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山田晶『中世哲学講義』〜「パウロと哲学」/宮本 久雄『パウロの神秘論』

☆mediopos-2514  2021.10.4

かつてユダヤ人は
啓示によって与えられた律法を遵守することで
みずからを義としたが
外から与えられた律法を形だけ遵守することは
ともすれば律法のほんらいをスポイルすることにもなる

どんな法律も規則も
なぜそれがあるのか
それらを遵守することが
はたしてそれぞれの目的に
叶っているのかどうかということが
なおざりにされたとき
それらはたんなる機械的なプログラムにすぎなくなる

現代においても
管理社会が後戻りできないまでに
強化されつづけるのは
そのための機構が自動化し
ほんらいの目的が見えなくなってしまうからだ

ユダヤ人において「律法」の演じた役割を
古代のギリシア人においては「智慧」
いわば知への愛である「哲学」が担っていたが
それがひとを救済するものではなく
グノーシス的なものに傾斜してしまうとき
本性の認識(グノーシス)によって
神性へ回帰しようとすることが
ともすれば地上を生きる身体性を
スポイルしてしまうものともなった

その意味で身体をもつがゆえに
律法によって導かれなければならないにもかかわらず
そこに本性の認識としての智慧が
失われることを避けるためには
ひとが身体を持ち律法のほんらいを生き
智慧を深めることのできる存在が
「キリスト」という雛形として示された
というのがキリスト事件であったともいえるだろう

パウロの神秘論は
そのキリストを生きるために
みずからを聖霊の働きの場とすることで変容し
キリストの身体と同形化を目指すものだったようだ

これらのことを過去のことだとすることはできない
少なくとも私たちはさまざまな「律法」に
そして律法をつくり続ける管理者たちによって
ますます管理されるようになった社会を生きている

しかも「智慧」ではなく
「科学(主義)」という「知識」によって
わたしたちはますます「智慧」を失っている

そして学校社社会・病院化社会という
みずからが積極的なまでに管理を求める存在へと堕し
わたしたちのほんとうの智慧も身体も見えなくなり
それらを創造してゆくことこそが
自由の道であることがわからなくなっている

はたして新時代の「回心」は
私たちに訪れるだろうか
律法でもたんなる知でもなく
それらのほんらいがむすばれることで
変容することが可能となる存在への道が

■山田晶 (著), 川添信介 (編)
 『中世哲学講義: 昭和41年―44年度 (第一巻) 』
 (知泉書館 2021/7)
■宮本 久雄『パウロの神秘論/他者との相生の地平をひらく』
 (東京大学出版会 2019/12)

(山田晶『中世哲学講義』〜「パウロと哲学」より)

「七四 パウロは「異邦人の使徒」であるともに、また「キリスト教神学の父」とも呼ばれる。彼の書簡、なかんづく『ロマ書』は、キリスト教における最初の神学書であるとともに、以後あらわれるすべての神学者たちにとって、たえざる霊感の源泉となった。しかしパウロは、単にキリスト教神学の父であるばかりではない。ヨハネと並んで「キリスト教哲学」の父でもある。」

「八〇 パウロは神から与えられ、祖先から伝承された「律法」に安んじ、異邦人たちを自分たちよりも道徳的に一段ひくい者として軽蔑ししているユダヤ人に対して、律法を知る者は単にユダヤ人だけではないと主張し、神の御前に義とされるのは、律法の「聴聞者」ではなく律法の「実行者」であると警告しているのであるが(ロマ2・13)、このパウロの言葉は、これを哲学的に考察するならば、自然理性にもとづく道徳の成立の可能性を、キリスト教の立場から保証したものとみることができる。

八一 ここで我々はカントが、その『実践理性批判』の末尾において、「それをおもうごとに深い畏敬の念に打たれざるをえぬものが二つだる。一つは、天に輝く星であり、一つは自己の内なる道徳律である」といったあの感動すべき理想と本質的に同じものがすでにパウロによって表明されているのを見出すのである。」

「八四 ではパウロが、異邦人に対して示した上記のごとき理解と寛容とは、どこから由来するのであろうか。回心以前のパウロがそのように狂信的なユダヤ教徒であったとしたならば、回心以後の、それとうって変わったパウロの態度の原因を、我々はキリストのうちに見出す以外はないであろう。回心とともにパウロは、「生きるのはもはや私ではない、私においてキリストが生きるのである」(ガラ2・20)という人となった。」

「八九 パウロは、単に異邦人に対して使徒であるばかりではない。キリストにおいて生きるパウロにとって、もはやユダヤ人と異邦人の区別は本質的なものではない。キリストの福音を知らず、それを受けない者は、たとえユダヤ人であっても或る意味で「異邦人」なのである。」

