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ジョージ・クブラー『時のかたち―事物の歴史をめぐって』

☆mediopos3542(2024.7.29)

すでに6年前になるが岡崎乾二郎が
「芸術史のコペルニクス的転回」として

「事物に従って生み出される、事物による事物の歴史。
人のつくったすべての事物を芸術として扱うことで出現する
単線的でも連続的でもなく、持続する様々な時のかたち。
先史以前/以後の区分を廃棄。革命的書物、宿願の初邦訳」

と評したジョージ・クブラー
『時のかたち――事物の歴史をめぐって』は
1962年に刊行されているがいまでもなお示唆的である
邦訳されたのはようやく2018年

アメリカの美術史家
ジョージ・クブラー(1912-1996)による本書は
20世紀に書かれた美術をめぐる
もっとも重要な著作のひとつだという

こうしたエポックとみなされる類の著作から得られるのは
それまでとは異なった「見方」「視点」である

ある決まった視点のもとで
それが照らし出すものを詳細に見ていくことも重要だが
それ以上にそれまで見えていなかったものを
異なった角度から照らし出すことで
まったく別様に見ることができる

カッシーラーが「芸術は象徴的言語である」と定義し
その「意味」を考察したのに対し
ジョージ・クブラーは「形」という観点から
「事物」の歴史へと向かうことを示唆している

たとえば私たちがある芸術作品を鑑賞するとき
作品は「事物」として目の前にあるのだが
それは見たままのものを見ているのではない

○○時代を生きた○○という作家が
○○の影響を受けて描かれた○○様式の○○というように
作品に付随するさまざまなことがそこに記され
そうした情報のヴェールの向こうに作品が展示されている

そのとき鑑賞者ははたして「事物」としての作品を
その「作品」そのものの「事物」の有り様や
その「事物」が生まれてきた歴史の背景などを
たしかに見ているといえるだろうか

本書で提起されているのは
作者の「伝記」や作品の「様式概念」
そして「意味の分析」ではないような別の方法である

日本には手仕事によって生み出された
日常づかいの雑器に美を見出そうとする
柳宗悦らが提唱した民藝運動が生まれたが
それもほんらいは「作家性」といったことを排しながら
「事物」そのものの「美」を
発見するということを課題にしていたはずである

本書で扱われているのは芸術作品だけではない
芸術概念は「人間がつくり出したすべての事物」
にまで拡張されている

本書のタイトルは「時のかたち」であり
副題は「事物の歴史をめぐって」となっている

本書では「発端となる作品(prime works)に
その模倣物(replications)がつながってゆく
連続のあらまし」について述べられているが

それは「発端となる事物やその派生物のすべては、
同じ種類の活動の、初期だとわかる形態や
後期だとわかる形態として、時のなかに送り出されてきた」
のだと示唆されているように

「あらゆる事物はそれぞれに異なった
系統年代に起因する特徴を持つだけではなく、
事物の置かれた時代がもたらす特徴や外観としての
まとまりをも持った複合体」であり

それは「一般史に比べて、はるかに具体的で
物質的な存在を扱うもの」なのである

まさに「事物の歴史」をめぐる
「時」の「かたち」が問題とされている

ジョージ・クブラーは
「これまで生み出された時のかたちは、
限られた数の類型から派生した無数の形態で占められた、
海のようなものである」
「それらをつかまえるには、今使われているものとは違
う編み目を持った網が必要なのである」という

現在わたしたちが自明だとしている視点を見直し
あらたな見方を得るためには
「今使われているものとは違う編み目を持った網」が
必要であることに気づくきっかけとしても
本書の示唆はきわめて重要である

■ジョージ・クブラー(中谷礼仁・田中伸幸訳/加藤哲弘翻訳協力)
 『時のかたち――事物の歴史をめぐって』(SD選書 鹿島出版会 2018/8)

**(「序文——象徴、形、持続」より)

*「芸術は象徴的言語であるとカッシーラーは定義した。この偏った定義は、二〇世紀の美術研究を支配し続けてきた。それに伴い、芸術作品を象徴的表現としてとらえる考えにもとづいた新しい文化史が生み出されていった。こうして芸術は、歴史のなかの芸術以外の部分と結びつけられたのである。

 しかし、その代償は高くついている。私たちの注意がことごとく意味の研究に向いている間にもうひとつの美術の定義、つまり形の関係を系統的にとらえることがおろそかにされてしまったからだ。このもうひとつの定義は、意味を考察すること以上に重要である。これは、話し言葉が書き言葉よりも重要であるのと同じである。なぜならば、話し言葉は書き言葉に先立つものであり、書き言葉は話し言葉の特殊な発展形にすぎないからである。」

