見出し画像

草森紳一『ナンセンスの練習』

☆mediopos-2480  2021.8.31

賢い人が多すぎる
賢くなりたいという人
ひとから賢いと思われたい人が多すぎる
昨今の承認欲求もその系列である

そんな世界から逃れられれば
ひとはもっと自由になれる

そのためにも
意味から自由になりたい
つまりセンスを超えたい
じぶんという感覚を超えたい

センスにこだわるということは
知にこだわるということでもあるから
知を超えなければならない

知を超えるということは無論
じぶんを賢くするのではない
馬鹿になれるということだ

これは悪人正機にも似た衝動である
じぶんを善人だと思っている以上
善人であることを超えることはできない
だから自分を悪人であるとするところからはじめる

けれども意味から自由になり
馬鹿になることそのものにこだわりすぎると
それがまた意味となり
馬鹿の裏返しの賢さとなってしまう

おそらく「私」というのは
そんな意味−無意味をぐるぐるめぐりながら
結局のところ「私」を超えられないでいる

草森紳一があとがきで書いているように
「「この七・八年間、おそらく一貫して
考えてきたと思われることは、
自分をいかに超えるかということであった」が
「自分を超えられなかった」という

「ナンセンスの練習」というのは
「人間はとうてい自分を超えがたいものだ
という悲鳴の破裂音だともいえる」ともいうのだが
それでも
「死にくたばるまでナンセンスの練習という
阿呆なこころみをしていなかければならないだろう」という

これは一種悟りを求めることにも似ている
悟りはいちどその境地に至ればいいのではない
それはそこから脱落しながらも
何度でもそこに至りつづけようとすることだ

意味のある世界と
それを超えた世界を
往還していくしかないということでもある

ともあれまずは
じぶんが意味の世界にまみれ
賢く見られようとしていないかどうかにだけは
常に注意深くなければならない
人は馬鹿になれないとき
救いようのない愚かさとともにあるのだから

■草森紳一『ナンセンスの練習』
 (晶文社 1971.11)

(『ナンセンスの練習』〜「ナンセンスの練習」より)

「人間はみな馬鹿だと認識した人々、古今東西数えきれない。だが、認識することによって救われた人間もまたいないであろう。『痴愚神礼讃』を書き、阿呆瘋癲をすすめ、知の悪行をならべたてたエラスムス(一四六六 - 一五三六)の痛快も、結局は、書く痛快、認識する痛快にすぎず、彼の生涯は、惨憺たる知との悪戦、己れの知の痴愚、己れの世間知の痴愚に、彼自身泥まみれになったのだ。」

「ともかく、みな馬鹿で、滑稽であることを承認しよう。そのような認識は、しないものよりましだというわけではなく、同じ愚は愚なのだが、その洞察を行動化しなければ手遅れになるような、そんないやな地点に、時の棹をまさにすすめていて、我々が、馬鹿であること、我々の行動はナンセンスであることを、笑いとばすのではなく、呑むことが、自らなりおおすことが要求されている。認識とは不愉快な人間の病であるが、その病の中でナンセンスにならないなら、その病はまた治癒できないのである。人間社会の発展は「馬鹿であることを悩む」人々を増大させ、それを一応均等な知識を与えることによって、解消させたと錯覚させ、野蛮なる「馬鹿であることを悩まない」人々を減少させ、「馬鹿が一番よいのだ」という今日の必要状況を一層、救いがたいものにしている。」

「センスを超えるといっても、人間そう簡単に超えたり、超え続けたりできるものではない。超えたり、超えなかったりするのである。センスを超えたナンセンスからずるずるとコモン・センスにまで転落したりするのである。」

「禅坊主たちが目指したのは、意味の否定としてのナンセンスではなく、意味の否定というものでさえ、なくなる、ことであった。東陽英朝という室町末の禅僧は、死に際して一喝した。「涅槃の四柱一時の夭逝す、看よ看よ、珊瑚の枝枝月を撐着す、なんに憑ってか、魔宮墨と化し、魔胆落つる」意味こそ魔であり。意味の否定もまた魔であり。すべての意味にとまどい生きる人間の肉体とこころは、ついに墨と化し、落ちたのである。涅槃の四柱とは、不生不滅の法身をえたものの四徳のことであるという、生滅せぬ常徳、生死の思いの受けぬ楽徳、妄我を離れた真我の徳、惑を超えた清浄の徳だという。東陽は臨終に際して、この目的とした四柱でさえもが一時の折れてなくなったぞ、といったのである。そもそもナンセンスが、作るものでも見るものでもなく、自分の生きかたそのものがナンセンスとなることが至上なのであって、ナンセンスを練習するということは、ナンセンスの作品の受容を訓練することなどではありようはずもない、ということであったのかもしれない。
 和魂、漢才、洋才のセンスのごった煮の中でぐちゃぐちゃになっている我々は、ナンセンスの生神である子どもにいまさらやすやすと戻ることはできるはずもなく、誰もが禅坊主になれるものでもない。禅坊主とて、ナンセンスのマッスに一生持続し合体できる保証はない。社会的反抗の人さえ、社会的規範に厳密に一ミリの隙間もなく、離れえたという人にお目にかかったこともないと同じように、そんな中で、そんな境地に自らをほうりこめないかもしれぬもろもろの我々が、その活性を「芸術」などというものに見出さなければならないのは、やはり衰弱なのだ。
 たしかにナンセンス論を文章とすること自体、ナンセンスなことはよく知っている。アンブローズ・ビアス(一八四二 - ?)はその『悪魔の辞典』の「ナンセンス」の項でいう。「ナンセンスとはすばらしい出来映えの本辞典にたいして唱える異議の数々」 ビアスは、所詮センスのよいナンセンスの人にすぎなかったが、自分をふくめて人間みな意味にひきずりまわされる馬鹿者だということはよく知っていたのである。私のこの混乱した雑文もビアスにならうものであるのは、いうまでもない。」

(『ナンセンスの練習』〜「あとがき」より)

「この七・八年間、おそらく一貫して考えてきたと思われることは、自分をいかに超えるかということであったと思う。デザインを考え、音楽を考え、写真を考え、マンガを考え、中国の詩や哲学を考えたのも、それらをいっしょくたにまぜあわせて考えたのもすべて自分をいかに超えるかということにつながっていたのである。それらを総覧する時他人が戸惑うほどもっと七裂八裂していると思っていたのだが、そうはなっていず、あさましくも、物哀しいほどに一貫していて、自分の肉体のうちにすべてとどまっていた。自分を超えられなかったわけだ。
 だから「ナンセンスの練習」という言葉は、人間はとうてい自分を超えがたいものだという悲鳴の破裂音だともいえるのだ。もし人間が超えられるのなら、それが生得の体質であれ、たえまない練習によるものであれ、追いつめられたすえに自分を棄ることによってであれ、自分というものを超えることができるとするなら、つまりその超えることが瞬間ではなく、ずっと持続できるものなら、もうなにも原稿などを書く必要もないであろう。文を書き綴るということは、こだわることにほかならないからである。だから私は、死にくたばるまでナンセンスの練習という阿呆なこころみをしていなかければならないだろう。つまりこだわりつづけることをしなければならないということであり、したがって文を書き綴るという行為をやめられないということである。」(昭和四十六年一月一日)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?