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『談 no.126 特集 リズムのメディウム』

☆mediopos-3030  2023.3.5

私たちはリズムとともに生きている

私たちの外の世界は
天空の運動をはじめとしたリズムに満ち
私たちの内の世界もまた
呼吸をはじめさまざまなリズムを刻む
身体感覚に満ちている

そして外なる世界のリズムと
内なる世界のリズムは響き合っている

リズムはいったいどこにあるのだろう

「リズムを受けとる特定の感覚器官
あるいは感性はどこにも存在していない」

にもかかわらず「リズムというものほど
広く感じとられる現象は少ない」ように
私たちはリズムを「身体全体で感受し、
身体全体で発信」している

つまり「リズムこそが身体であり、
身体はリズムのメディウムそのもの」だといえる

『談 no.126』は
「リズムのメディウム」の特集

作曲家の近藤譲氏は
リズムと音楽との関係について
日本文化論を専門とする樋口桂子氏は
リズムと日本文化のかかわりについて
哲学者の河野哲也氏は
リズムと生態学的知について語り
それぞれにたいへん興味深いものだが

リズムとはなにか
それはどこにあるのか
そしてリズムを生むメディウム(媒質)とは?
といったことを問い直すにあたり

河野哲也氏が
「何か抽象的な形相としての「情報そのもの」があって、
それが何らかのメディウム(質料)によって運ばれる」のではなく
「メディウムが震えて、それがリズムをもって
情報となっているんだ、と考えたい」
というところが重要なポイントとなっている

身体がリズムをもつのではなく
身体そのものがリズムであり
そのメディウムそのものであるということ

自然も宇宙もまた同様で
それらがリズムをもつのではなく
それらそのものがリズムであり
そのメディウムそのものである

リズムというのは動く形でもあり
それぞのものが時空を形成しているように
森羅万象にはマクロからミクロまで
多彩で多用なリズムが存在し
それらが交響し照応しながら
多次元的な曼荼羅を生成している・・・・・・

■公益社団法人たばこ総合研究センター編
 『談 no.126 特集 リズムのメディウム』(水曜社 2023/3)

(佐藤真「リズム、その複雑で多彩な世界」より)

「「人間にとって、リズムというものほど広く感じとられる現象は少ないのではないだろうか。文明が違っても、年齢や性別や個性が違っても、〈リズム〉と聞いて、それなりのイメージを抱けないひとはいないはずである」。哲学者で劇作家の山崎正和氏はこう言って、次のように続けます。「人がリズムと聞いて思い浮かべる現象は、見渡せば世界のすみずみにまで満ち満ちている。水面に石を落とせば輪のような波がリズミカルに広がるし、(・・・)身体そのものも不随意的にリズムを刻んでおり、心拍や呼吸などの場合はそのリズムを随意的に大きくすることもできる。天空を仰げば、月は盈ち虧けを繰り返していて、注意深く観察すれば、星の運動も脈動する秩序を感じさせる」というのです。」

「リズムは成人にも、言葉や文字を知らない幼児にも共通して理解できるものですが、興味深いのは、それに対する反応です。年齢とは無関係に、成人も幼児も同じような反応をするのです。たとえば、泣いている幼児を一定のリズムで揺すると笑いを取り戻します。また、別のリズムで揺すると静かに寝入ることは、経験的にも知られていることです。成人も同様で、行進曲のリズムに活力を鼓舞されますが、たとえば電車に乗っている時、同じ振動が連続sると、つい居眠りをしてしまいます。ある時は活性化し、またある時は、鎮静化させます。リズムのもつこうした正反対の効果は、年齢を超えて共通に見られます。

