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岩野卓司・丸川哲史 (編)『野生の教養/飼いならされず、学び続ける』/対談=岩野卓司×丸川哲史 「〈ブリコラージュ〉と未来の〝教養〟」 (『週刊読書人』)

☆mediopos2921  2022.11.16

「野生の教養」
いいタイトルだ

「飼いならされず、学び続ける」
言い得ている

いまもっとも求められているのは
飼いならされていない
みずからが自己教育的に学び続ける
「野生」の教養である

まず「教養」とは何か
ただ知識を増やすだけでは教養とはいえない
そこには統一性のある
「その人の哲学や世界観が反映され」
「その人なりのかたちで相互に連関し」ていて
はじめて「教養」ということがいえる

現代は専門化が進み
機械の部品のような知識だけが
相互の関連性を失ったまま
データベースとして蓄積され続けている

しかもそれらの知識をもつことが評価されるのは
管理社会において利用しやすいようなものばかりだ
しかもそれはお金の流れと深くリンクしすぎている

逆にいえばそこから外れるもの
もしくはそれらに批判的な知識は
評価されないどころか批判や攻撃の対象にさえなり
政治的にもメディア的にも隠蔽さえされてしまう

そこには「教養」はもはや存在しない

そもそもいわゆる「教養」とされるものでさえ
その多くは飼いならされ
外から与えられ教育されたものばかりであり
哲学や世界観にしても同様である

ゆえにこそ「野生」が求められる

「野生」といえば
「原始時代やアフリカのジャングル」のようなものが
イメージされやすいが決してそうではなく
「私たちの日常に潜んでいる」ものとして
とらえたときはじめてそれが意味を持ちえてくる

「野生の教養」は
「栽培=家畜化された思考」によって
「飼いならされず、学び続ける」ことなのだから

しかしそこで注意深くなくてはならないのは
「野生の思考」のレヴィ=ストロースが
なおもとらわれているところのあるような
「野生の人」=純朴な人
文明人=堕落した悪人
という二項対立図式である

ジェンダーやトランスジェンダーなどが
論じられるときなども
ただ既存の価値観を逆転させているだけのような
二項対立図式のまま議論がなされていることも多い

その意味で
「野生の教養」は
二項対立から自由な「野生」
二項対立から自由な「教養」へと向かう必要がある

なんにせよ「飼いならされない」ことだ
管理社会化の進行する現代だからこそ
「飼いならす」ことを主目的とする管理社会の陥穽から
逃れ続けるような自由な「教養」が
見出されなければならない

■岩野卓司・丸川哲史 (編)
 『野生の教養/飼いならされず、学び続ける』
 (法政大学出版局 2022/11)
■対談=岩野卓司×丸川哲史
 「〈ブリコラージュ〉と未来の〝教養〟」
 (『週刊読書人11月4日号』所収)

(岩野卓司・丸川哲史 (編)『野生の教養』〜「はじめに————「野生の教養とは」より)

「教養とは何だろうか。」

「知識を増やしていくことは、たしかに大切である。教養のために必要な条件である。しかし、それだけではただの物知りではないだろうか。クイズ王と大してかわらない。教養のある人は博識であるが、その知識にはその人の哲学や世界観が反映されているのではないか。知識がただ並んでいるのではなく、その人なりのかたちで相互に連関していて、そこには統一性があるのだ。」

「私たちが本書で提案したい教養は「野生の教養」というものである。野生とはまずは「飼い慣らされない」ということである。現代社会では私たちは飼いならされた思考にあまりに慣れてしまっている。だからこそ、野生が見直されている。野生というものは、単に原始時代やアフリカのジャングルに特有なものではない。実は私たちの日常に潜んでいるのだ。身近な自然に触れたときはもちろんのこと、ポケモンなどのアニメのキャラクターやゲームなどにも野生を感じることはできる。慣れ親しんだ日常をちょっと違った角度から眺めてみただけで、私たちは野生に出会う驚きを体験する。教養のなかで無意識のうちに眠っている野生を暴き出すのが本書の目的である。」

