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エドガール・モラン『知識・無知・ミステリー』

☆mediopos-3132  2023.6.15

知りたい!

知りたいことを知りたい!

好奇心は尽きることはないから

いまでも
そしておそらくこれからも
それは変わらないが

本書の「フィナーレ」の最初に置かれている
ニコラウス・クザーヌス
「おのれの無知を知ると、
〈言葉で言い表せない世界〉に導かれる。」
という言葉のように

そして
「暗闇のなかでマッチをすって火をつけても、
ほんの小さな空間しか照らし出さない。
それは巨大な闇がわれわれを取り巻いていることを
明かしてくれるのである。」
という言葉が示唆してくれているように

知ることは
むしろ
未知のものや
知りえないことを実感させてくれる

本書はmediopos-3093(2023.5.7)でもとりあげた
エドガール・モラン
(『百歳の哲学者が語る人生のこと』)が
2017年に刊行され今春翻訳刊行されたものだが
そのタイトルにあるとおり
「知識」ゆえの「無知」
そして「神秘(ミステリー)」が
ある意味でポエジーを湛えながら論じられている

ここでいう「無知」は
「古い無知」ではなく「新しい無知」である
つまり知識の欠如ではなく
「知識そのものから発現する」ものであり
それは「深く広大な無知の地層の存在を絶えず明らかに」する

知ることの危険性や不遜でもなく
知ることそのものが明らかにする「無知」である
それはむしろ
「存在することに伴う詩的感覚を刺激し強化」し
わたしたちを真の冒険へと駆り立てる

「哲学の始まりにある驚きは哲学の終わりにある驚き」であり
「宇宙=世界は驚くべきものである」ことを
そしてその冒険には終わりがないこと
わたしたちの未来はそこから開かれてゆくことを詠ってくれる

ある種の混乱と絶望に
満たされているかのようにも見える現代も
そうした「冒険」のプロセスとして見てみれば
いまじぶんは暗闇のなかで小さな火を灯すことで
巨大な闇を知っただけだということがわかる

「新しい無知」から「冒険」ははじまる

■エドガール・モラン(杉村昌昭訳)
 『知識・無知・ミステリー』
 (叢書・ウニベルシタス 1155  法政大学出版局 2023/4)

(「第一章 無知な知識」より)

「知識の拡張は世界の拡張と同じく魅力的である。しかし人間の精神は、知識と世界の無限の増大を捉え、取り込み、組織する能力を持っていない。辞書、百科事典、インターネット、ビッグデータなどによって、それを蓄積することはできても、またそのなかのいくらかを「アルゴリズム化する」ことができても、拡張する知識や世界のすべてを取り込むことはできない。

「根本的・全体的な問題についての知識は、分離され、区切られ、隔てられ、分散した知識を結びつけないと得られない。ところが。われわれの教育は、知識を結びつけるのではなく、分離することをわれわれに教える。それに対して、われわれは知識を結びつけることができるひとつの知識を必要としているのである。」

「専門分野における知識の散乱と区分けは、それぞれの分野のなかに閉じ込められた知識を結びつけようとするさいに生じる大きな問題を排除する。したがって、最も重要な問いが排除されてしまうことになる。この無知が無知蒙昧体制となって、われわれ現代人の上にだけでなく、自らの無知を知らない学者や専門家の上にも君臨することになる。」

「科学はおのれの効用しか眼中にないため、その物理学的発展(核兵器やその他の大量破壊兵器の生産)や生物学的発展(脳操作や遺伝子操作の危険)が引き起こした巨大な倫理的・政治的危険について、(少数の例外を除いて)無頓着である。科学者が理性の大系を手にしていると確信したとき、彼らの活動と精神のなかにはブラックホールがあると考えなくてはならない。
 言い方を変えるなら、科学的知識のとてつもない進歩は、深く広大な無知の地層の存在を絶えず明らかにしてきたのである。新しい無知は、古い無知とは異なる。古い無知は知識の欠如に由来するのだが、新しい無知は知識そのものから発現する。」