 こうしたリズムの特徴は、異なった共同体や文化の間でも互いをつなぐ強い力になっています。初めて接する異文化のリズムであっても、それがリズムだということは誰もがただちに感じ取ることができます。リズムはまた、人間の感覚器官の違いをも超えていて、五感のすべてを通じて享受することができます。耳は耳のリズムを聴き、目は点や線、あるいは色彩の対比の間にリズムを感じ取ります。皮膚も触覚のリズミカルな刺激を感じわけるし、心臓の鼓動のように、いわば内臓の触覚が直接に受容するリズムもあります。何よりも全身の筋肉と骨格は、リズムに敏感で、そのおかげで人間は、多くの日常生活をリズミカルに行うことができるのです。

 このことを裏返していえば、リズムを受けとる特定の感覚器官あるいは感性はどこにも存在していないということになります。よく知られているように、言語(活動)は人間のみが特異的に発達させることができたものですが、それを行うための特定の器官をもちあわせていません。口腔内外のさまざまな筋肉と骨格を巧みに作動させることで、ことばを話します。リズムも同じように考えることができます。身体全体で感受し、身体全体で発信する。あえて言えば、リズムこそが身体であり、身体はリズムのメディウムそのものなのです。」

「まず、作曲家で音楽評論家の近藤譲氏にお話を伺います。時間芸術の一つである音楽において、リズムは本質的な意味をもっているにもかかわらず、これまでのリズムにかんする議論には混乱がみられたといいます。一般的な意味でのリズムと音楽固有のリズムを無自覚に混同することにその原因があるとの指摘です。リズムに内在する二種類のリズムを明確にしたうえでリズムと向き合うことが肝要だと、近藤氏は説きます。リズムともっとも親和性のある音楽との関係について解き明かします。」

「次に、大東文化大学名誉教授の樋口桂子氏にリズムと日本文化のかかわりについてうかがいます。ヨーロッパの人たちが動きからリズムを捉えるのに対し、日本人は静かで安定したものとして捉えようとします。つきつめればそれは「わかり」のなかにあるといいます。響き渡る、冴えわたる「気配」としてのリズム。身体に沈潜する日本人のリズム感を探ります。」

「最後は、立教大学文学部教育学科教授の河野哲也氏にリズムと生態学的知についてうかがいます。自然のなかには。純粋な反復過程はありません。自然は、常に新しいものを繰り返し産出します。その産出されたものの一部が類似していることで反復しているように見えてしまうのです。同一性とは、その意味で思考の人工的な産物です。リズムが生じるためには、見えない自然、生命内実が不可欠で、その後の類似のものが再帰するのです。リズムとは、単なる同一性の反復ではなく、存在の更新とその回帰のことなのです。」

(近藤譲「音楽には二種類のリズムが内在する」より)

「音楽に限らずリズムとは、乱暴な言い方をすれば「時間の形式」だと思います。それは時間をどう分節していくかということであり、何らかの周期性が感じられれば、それをリズムと言っていい。

 かりに周期性がなくても、ある周期が区切りの単位にできたり、同じものの周期でなくても、時間単位がある程度同じように感じられれば、それも一種の周期性ですよね。極端にいえば、区切った以上は、よほど意図的にランダムにしない限り何らかの周期性が生まれている。その意味では、人間は時間を認識する形式としてリズムを浸かっているというか、リズムという概念で時間を認識しているんじゃないかと思います。

 たとえば昼と夜は、周期がはっきりしていて、誰にでも共通のリズムです。しかしそうではないような、日頃生きている事象のなかでは、やはり自分で分節している。それは自分で時間をつくる、つまる時間の形式をつくっているわけです。少し乱暴な言い方ですが、それがリズムだと、私は思っています。」

(樋口桂子「日本のリズム・・・・・・身体の深層にあるもの」より)

「日本人は音の世界においても、切断する音展開や、途切れのある音を好んできました。切ることによってタメをつくり、「間」をつくる。日本の音楽は、音を切ることで生まれる音のない時間のなかに、「ない」ことの「有」を余韻として感じ取ることを好んできたわけです。これは、ないところを絶やさないように埋めて、あることの軌跡を見ようとするよいう音的嗜好の文化とは逆方向のものです。