「九三 ユダヤ人は、将来、救世主に出ずべき民として神によって選びわかたれた。この特別な使命のために、彼らには、啓示によって律法が与えられた。律法によって彼らは、神と人間とに対して守るべき道徳を他の諸民族に比してはるかに明確に神自身から教えられたのである。そこで或るユダヤ人たちは、自ら神の民と称して神を誇りとなし、律法に安んじ、律法の命ずる外形的な掟の遵守をもって自分を義となし、自分を「盲者の手引、案書くに在る人の燈火、愚者の教師」と考えた。(・・・)律法はかえってユダヤ人の或る物を、偽善者、冒涜者、姦通者となした。しかも彼らは律法に誇って他をいやしみ、自らを義人よ考えている。彼らにおいて人間の罪は「傲慢」という、最もいやしがたい、いとうべき形であらわれている。」

「九五 パウロはこれに対して、「律法によりて得るは罪の意識なり」(ロマ3・20)と答えている。律法は外形的な掟としてではなくその内面的な意味において理解されるとき、他の諸民族のいかなり倫理も、これに比肩することのできない高い道徳性を示している。しかし律法そのものに人間を罪から救う力はない。」

「一〇四 パウロは、すべての人間がこのように自然的に賦与された理性の能力によって神の存在と道徳律をさとりうるということからして、人間の救済のために啓示は不必要であり、自然理性だけで足りるという、合理主義的見解にはおもむかなかった。それとは反対に、パウロがそこからひき出した結論は、「人々弁解するをえず」(ロマ1・20)であった。「けだしすでに神を知りたれど、神としてこれに光栄を帰せず、感謝せず、かえって理屈の中に空しくせられて、その愚なる心暗くなれり」(ロマ1・20)。

一〇五 ここに我々は、あたかもユダヤ人において「律法」の演じた役割を、ギリシア人において「智慧」が果たしていることを知る。律法それ自身にユダヤ人を罪から救う力がなかったように、異邦人たち、なかんづく文化の最もすぐれたギリシア人たちは「智慧」を有していたが、その「智慧」そのものに彼らを罪から救う力はなかったのである。」

「一〇六 しかしこのことは、「智慧」そのものの無価値を証することでは決してなかった。それはあたかも悪しきユダヤ人の存在が彼らの有する「律法」そのものの価値を証するものではなかたのと同様である。」

「一一九 律法や智慧に誇る人々が義とされなかったよういん、キリストの恩寵に誇る人々もまた、まさしくそれによって使徒たるの資格を失う。なぜならば恩寵による諸々の効果も、もしそれが誇りをもってかえりみられるとき、大きな傲慢に転ずるからである。ひとは身を低めることによって高められ、栄光を神に帰することによってより豊かな恩寵にめぐまれるであろう。」

「一二三 ソクラテス的人間とパウロ的人間との間に、根本的区別を指摘することは容易である。前者は哲学的実存を、後者は宗教的実存を代表する。プラトンにおける探求の対象たるソフィアが善のイデアであるに対し、パウロにおけるこれはキリストであり、しかも生ける神の子、十字架につけられたキリストである。プラトンを智慧に向かって根源的に動かしている愛が、美しきイデアに対する限りなく思慕としてのエロスであるに対し、パウロを根源的に動かしているものは、キリストの十字架上の死によって人類にそそがれた神の愛たる「聖霊」である。このような相違は歴然としている。

一二四 それにもかかわらず、パウロの信仰が信仰における人間の生の安易な休息を意味せず、かえって不断の死と復活とを意味するものであったかぎりにおいて、プラトン的な哲学の生は、少なくともパウロ的な生の一つのモメントとして、そのうちに包摂されるように思われる。(・・・)ギリシア教父における否定的神学は、本来そのような意味でのキリスト教的な「哲学すること」であった。その思想的源泉はすでにパウロのうちに見出されるのである。」

(宮本 久雄『パウロの神秘論』〜「むすびとひらき/2-3 パウロの神秘論」より)

