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北山耕平『北山耕平 青春エッセイ集 ――抱きしめたい』

☆mediopos2936  2022.12.1

七〇年代のカウンターカルチャーに関わり
ネイティブ・アメリカン文化を紹介してきた
北山耕平の二〇代の冒険記である

細野晴臣・佐野元春・ピーターバラカンも
本書の「推薦文」を寄せている

北山耕平にとって「日本人」は
「アメリカ・インディアンの部族の一つ」のようであり
そうとらえることで「枠組みであり、牢屋みたいな」
「日本的なもの」を超えようとしてきた

ぼくが北山耕平の名をはじめて知ったのは
「ネイティブ・マインド」(地湧社 1988)で
それをきっかけに
ネイティブ・アメリカンに関心をもち
同時にカスタネダも読むようになったが

北山氏よりも一〇年ほど後に生まれたからか
ぼくのほうは
カウンターカルチャーの影響を直接は受けず
むしろ七〇年代半ばにおける
「日本的なもの」に対する
過剰にも思えるアンチからも自由になるかたちで
「自分を超え」ようとすることで
「日本的なもの」を超えようとしてきたのかもしれない

外的に冒険するのではなく
ある意味「自閉的」な方法をとることで
むしろ開かれようとしたともいえるのだが
どちらにせよ現在ますます袋小路化している
「牢屋みたいな」日本のあり方から
解き放たれる必要があると感じているのは変わらない

北山耕平の「青春エッセイ」を読みながら
北山氏のごとく
「これまでに自分がなにをやってきたのか」と
二〇代・三〇代・四〇代・五〇代
そして六〇代の半ばにさしかかっているいままでを
自分に問い返してみることにしたが
北山氏のような(カッコイイ)「冒険記」とはほど遠く
いわば自閉的な冒険を続けているとでもいえるようだ

「修行」の仕方はひとそれぞれ違っていて
ぼくのばあいは
ほとんどグルジェフワークにも似た
修行場的な仕事の時空とのあいだを
日々反復横跳び的に生きながら
そうすることで「自分とは何か」を考え
「自分を超える」ことを試みている最中なのだ

最近になってようやく
なぜじぶんがそうしたありようを
あえて選択してきたのかが
見えてきたようにも思えるのだが
いまだ道の先が見えてきているとはいえそうもない

■北山耕平『北山耕平 青春エッセイ集 ――抱きしめたい』
 ( ちくま文庫 筑摩書房 2022/11)

(「文庫版まえがき」より)

「本書の元となった『抱きしめたい————ビートルズと20000時間のテレビジョン』(一九七六年、大和書房刊)は、僕が日本からアメリカに出るきっかけを作ってくれた本だ。
 この本があったからその後も僕はいろいろな雑誌に書くようになり、『POPEYE』特派員としてアメリカに行くきっかけとなった。
 僕がアメリカ・インディアンと出会うための道筋を作るためにこの本が必要だった。
 そして僕は、自分とは何か。「日本人」とは何かということを考えるきっかけを作ってくれたものでもある。いわば、僕が自立するための道具のようなものだった。この本というきっかけがなかったら、僕は自分自身とは何かを考えるようにはならなかっただろう。」

「僕は「日本的なもの」を超えたいと思っている。日本には、アイヌ文化とか沖縄文化など多様なものがあるのに、それを一つにまとめようとするから矛盾が起きている。多様なものを多様なままに認めたほうがいい。それが「日本的なもの」を超えることになる。「日本的なもの」というのは枠組みであり、牢屋みたいなものでもある。
 日本列島から消えて、千島列島を越えてアメリカに入り南米まで行った人々がいるはずだ。「日本的なもの」をいずれ超えていければいいと思う。」