 形として美術をとらえるというこのもうひとつの定義は、もはや流行遅れとされている。しかし誰でも少し考えさえすれば、いかなる意味も形を持たなければ伝わらないということに思い至るだろう。どのような意味も、それを支えてくれたり運んでくれたり包んでくれたりするものを必要としている。それらは意味の運搬者であり、それらがなければ意味は私からあなたへ、あなたから私へ、あるいは自然界の一部から別の部分へとは伝わらない。」

「あらゆる芸術の形の構造にも、似たような秩序があるにちがいない。しかしそこに象徴性の強い作品群が現れれば、その系統のなかでの形の規則的な進化に干渉し、混乱を生じさせることになるだろう。視覚的なイメージによる干渉はほとんどすべての芸術に存在している。このことは建築にも当てはまる。一般に建築は、イメージを表現しようとする意図を欠いていると思われているが、ある表現が次の表現へと導かれるときには、それが大昔のものであれ最近のものであれ、過去の名建築のイメージを典拠としているのである。」

「本書の目的は、シリーズやシークエンスのなかで持続する形態学的問題に注意を向けることにある。これらの問題は意味やイメージとは独立して生じる。これは、研究者たちが「単なるフォルマリスム」に背を向け、複雑にからみ合った象徴の歴史学的復元に向かって以来、四〇年以上にわたって誰も手をつけなかった問題なのである。」

*******

**(「第一章 事物の歴史」より)

*「芸術概念を、人間の手によってつくり出されたすべての事物に広げてみよう。世界中の実用的でないもの、美しいものや詩的なものに加えて、すべての道具や文章までの含めてみよう。こうした見地からは、人間がつくり出したものすべてがそのまま芸術の歴史と重なって見えてくるだろう。その次には、すべての人工物を把握するためのよりよい方法を考え出すことが蒼穹に必要となる。そのための近道を見つけるには、実用的な見地からではなく、芸術から始めるとよい。もし実用からの考察を出発点にしてしまうと、すべての役に立たないものを見過ごしてしまうからだ。それに対して、事物の好ましさを出発点として考察を始めたならば、実用的なものも芸術と同様に多かれ少なかれ私たちが大切にしている事物であると適切に判断できるはずである。」

「このようにして作られた事物は、私たちが思っているよりも、はるかに正確に、時の流れていく様子を示している。そして、それらはそれほど形状を変化させることなく時を満たしてゆく。(・・・)しかし、このような視覚的に明確な過去を記述する私たちのやり方は、まだまだ洗練されているとはいえない。事物の系統的な研究は、イタリア・ルネサンスの芸術家たちの作品が伝記のなかに記述されるようになってから始まったもので、まだ五〇〇年も経ってはいない。」

*「時の流れという連続体を好きな長さに切り分けて歴史を語ることは歴史家の特権である。自分の切り分け方について歴史家が弁明する必要はない。歴史はどこででも同じように簡単に切り分けることができるし、語り手はどこでも好きなところから始めて物語をつくることができる。

 しかし、ただの語り手であることに飽き足らない歴史家にとって重要なのは、出来事における異なったタイプを切り分けられるような裂け目を歴史の中に発見することである。」

「数々の流派や様式は、一九世紀の美術史家たちが長年にわたって続けた在庫調査の成果である。」

*「二〇世紀に入ると、諸経験を象徴的に解釈する思想の影響のもとで、それまでとは違った方向性を持った研究が登場した。それは、図像の類型を、歴史的変化を伴う象徴的表現だとみなす研究である。そこでは一七世紀の用語であるイコノロジーが復活した。」

「このような科学史やイコノロジー研究の手にかかると、発見の瞬間やそのあとに起こる連続的な変容は慣習的行動のように、あたかも予定されていたかのような現象として復元されてしまう。しかし、このようにして復元された変容の工程は、歴史の実体から起源とそれに続く主要な分節だけをとらえた輪郭にすぎない。」

*「無生物である事物は、遠い過去にも人間が確かに存在したのだということを教えてくれる最も確実な証拠であり続けている。にも関わらず、この可視的過去についての記述には主として生物学的な隠喩が使われてきた。私たちは、ある芸術の「誕生」、ある様式の「一生」、ある流派の「死滅」、あるいは「開花」、「成熟」、「衰退」といった言葉をためらいもなく使いながら、芸術家の力量を言い表そうとする。」

・伝記の限界

*「芸術家たちが直面した課題の歴史や、彼らがそれを乗り越えてきた歴史を記述することは、実用的という面では正当化できるかもしれない。しかしそれはまた、美術史の価値を単に教育的な効用にとどめてしまうことにもなりかねない。長期的にみれば、伝記や作品目録といったものは通過点にすぎず、そこでは芸術における伝統が持つ連続的な性質はたやすく見過ごされてしまう。芸術の伝統は、伝記という断片だけでは適切に扱うことはできないのである。確かに伝記は、芸術家たちの実体を読み取る手段のひとつではある。しかし芸術家たちの生涯における歴史的課題を扱うのは伝記だけではない。これらの課題は、いつの時代であれ、芸術家たちが自身の誕生より前にあったものや彼らのあとに続くものとどのように関わるのかということについての問題だからである。」

