合いである

そこに私たち一人ひとりの
「行為」があり「出会い」がある

また音楽には
リズムとメロディーが存在するように
「メロディーはリズムをはら」み
「メロディーの流れのそのつどの形がリズム」であり
「リズムはつねにポリリズム」として現れる

メロディーはいわば生命の動きの「持続」であり
それゆえ私たちはメロディー(歌)をもつことで
ひとりの人間として生きることができるとともに
他者とつながる力・行為ともなってゆく

けれども私のリズムと他者のリズムとは
その間につねに「ずれ」があり
まさに私と他者が「出会」うことで
その「ずれ」がさまざまなポリリズムを生んでゆく

また出会い方もまたさまざに変化し
その状況は新たに組み変わっていくことになる
そのとき「世界(社会状況、対人関係)は、
リズムを通して(再)編制され」
それが創造的な契機としての転回点をもつことになる

わたしたちはそのように
わたしたち一人ひとりのなかのポリリズムと
他者とのあいだのポリリズムによって
さまざまな「出会い」と「すれ違い」を生むが
そうした視点で見ることで開けてくるものがある

著者は「あとがき」のなかで
「音楽−−−−ポリリズムの音楽史」についてもふれているが
音楽とケア(をふくむさまざまな人間の営為)とを
「ポリリズム」において交差させてみることで
さらに見えてくるものがあるように思われる
まさに「交わらないリズム」
「出会いとすれ違いの現象学」として

■村上靖彦『交わらないリズム: 出会いとすれ違いの現象学』
 (青土社. 2021/6))

「人間はリズムに貫かれている。本書は、私が長年医療や福祉の現場で教わったことを哲学の問いとして引き受け、リズムとメロディーという切り口から行為と出会いについて論じた書物である。(…)
 自分の生活も他の人たちとの出会いも、さまざまに異なるリズムが折り重なったものであろう。たとえば人との付き合いのなかで、相性の良し悪しや、波長が合うことや行き違いはつねにあるが、それはリズムが合う合わないということでもある。多くの日本語の慣用句もリズムと関わり、たとえば「馬が合う」「拍子抜け」といったものが思い浮かぶ。「息が合う」「一息入れる」「息が詰まる」というように、「息」にまつわる表現は、対人関係や生活のリズムと関わることが多い。リズムを論じた中井正一は、「間が合う、間がはずれる、間が抜ける、間がのびる」ことに注目した。あるいは自分のリズムと、社会から要請されるテンポが合わなくて、日常がうまく過ごせないということもある。気ばかり焦るが体が一向に動かないというときも、自分のなかでリズムがずれている。つまり他の人とのあいだでも自分のなかでも、リズムがぎくしゃくすることがある。言い換えると、リズムは単数ではない。リズムが複数の線が絡み合ったポリリズムとして生じる。」
「世界はさまざまなリズムがからみあって流れを作っている。それだけではない。一人ひとりの経験も多様なリズムがきしみ合い響き合っている。」
「ポリリズムとは、生の動きを内側から捕まえるときに帰結する、人間と世界の見え方である。つまり現象学という方法論をとると必然的にポリリズムが浮かび上がってくる。本書の主張はシンプルである。私たち一人ひとりの経験は複数の異質なポリリズムがからみあったポリリズムであり、そして対人関係もまた異質なリズムがぶつかり合うポリリズムである、ということだ。ケア領域はこのポリリズムと出会い、ポリリズムへと介入する。それゆえ本書は行為と出会い、そして出会いそこねを主軸として論を展開する。」

「多くの場合リズムとメロディーは補い合って音楽を構成する。」
「とはいえ行為のリズムをイメージすることは容易でも、行為のメロディーというものは想像しにくい。メロディー(歌)が行為や経験をどのように貫いているのか、この点については(…)ルソーが大事なことを教えてくれる。歌・メロディーはまずもって生の力動の発露である。メロディーは行為のリズムを貫く連続性と不連続性であり、かつリズムとリズムが出会うための動力、つまりある人の生の運動と他の人の生の運動とが出会ったり同期したりする原理として登場する。」
「ルソーにおいては、歌すなわちメロディーが、生の連続性を作るとともに、生を物質的自然から切り離すことで、人間を人間として成立させる(…)。」
「メロディーは人とつながる力であるだけではない。独りになる力、自分が自分の場を手にする力でもある。そのことを考えるために、ジュネの小説、とくに『薔薇の奇跡』を取り上げる。(…)
 ジュネの文学は対人関係の喪失を前提とし、孤独の修復を目指すのではなく刑罰をもたらす犯罪を希求する。あるいはここでは犯罪と刑罰こそがジュネにとっての回復となる。このような孤立と犯罪を貫く力のことをジュネは「歌」と読んでいる。
 ルソーが発見した「歌」は人と人をつなげる力であり「意味」という人間的な水準を開く力だった。ルソーにおいては他者と関係づけるがゆえに自分自身の存在を確かめる場面ともなった。これに対してジュネにとっての「歌」とは対人関係を絶たれた孤立のなかにあってなお自分自身保つ力のことである。」