(『雲のごとくリアルに【青雲編】(二〇〇八年)〜「01」より』

「これまでに自分がなにをやってきたのか、あるいは「やらされてきた」(誰に?)のかを振り返るのは、かなりの「旅」である。それはある意味においては「自分は誰かを探す極めて個人的な経験」だったからだ。なにしろ「自分らしくふるまえ」と誰かが君にむかって言う時、その「自分らしくある状態」とはふつう「しらじらしい演技はやめにして、仮面を脱ぎ捨てて、そしてリアルであれ」ということを意味するわけ。じゃあいったい「リアル」とはなんなのか? そいつは簡単なようでいて実はむずかしい質問だ。リアルであることは「大人になること」をまったく意味しない。ちっともリアルでない大人たちの方が多いくらいなのだから。それはしかし「子供である」こととも関係ない。そもそも「大人」と「子供」の区別など「生命」のレベルからすれば存在しない。でも子供はたいていいつもなにかになろうとしてわれを忘れている。リアルじゃない大人たちがよってたかって子供をなにかにならそうとしているような、みんなが同じでなくてはならない「日本というシステム」は、幼稚であるばかりか、時代遅れで、とてつもない罠なのだ! ここでは、なにかになる必要はないのだと気がつくまで、ひとはなにかをやり続ける。壁のない牢屋じゃないのか? いつも「なにかになろうと一生懸命」で「自分であろう」などとはすこしも考えたりしないのだ。たまらないですよ、これは。いそがしすぎて、死ぬまでそんな時間はまずないのだから。いやもともと「自分であること」は必要ないのがこの国の仕組みなわけ。こんなことを理解するまでぼくは実に長い距離を旅し、遠くまで行ってきた。でも遠くまで行ってきたすべての人間が、しかしそのことを理解しているかどうかは疑問だがね。世界のどこからも遠いところまで行っても、まだ帰国してからなにになるかを考えている輩も多いようだし。」

(『雲のごとくリアルに【青雲編】(二〇〇八年)〜「15」より』

「「カルロス・カスタネダ」という名前をはじめて目にしたのは、六〇年代末に『話の特集』という雑誌の中に植草甚一さんが書かれたエッセイの中でのことだ。」

「カルロス・カスタネダは、最初の『ドン・ファンの教え』を書いてから結局ドン・ファンに学んだことを十冊の本として公開するわけで、その内容については「ドン・ファン」という呪術師の存在すら疑問視したり、全部あるいは一部がフィクションであるとか、西洋や東洋の神秘主義の焼き直しであるとかする意見がないわけではないが、そのことがこの彼による一連の著作に表現されているもうひとつのリアリティをまったく否定できるようなものではないことは確かである。とりわけ大学の卒業論文として公開された一連のシリーズの最初の本とされる『ドン・ファンの教え』には、さながら世界を認識して生きるために必要な事項を、メモのように、世界の構造を分析するためのアウトラインが附録としてつけられていて、結局この部分がドン・ファンの伝えようとしたリアリティを要約して指し示しているものとなっているわけで、紹介すると役に立つ部分もあるかもしれない。(・・・)日本語では二見書房という出版社から発売されているその本の日本語訳(・・・)そのその部分から、いくつかピックアップしてみると、まず「知者になるのは学習の問題である。「知者の弟子は非個人的な力によって選ばれる」「力のなす決定は前兆を通して示される」などという言葉が並べられている。知者というのは「本をたくさん読んでいるようなエゴイスティックな知識人」のことではなく、簡単にいうなら「ほんとうのことを知る人間」のことで、知者になったからといって大学の入試が簡単になったり、就職が有利になるようなものとはまったく次元が異なる。知者とは「自分を変えることによって世界を変える」者でもあり、「世界の正しい見方を自分のものにした人間」のことである。そして知者の持ちものとして「不屈の意思」「しっかりした判断」「心の明晰さ」「特別な目的に関する知識」「柔軟さ」「恐怖心」「目覚めていること」「絶え間ない変化の意識」「自信」などがあげられている。そして「知者になることは止まることのない道程」であり「知者は知者への道の探求をくりかえさなければならない」とある。いずれにせよ、その時からぼくは、それが終わりのない旅であるということを認識することもないまま、変わりはじめていた————終わりのない道を歩きはじめていた————わけだが、相変わらず片方では雑誌の編集部で働くというおそろしく非日常的な日常生活は続いており、まだ誰も五十年近く続いていた「昭和」という時代が終わるなんてすこしも考えてもいなかったし、当然ながら自分が変わっているなどとはこれっぽっちもまだ認識はしていなかった。」

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