・歴史家の責務

*「歴史家がなす特別な貢献とは、何よりもまず多岐にわたる時のかたちを見つけ出すことである。その専門分野が何であれ、歴史家の目標よは時を描くことにある。歴史家は時のかたちを探索し記述することに身を捧げる。歴史家がその形を写し取り、並べ替え、簡略化し、組み立て、彩色を施す。その姿は、題材の本質は何であるかを探求する画家に似ている。彼は、新しい方法で知覚した主題を伝えているうちに、新しい認識へと至る彼にしかないパターンを発見するはずである。」

・現在性の本質

*「「過去は現在を知ることだけに役立つ。しかし、その現在は私をすり抜けていく。『いったい現在とは何であるのか』」。この問いは、私の師であるアンリ・フォションの人生において究極の、そして最も重要なものであった。それは何年もの間彼にとりついて離れなかった。とりわけ一九四〇年から、ニューヘイヴンで亡くなる一九四三年までの暗く絶望的な日々においてはどうであった。以来ずっと、私もまたこの疑問を抱き続けてきた。そしてこの問いに答えがあるとしたら、私はその解決にいまだ一向に近づいていないようである。」

「私たちが直接経験できるのは現在の瞬間だけである。それ以外の時間は無数の段階を経て、また予期せぬ運び手によってこの瞬間の私たちへと中継されるシグナルのなかにのみ現れる。これらシグナルは、物体が今まさに重力の中心に向けて落下する瞬間まで人に気づかされることなく蓄積された運動エネルギーのようなものだ。このシグナルがなぜ古くて、現在にあるものではないのかと問う者がいるかもしれない。それはシグナルによるメッセージが「ここ」や「今」ではなく、「あそこ」や「あの時」から来たという性質によっている。つまり、それがシグナルであるならば、それはもう過去の行為なのであって、ここに存在する「今」に包含されることはない。シグナルの知覚は「今」の出来事だが、その衝撃も伝達も「あの時」になされていた。どのような出来事においても、現在という瞬間は、すべての存在のシグナルが投影された一枚の平面なのである。そして時間の流れのなかで、その平面上の私たちが余すところなく移行しうる次の瞬間はない。」

・自己シグナルと付随シグナル

*「今まで論じてこなかったその別のシグナルとは、自己シグナル(self-signal)の上に付加されたもので、ここには文字で書かれたものも含まれる。このシグナルは自己発生的であるよりも付随的であるという点で、自己シグナルと異なっている。自己シグナルは、言い換えれば、事物の声なき実在宣言である。作業台のハンマーを例にするなら、その柄は握るためであり、鎚はこれから厚板の繊維と繊維の間に釘を堅くしっかりと使用に耐えるように打ち込もうとしている使用者の拳の代わりであることを知らせている。一方、付随シグナル(adherent signal)はハンマーにつけられた刻印がそれにあたる。刻印はそのデザインが保護された登録商標となっており、商業目的でつくられたことを表しているにすぎない。

 精妙な絵画もまた、自己シグナルを発する。枠に張られたカンヴァスの平面上の絵具とその配置は、工学的効果にもとづいて、シグナルを発する。それによって鑑賞者は、立体的形態で占められた奥行きある空間を生み出す錯覚と絵画の実際の表面とを混ぜ合わせたような体験を、同期的に享受する。現実の絵の表面と錯覚がつくる立体的幻影との相互関係が無尽蔵であることは明かである。」

「絵画、建築、彫刻、それに類するすべての芸術を検討すると、付随シグナルは、自己シグナルを犠牲にして、多くの人々の注意を引きつけることがわかる。絵画においてたとえば、画面の前景に人か動物のような影が描かれていたり、荒れ果てた小屋にいる幼子の体から発せられる光が描かれていたとする。これらすべての形を結びつけるのは聖ルカによるキリスト降誕の物語であり、画面の隅に描かれた紙片は画家の名と制作年を表している。これらすべては付随シグナルであり、実在的次元を超えて、聴朝敵秩序のなかで複雑なメッセージを構成している。(・・・)しかし、これら付随シグナル相互の関係や自己シグナルとの関係は、画家が対峙した取り組みや構想、問題といったものの一部分を構成しているにすぎない。画家にとっては描かれた絵自体こそが、彼の実体験によって導き出された解決そのものなのである。」

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**(「第二章 事物の類別」より)