 間を埋めるのか、あるいは、あえて空白をつくるのかという文化間の差異が、リズム表現のうえに現れて、流れをいったん切断し次の拍を待ち構えて、そこを狙って打つという日本のリズム感を生み、拍の取り方をつくり出しました。拍の取り方の違いは、今おっしゃったウラ拍、正拍と正拍の中間、つまり表面に出てこない裏の拍が取れているかどうかに現れています。

 これはあえて裏を意識の表面にもってくることを回避するという、日本人の嗜好の方向をつくりあげていったものでもあります。裏に上質の着物を着るといったような文化ですね。(・・・)裏とは地の下にある隠れた真の世界で、正拍を強く取るのは、そこに向かうことの表れであると言えるのかもしれません。

(・・・)

 日本人の身体がつくりあげてきた正拍の点を守ろうとするリズムは、間をつくり、独自の余韻と余白の文化をつくってきました。下向きに、そして水平方向を漠然と見て、時に後退しながら切断によって拍を繰り返すリズム感は、私たちが日本語を使う限り、これからも日本文化の地下水脈となっていくものなのでしょう。」

(河野哲也「液体のリズム、新しい始まりの絶えざる反復としての」より)

「(佐藤真)リズム自体が、ある種のメディウム(媒質)である、と考えられるでしょうか。」

「メディウムは二つ以上の異なった媒体をつなげる何かだと思いますから、リズムを語ることは、まさにメディウムを語ることだと思います。花が咲いて実をつくり生殖も、風や虫などの動物がメディウムになっている。そう考えると、それがコミュニケーションなんだと思います。西洋の古典的な質料形相論では「形相」のみが大切で、何か抽象的な形相としての「情報そのもの」があって、それが何らかのメディウム(質料)によって運ばれると考えますが、それは間違いだと思います。私自身はメディウムが震えて、それがリズムをもって情報となっているんだ、と考えたい。

 先ほどの花粉を、風が運ぶのか、虫が運ぶのか、それとも他の動物は運ぶのかは、同じ「生殖」という言葉で表されることでも、ずいぶんと違います。どのような声なのか、どのような書き方なのか。あるいはどんな形なのか。その質料があって、その震えこそが情報となってコミュニケーションを生む。この震えがリズムなんだと思いますし、それが認識や情報という概念において、いちばん核心的なことじゃないかと考えています。」

「(佐藤真)流体である身体と環境と、その間を含めて全部を充たしている「粘り」ということが、メディウムの大きな特徴でもあるわけですね。」

「そうです、そうです。たとえば一様に流れている川は一つですが、地形に沿って曲がったり、岩に当たったりして渦が生じる。ここでは流れの粘りが変わって、跳ね返って、クルッと回り込むようなイメージがありますよね。その粘りは一種の自発性で、環境からちょっと距離を取りつつつ、あるものは引き込み、あるものは吐き出す。渦は生命のイメージであり、そのまま間合いのイメージでもあります。

 剣道で相手を崩すというのは、相手を渾沌にすることです。たくさんの情報を入れて、渾沌にして動けなくさせてしまう。」

著者について

◎近藤 譲(こんどう・じょう)
1947年東京生まれ。作曲家、音楽評論家
著書に『線の音楽』(復刻版 アルテスパブリッシング 2013、〈朝日出版社 1979年〉)『聴く人(homo audiens)』(アルテスパブリッシング 2013)、『ものがたり西洋音楽史』(岩波ジュニア新書 2020)他。

◎樋口 桂子(ひぐち・けいこ)
大東文化大学名誉教授。
著書に『日本人とリズム感:「拍」をめぐる日本文化論』(青土社 2017)、『おしゃべりと嘘』(青土社 2020)他。

◎河野 哲也(こうの・てつや)
1963年東京生まれ。立教大学文学部教育学科教授。
著書に『間合い:生態学的現象学の探究』(東京大学出版会 2022)、『人は語り続けるとき、考えていない:対話と思考の哲学』(岩波書店 2019)、『境界の現象学:始原の海から液体の存在論へ』(筑摩選書 2014)他。

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