「「野生」による教養の問い直しは、従来の教養が基盤にしている西欧中心の歴史の問い直しにもつながる。教養がその根拠を、リベラル・アーツに求めるにしろ、近代の教養主義に見出すにしろ、これらは西欧中心の歴史が産み出した教養である。この歴史を西欧社会は普遍的なものちょ見なすのであるが、よく考えてみると、これは「野生」と形容され、「未開」と呼ばれる人たちの歴史を排除することによって成立している。こういった人たちは歴史の外に置かれるか、せいぜい歴史の低い発展段階に位置するものとされてしまうかである。「未開」の人たちに固有な歴史は無視されており、西欧との関係においてしか彼らの歴史は普遍的な歴史に登録されえないのだ。こういった歴史観に抗して、「野生の教養」は「野生」を歴史の原点に据えながら、「未開」の人たちに固有な歴史を解放することで歴史を再解釈していく。ここに今までの教養とは違う教養の新たな姿が見えてくるだるろう。」

(対談=岩野卓司×丸川哲史「〈ブリコラージュ〉と未来の〝教養〟」より)

「岩野/今の社会では、物の考え方がつねに二項対立的です。さまざまな問題を対立構造に単純化して相手を論破するという、ディベートの技術なんて典型的ですよね。その結果、現実の複雑さに気づこうという眼差しが失われていきます。だから〈教養〉、しかも根底から考えていこうとする「野生の教養」が必要なのです。
 ただ「野生の教養」といっても、〈野生〉を理想化するということではないのです。この本でも〈野生〉という言葉でいかに先住民が差別されてきたかについて書かれています。しかも善意のもとで差別されてきたという場合もあるのです。レヴィ=ストロースはこの二項対立について甘いところがあります。彼がルソーの影響のもとで捉えた「野生の人」はまったく純朴な人であって、それに対して文明人は堕落した悪人なのです。でもそれは野生を理想化して文明が悪いという形で、二項対立そのものは温存したまま、価値を逆転させているだけなのです。しかしそれでは不十分であり、対立構造そのものを問いなおす必要があるのではないでしょうか。
 だから、丸川さんがさっきおっしゃった民主主義の原点が暴力の可能性を孕んでいるかもしれないし、一つ間違えると怖いかもしれない、という考えは重要なわけです。民主主義そのものが正と負の両義的な価値をもっているのです。野生の教養は、政治の「野生」を問うことで民主主義の複雑さに目を向けることを促しているのです。

丸川/今日問題になっていることは、もはや自然VS人間という構図では考えられなくなっている。
(…)
 ここで想定し得るのは、私たちがそこに住むと考えられている自然は既に〈人新世〉からのもので、それ自体が一つの有機的な機械のようにして〈環境〉を構成してしまっている。自然VS人間といった古典的な構図は既に乗り越えられ、また逆にそのような歴史プロセスが私たちの身体に入り込んでいます。
 これは、一人一人の人間を個体化して得られる分析、実験室に入れて観察することではえら得ないものです。近代科学は、感覚の反応の結果として人間を扱って来たわけですが、むしろ私たちの身体において長期的に蓄積されている「情緒」というものに、人間個体以外のものが確実に息づいている。これは先に述べたところでは脳幹に位置するもの、ベンヤミンのいう「触覚」の領域です。
 このことを別の切り口から言いますと、人間のDNAのなかに既に〈動物〉が入り込んでいるということです。」

「岩野/動物に関してもうひとつ別の例でいうと、たとえば〝未開〟の人たちが動物を捕獲しようとして罠を仕掛けるとする。そうすると彼らは、直観的に何かを作るような形でやるわけですね。与えられているものによって何かインスピレーションを得て何かを作っていくっていう、そういう作業をします。だから、そのへんに偶然あったものとか、手っ取り早さとか、状況に応じてというようなところがあって、プログラムされたものではないし、化学的な概念を前提にしているものでもありません。
 レヴィ=ストロースもこのことを問題にして、それを「野生の思考」として考えるのですが、反対に科学というものは、概念とか仮説とか推理でものを考えていくことなんだと主張します。でもそれは違うように感じます。科学の中にもブリコラージュ的なものがあるんじゃないのか。例えばいろいろなデータがあって、そこから何か一つのものを発見していくというような手法の中には、何かブリコラージュ的な、その場しのぎの何かがあるのではないのでしょうか。
 だからブリコラージュを〝未開〟の人の思考に固有なものと考えるのではなく、われわれ現代人の日常的な思考や科学的な思考にいたるまで、ブリコラージュは入り込んでいるのではないのか。そう考えると、野生と教養を分けるのではなく、教養の中にも野生を見出すことができるのです。」

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