*「わたしたちがとらえたい対象は、さまざまな時のかたちである。歴史の時間は、物理学者たちが自然の時間を計るために用いるような均質できめの細かい時間単位に比べて、あまりにもきめが粗く簡潔である。これまで生み出された時のかたちは、限られた数の類型から派生した無数の形態で占められた、海のようなものである。それらをつかまえるには、今使われているものとは違う編み目を持った網が必要なのである。様式概念はそのような網にはなりえない。(・・・)伝記は歴史的実体を凍りつかせ、切断し、切り屑にしてしまう。建築、彫刻、絵画や工芸についてのこれまでの歴史学では芸術的行為の些細な細部も、主要な細部も、いずれをも取り逃してしまう。単体の芸術作品を取り上げた研究論文は、積み上げられた壁の所定の位置に嵌め込むために整形された嵌め石のようだ。しかし、その壁自体は、目的も計画もなしに建造されているのである。」

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**(「第三章 事物の伝播」より)

*「事物の発生は発明、反復そして廃棄といった、私たちの事物に対する行為に触発される。発明がなければ、反復のよどみだけが残り、また複製がなければ、人工物はどれも決して十分な量になることはない。そして浪費や廃棄がなければ、あまりに多くの事物がその有用性が失われたあとも残り続けてしまうだろう。これらの過程に対する私たちの態度もまた絶え間の内変化のなかにある。それゆえに私たちは事物の変化を図式化すると同時に、変化それ自体についての概念が変化するのを追跡しなければならないという二重の困難に直面するのである。

 私たちの時代は「変化」に対して相反する感情を抱いている。現在の生活状況は絶え間のない変化を受け入れることを必要条件としているにも関わらず、私たちが知るすべての文化的伝統は永続的な価値を好む。つまり私たちはいわゆる「前衛主義」と同時にその過激な革新が惹き起こす保守的反応をも育てている。これと同じ現象として、複製概念は教育の過程や芸術的訓練からは疎外されているにも関わらず、私たちはこの産業化時代において機械によるすべての複製生産物を歓迎している。産業化における計画的消費という概念は、現代においてこそ道徳的価値を獲得しているが、何千年も続いた農耕文明においては非難されるべきものだった。」

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**(「第四章 持続の種類」より)

*「事物の歴史は、曲解がまかり通る一般史に比べて、はるかに具体的で物質的な存在を扱うものである。さらに事物の歴史が描くさまざまな形はそれぞれにきわめて明瞭な特徴を持っている。そのうえ人がつくった事物は、生物学上の動物や物理学における自然物質とは異なった時間を占有し、特徴ある持続の仕方を持っている。人工物の持続時間は、その見かけの違いと同じく、種類によって異なっている。つまり各々の持続はそれぞれに特徴的な期間と周期からなっている。しかし私たちがその違いを見落としてしまうのは、私たちの言語における一般化という慣習のためであり、その慣習は私たちが共通認識としている太陽時間へと、それらを安易に変えてしまうからである。」

・時のかたち

*「しかし系統年代という考え方を確立すれば、私たちは大邸宅のさまざまな部分や着想を単体で考慮し、かつそれらを統合的に検討することができるようになる。」

「こうして、あらゆる事物はそれぞれに異なった系統年代に起因する特徴を持つだけではなく、事物の置かれた時代がもたらす特徴や外観としてのまとまりをも持った複合体となる。」

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**(「結論」より)

・形と表現の等価性

*「すべての事物は時とともに変化し、場所によっても変化する。私たちには、様式概念が想定するような不変の性質にもとづいて、どこかに事物をとどめおくことはできない。たとえ事物をその時空的位置づけから切り離したとしても、事物を固定することはできない。しかし事物における持続とその位置づけを視野に入れると、私たちは、生きた歴史のなかに、移行する関係、過ぎゆく瞬間、変わりゆく場所を見出すことができる。そのとき様式のような仮設的な次元の連続性は、どんなものであれ、私たちがそれを見出そうとしても視界から消えてしまうのだ。

*「事物の歴史的研究が提起した問題全体に対峙できるのは、伝記でもなく様式概念でもなく、繰り返すが意味の分析でもない。私たちの最も重要な目的は、主だった出来事を秩序立てて並べるための、これまでとは別の方法を示唆することであった。あまりに多くの関係性を包含してしまう様式という考えに代えて、本書では発端となる作品(prime works)にその模倣物(replications)がつながってゆく連続のあらましを述べた。発端となる事物やその派生物のすべては、同じ種類の活動の、初期だとわかる形態や後期だとわかる形態として、時のなかに送り出されてきたのである。」

□目次
序文——象徴、形、持続
第一章 事物の歴史——伝記の限界/歴史家の責務/現在性の本質/自己シグナルと付随シグナル
第二章 事物の類別——形のシークエンス/素形物と模倣物/つながる位置、時代、そして変化
第三章 事物の伝播——発明と変化/模倣/廃棄と維持
第四章 持続の種類——速い出来事、遅い出来事/時のかたち
結論——発明の有限性/形と表現の等価性

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