「これまでの神秘主義との比較(グノーシス的神秘主義・ギリシア教父の神秘論・アウグスティヌスの神秘論)において、パウロは、神・キリストと人間・被造物を明白に区別し、異邦人を含むすべての人間の罪業がキリストの十字架を通して贖われ、そのキリストへの信仰によって新しいアイオーンに生き、義化・聖化の道を辿りつつ、やがて終末において復活に至るという希望の道を開示した。(・・・)彼の神秘論は、プロティノスやグノーシス主義にように、人間の本質・本来性を神性と考え、それは質料的世界や肉体(ソーマ)によってあたかも幕(セーマ)の中に閉じ込められているかのようにしてあるとは考えない。だから彼の神秘論は、身体の中で自己の神性を忘却した人間が、再度自己の本性の認識(グノーシス)によって神性へ回帰し、合一融合するという合一神秘主義(unio mystica)と全く相反する。この合一的神秘主義は、当然質料・肉体を軽蔑する二元論的でペシミズム的人間観世界観に拠って立つ。この立場は、新約聖書内にも仮現論的な傾向として現出している点が考察された。
 ところでパウロ的神秘論の人間の側における変容の出発点は、キリストの到来による新しいアイオーンの地平の拓けとそこにおける義化と聖化であった。(・・・)
 パウロの神秘論を表現する上での核心的用語とテーマについて(・・・)。そのテーマは、(・・・)(a)ソーマ、(b)受難、(c)変容、(d)同形化、(e)神秘、(f)キリストの体、(g)終末論的な霊的諸力、つまり古いアイオーンとの戦い(・・・)。
(a)ソーマに関しては、(・・・)キリストの栄光がソーマに参与する同形化が根本であること、その同形化を言いかえれば自然的なソーマからプネウマ的なソーマへの変容止揚であることを解明した。この霊的ソーマの実在的根本的ヴィジョンをパウロはダマスコの体験において得たといえる。(・・・)
(b)受難や苦しみに関しては、われわれは義人であるから苦しむわけではない。(・・・)パウロの救済のヴィジョンにあっては、それが罪が人類船体を普遍的に支配する現状況に他ならない。(・・・)虚無に服している被造物は救いを求めて呻き、体の贖いを待ち焦がれてわれわれ人間も呻き、聖霊さえ、われわれのために執りなして梅入れいるのである。(・・・)
(c)もし人が主の方に向き直るなら、霊を与えられ栄光から栄光へと義化・聖化されていく。従って変容は聖霊の力により、義化と聖化を不連続の連続として二つの契機にする。しかし、最終的な変容はパルーシアにおける一瞬のうちなる復活の変化である。従って変容は必ずやソーマ的変容であって、これがギリシャ的グノーシス的人間の神化と異なる点である。」
(f)(g)さらにこの変容は、宇宙的レヴェルで実現し宇宙の霊的諸勢力の克服をも伴っていた。それは故事にゃ協働体、宇宙的自然を新しい被造物に新生さす。この変容は、またカイロス的であり、新しいアイオーンおよび終末の迫りのヴィジョンにおいて実現されていく。
(d)それをキリストのエイコーンとの同形化、さらにその栄光のソーマとの同形化として明確に表現したい。(・・・)
(g)本論の神秘論を示す典型的表現は次の句にある、「主イエス・キリストは、すべてのものをご自分に従わせることさえできる力(デュナミス)によって、わたしたちのみじめなソーマを、栄光に輝くご自分のソーマと同じ形に、同形化させるであろう。この変容は終末論的ヴイジョンで説かれている。核心はいやしいソーマが、キリストの栄光のソーマと同形化することで、この神秘論はヘレニズム的神秘主義が非時間的な神とのヌース的合一を説くのに対して、救済史的な歴史のヴィジョンにおけるソーマの同形化を説き勧めているのである。」


◎宮本 久雄『パウロの神秘論』【主要目次】

序章 本論の目的と筋立て
1 なぜ、今、また、パウロなのか
2 それでは「なぜ」なのであろうか
3 それでは「今」とはどういうことか
4 それでは「また」とはどういうことなのであろうか
5 筋立て

第1章 現代におけるパウロ解釈の二動向
1 神秘主義と義認論をめぐって ドイツ系研究者
2 新しい眺め(New Perspective)の拓け 英米系研究者

第2章 回心以前のパウロとダマスコ体験
1 回心以前のパウロ
2 パウロのダマスコ体験

第3章 キリスト論
序 パウロから見たイエス
1 キリストに関する全体的ヴィジョン
2 キリスト論的諸テキスト

第4章 トーラー(律法)論
序 Covenantal Nomismの地平
1 トーラーに対するパウロの態度
2 パウロのトーラー論と救済論(「ロマ」九-十一)

第5章 神の義と神によるキリストを通しての義化
序 罪・悪について
1 神の義と義化
2 「ロマ」七章、絶望する「わたし」とは?

第6章 聖霊論(Pneumatologia)
序 「ロマ」七章(罪への隷属)と「ロマ」八章(聖霊による罪からの自由)との対比
1 「ロマ」八章における「聖霊論」解釈の系譜
2 「一コリ」十二章における「キリストのソーマ」とカリスマ協働体
3 有賀鐵太郎におけるハヤトロギアとそのキリスト論的中断およびプネウマ体験
4 むすび――聖霊の諸特徴

第7章 変容論
序 霊の主導による変容
1 義化・聖化を含む変容について――基礎テキスト・「ロマ」六1-23
2 変容をめぐって――関連テキスト

第8章 ソーマ的受難と変容の神秘論――パウロ神秘論を構成する諸テーマ(ソーマ、受難、サタン的諸力との戦い、終末、変容、同形化、相生、神秘)
1 諸テキストにおける各テーマの分析と洞察
2 パウロ神秘論の基礎テキスト
3 むすび

むすびとひらき

第1部 神秘論を構成する諸テーマをめぐって――第1―8章の総括的ふり返り
第2部 諸々の神秘主義・神秘論の類型とパウロの神秘論
第3部 パウロ神秘論が根源悪的現象に告知しうる思想と実践および諸々の宗教的神秘伝承との対話の可能性――根源悪、パウロ神秘論の根拠・エヒイェ、エヒイェ的人格と相生の地平
放てば満つる

鬼哭と恩愛の秋(とき)

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