「未知のものは既知のものの核心部にある。未知のものが謎(エニグマ)であるとき、それは推理小説におけるように知識によって解決しうるだろう。しかし知識では解けない神秘(ミステリー)もあり、その神秘は知識の核心部にあるのだ。」

(「フィナーレ」より)

「暗闇のなかでマッチをすって火をつけても、ほんの小さな空間しか照らし出さない。それは巨大な闇がわれわれを取り巻いていることを明かしてくれるのである。
 この本は、これまで、知識、無知。ミステリーのあいだには対立的かつ相補的な関係があることを強調してきた。
 知識を深めたときに行き着く矛盾は誤りではない。それはむしろ最終的心理でもありうる。したがって、パラドクスや矛盾の有効性を知識の最終的あらわれとして認めなくてはならない。
 われわれは未知のものや知りえないものを合理化したり、規格化したり、陳腐化したりして、排除してしまう。
 しかし、未知のものや知りえないものは、知識が深まるごとに再び姿を現す。
 われわれはあらゆるものごとを説明することができる。しかしその説明はえてして説明不可能な前提に基づいている。われわれが宇宙の存在を説明するために持ち出した宇宙の創発的出現という提案そのものが説明不可能である。
 われわれは生の豊かさを生の創造力で説明するが。それで説明ができているとは言いがたい。
 われわれは自明なものごとを想定するが、自明なものごとはそのなかに大きなミステリーを含んでいる。
 認識不可能なものに到達するには複合的な知識を獲得することが必要である。さもなければ、われわれはわれわれの無知を知らないままになるだろう。
 われわれの科学は機械の仕組みについてわれわれを物知りにしてくれたが、機械そのものについてはわれわれは無知なままである。
 世界の全秘密はわれわれの内部にあるが、それはわれわれの精神の射程外にあり、われわれはわれわれが何を知っているかを知らない。
 組織したり創造したりすることができる素晴らしい知が至る所に存在するが、そうした知についてわれわれは何も知らない。
 哲学の始まりにある驚きは哲学の終わりにある驚きである。
 宇宙=世界は驚くべきものである。

 生命は驚くべきものである。
 人間は驚くべきものである。

 宇宙=世界は驚異と脅威に満ちている。
 生命は驚異と脅威に満ちている。
 人間は驚異と脅威に満ちている。

 〈生きること〉は夢遊病的である。
 人間は夢遊病者である。

 われわれの夢遊病的意識はわれわれを目覚めさせ活性化したが、われわれに必要な睡眠がそれによって妨げられることはなかった。その意識はわれわれに知識をもたらした。そして未知のものと思考の及ばないものをもたらした。」

「ミステリーはミステリーに達する知識の価値を減じるものではない。ミステリーはわれわれを支配する隠された力をわれわれに意識させる。その力は決定的なものではないが、〈ダイモーン〉のようにわれわれの内部と外部にあって、われわれに取り憑き、狂気や陶酔やエクスタシーにわれわれを導く。
 ミステリーは、存在することに伴う詩的感覚を刺激し強化する。一見意味のない合目的性————〈生きるために生きる〉————は、詩的に生きるという選択をする可能性を包含している。
 ミステリーは、われわれの喜びへの希求、われわれを超越する数えきれない崇高性とわれわれが結びついているという感覚(錯覚であれ真正であれ)をわれわれに与えるエクスタシーへの希求を、われわれが引き受けるように求める。
 ミステリーは、生きることはいくつかの確実な小島を頼りに不確かな大洋を進んでいく航海のようなものであることを、われわれに教えてくれる。
 ミステリーは、われわれがエロスとタナトスとの接近戦においてエロスの側に立ちつつ、不確かな状況のなかでも決定し行動するように鼓舞する。
 ミステリーはわれわれが人類の冒険へ参加するように駆り立てる。
 人類の冒険は崇高なものと恐ろしいものを混ぜ合わせたとんでもない冒険である。そしてこの冒険は宇宙の冒険の構成要素でもあり、宇宙の冒険に周辺的あるいは前衛的にかかわる。
 われわれは宇宙の冒険のなかでわれわれの冒険を続けていく。この二つの冒険がどこに向かうかは知らぬままに。」

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