「人間はリズムとして世界と出会い、今ここで屹立する。」
「リズムはそもそも人が世界とはじめて出会い世界のなかに立つ出来事なのである。」
「人が存在全体を引き受けたときに、もしも座標を決めて秩序を生みだすことができなかったらカオスとなって飲み込まれる。(…)まず形の算出は、世界全体が予期せぬ変容を被るという予測不可能性が強調される。予見できない変容の到来こそ可能性を超える超可能性である。つまり形の産出と超可能性は同じ水準のものである。」
「呼びかけられた<そこ>に視点が置かれる。客観的な位置の手前にある<そこ>を基点として(他者へのそして他者からの)呼びかけが成立し、世界は変容するのである。あるいはおそらく正確には、このような<そこ>が可能になるときに居住可能な世界が生まれる。<そこ>は世界の発生的な起源であることになる。形=リズムが発生する基点が<そこ>なのだ。」

「本書は二本の線を語ってきた。一つ目の線は歌とメロディーによって表現される生命の動きを持続の線であり、横の線であると言える。私たちは潜在的にはつねになにがしかのメロディーのなかに居るがゆえに、ときには声を出して歌うこともできるのだろう。
 メロディーはリズムをはらむ。メロディーの流れのそのつどの形がリズムだ。そしてリズムはつねにポリリズムである。というのは、個人の生を貫く複数のリズム(ポリリズム)と、複数の人が出会って生まれるポリリズムだからだ。
 ところで、リズムが必然的にポリリズムになるのは、身体が不可避的に(自分自身には見えない)余白をはらみ、歌ゆえに出会い、身体の余白ゆえにずれ、ポリリズムが推移する。この複数のリズムの出会いかたが変化するとき、状況が組み変わる。この転回点が、出会いが持つタイミングだ。
 タイミングは二本目の線である。出会いのタイミングという視点から見ると、リズムは世界との関係が立ち上がること、世界との関係が再編成されることでもある。世界(社会状況、対人関係)は、リズムを通して(再)編制される。
 リズムを縦の方向で考えたときには、居場所の開かれとそこでの遊び、芸術の創造、状況が一変する行為(社会状況・対人関係)といった創造性について記述をしていくことができる。根源的には世界そのものが形をもって立ち上がる原的な発生として縦のリズムが登場する。」

「縦のリズムの線は根源的には、騒音や無音からリズムが誕生する発生の線である。完全な孤立や切断のなかから歌を生みだし、あるいはリズムをつむぎだすこともある。斎藤陽道のよういいまだ歌が存在しなかったまったくのゼロ地点かた歌が発生する場合もあるし、ジュネのように関係が切断された孤立のなかから歌という仕方で潜在的な関係の地平が開かれることもあろう。あるいは萩原朔太郎や梶井基次郎のようにカオス(ノイズ)に向けて下降することもあろう(カオスは居住不可能な場所なのだから、芸術以外の形では耐えがたい経験だ)。メロディーとリズムは生命が展開する横糸の線だが、同時に沈黙や切断から発生する縦軸の線としても捉えることができる。」

「リズムは心の問題でもあれば身体の問題でもある。あるいはどちらの問題でもない。そして個人の問題でもあれば集団の問題でもある。そもそも一人の人がかかわるリズムは、いくつかの対人関係のリズムや、社会生活のテンポが要請するリズム、あるいは生育歴のなかで家族の歴史が課したリズム、体調や病などさまざまなものがある。つまり生理学的プロセスや社会制度が強いるリズムなど異質なリズムのからみあいだ。そのような多様な対人関係のポリリズムが一人の人のリズムを構成し、そしてそのつど他の人との交わりのなかでポリリズムが生まれる。そしてポリリズムの背景には意識することも身体経験にすることもできない身体の余白が控える。リズム一元論であり、リズム多元論である視点をとったときには、心と体の区別は意味をなさに(むしろ人間の定義は、身体も意識も含むさまざまな水準で生じる異質なリズムの集合体となる)。そして個人のリズムの他の人たちのリズムが流れ込み、それによって個人のリズムはつねに他の人たちのリズムと応答関係にある。
 リズム一元論多元論は、ある固有の平面を設定する。本書は大きくいうと行為論でありリズムも行為のリズムとして考えてきた。それゆえリズムは身体のリズムであるが身体の余白でもあり、同時に次式で感じ取られているリズムでもある。このようなリズムとメロディーは、ベルクソンが持続あるいは生の跳躍と呼んだものとかなりの部分重なると思われる。言い換えると、リズムという現象に焦点をあわせることで、人間という生物種に固有の次元を捉えたのだとも言える。唯物論が力を持つ現在の流行のなかで時代錯誤に思えるかもしれないが、とはいえ人間固有の平面を確保しておくことに大きな意味があるように思える。
 つまりリズムの存在論とでも呼べる次元が行為論の平面としてひろがっている(…)」

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