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平尾 剛「スポーツのこれから」第14回「競争主義」と「勝利至上主義」 (「みんなのミシマガジン」)

☆mediopos2776  2022.6.24

「競争主義」と「勝利至上主義」は
同じ根から生えてくるものだが
その果実が異なっている

「競争主義」の目的は
「勝つこと」ではなく
「全体の質を高めること」にある

「勝利至上主義」の目的は
なにがなんでも「勝つこと」である
勝たなくては意味がない

そうしたとらえ方は
とくに理解しがたいものではないが
むずかしいところがある

向上心を効果的に働かせるためには
競争が必要である場合が多い

ニンジンが目の前にぶら下がっていると
それに向かって走ろうという気にはなるのだ

競争によって得られるものはさまざまだが
最も大きなニンジンは「勝つ」ということそのものであり
それにともなって得られるものがあれば
それも大きなニンジンとして機能する

競争は他との比較の世界である
比較できなければ
じぶんの立ち位置がわかりにくい
その点でスポーツや勝負の世界
それから点数で評価する世界は
そのアウトプット(結果)で
じぶんがどこにいるのかを見定めることができる

そしてその勝つという営為が
向上心を効果的に働かせることができる

しかしむずかしいのは
その競争による比較は
だれかから与えられたものを基準にした
向上心でしかないということだろう
たとえじぶんが望んだ競争と比較であったとしても
その競争の場はどこかから与えられている
そのなかでの競争なのだ

その競争の場が
多くの人たちに共有された場であるとき
競争において勝つということに
価値があると信じることができる
組織における昇進というのも同じことだ

それぞれの場における価値観を信じることで
その競争に勝つことを目的として生きることができる
もちろんその営為において
「全体の質を高めること」に寄与することもあだろうが
その場そのものの意味づけを盲信したとき
その競争は「勝利至上主義」に飲み込まれてしまう
政治の世界の権力闘争などをみてもよくわかる

しかしそれらの価値が信じられなくなったとき
「競争」そのもののは意味を失ってしまう

まったく競争のない世界は想像しにくいし
なんらかの競争原理は働かざるをえないけれど
競争でしかみずからの価値を見出すことができないとき
人は「勝利至上主義」に向かっていくか
競争に敗れた人間としてしか生きられなくなってしまう

競争はあくまでも手段でしかない
手段を目的にしたとき向かう道は明らかなのだ

その意味でいえば
重要なのは「全体の質を高めること」というよりも
競争を離れたところで
自分の価値観を見つめ直すことができるかどうかではないか
おそらくそこからしかほんとうは
なにもはじめたことにはならない

手段は手段であって
目的や主義とすることはできないのだから

■平尾 剛「スポーツのこれから」
 第14回「競争主義」と「勝利至上主義」2022.06.23
(「みんなのミシマガジン」所収)
https://www.mishimaga.com/books/sportskorekara/004411.html

「勝ったらうれしい、負ければ悔しい。だから勝利を目指す。

 それのなにがいけないのか。そんなの、当たり前じゃないか。

 至極、もっともである。

 空は青いし、海も青い。川には水が流れ、地球は丸い。これと同じように、スポーツは勝負だ。だから勝つためにプレーするのは、自ずとそうなる自然である。

 スポーツは勝利を目指す。

 これはなにも競技スポーツだけに限らない。自己との闘いを含めれば健康を目的とするスポーツもそうだし、他者との交流を目的とするレクリエーションスポーツでさえ、勝敗をめぐって揺れ動く感情をもとにコミュニケーションを図る。なにも血眼になって勝利を目指せといっているわけではない。負けることにささやかな抵抗さえあれば、それがエッセンスとなって活動そのものが充実する。その意味でスポーツは、健康の維持増進にも人間関係の構築にも資するわけだ。

 すべてのスポーツはすべからく勝利が目指される。これが原点だ。

 つまりスポーツには「競争主義」があらかじめセットされている。個人や集団の競い合いを通じて全体の質を高めようとする考え方が、組み込まれている。「勝利至上主義」をめぐる議論がいまいち噛み合わないのは、ここにある。「勝利至上主義」を、スポーツに内在する「競争主義」と混同しているのである。」

「競争的環境から恩恵を受けた身として、私は勝利への飽くなき追求は認める。「競争主義」は否定しない。冒頭で述べた通り、「競争主義」はそもそもスポーツに内在しているのだから、それの否定はそのままスポーツの存在価値を揺るがすことになる。手放しでの礼賛は憚られるにしても、個人や集団の競い合いを通じて全体の質を高めようとする考え方そのものには相応の効果があるし、スポーツ経験者ならほぼ例外なくその恩恵に預かっているはずだ。ヒリヒリするような勝負の場面で、みずからのからだがバージョンアップするときの、あの快感情はたまらない。

 だが、「勝利至上主義」となれば話が違ってくる。

 「至上」とは、この上もないこと、最上、最高という意味である。たとえば「至上者」は、様々な民族の宗教に見られる万物の創造主・全知全能者としての霊的存在を、「至上命令」は、絶対に服従すべき命令を意味する。

 ここから「勝利至上主義」とは、勝利を最上の価値と認め、他のなにを差し置いてでも手にすべきであるという考え方になろう。これは、そこに自ずとあるはずの勝利を過剰に意味づけるという考え方で、いわば「競争主義」から派生した亜種である。

 繰り返すが、「競争主義」とは、個人や団体の競い合いを通じて全体の質を高めようとする考え方である。目的は勝つことではなく、「全体の質を高めること」にある。この目的を手放さない限りにおいて「競争主義」は機能する。」

「個人や団体が成熟を果たすための方便にすぎなかった競争が、いつのまにか目的化する。競争原理の導入がその効力を失うデッドラインの先に、「勝利至上主義」は出来するのである。

 えてして競争は過熱しやすい。勝利はわかりやすく、それを手にすることで得られるものも瞬間的なよろこびにすぎないとはいえ、それがもたらす恍惚は計り知れない。とくに成長途上の子供にとっては、自己肯定感を高める成功体験として深く記憶に刻まれる。その様子を目の当たりにした指導者や保護者は、自ずと勝たせてあげたいと望むようになる。このささやかな欲望がいつしか勝たねば意味がないと先鋭化してゆく。ふと気がついたときには、勝利を最たる目的とする「勝利至上主義者」になっている。

 試合に負けた我が子の胸ぐらを掴んで叱責する保護者、2位では意味がないと準優勝の賞状を部員の前で破り捨てる指導者も、よくよく初心を思い出せば、当初はもっと冷静に子供たちの将来を考えていたはずだ。それがいつしか過激な態度で子供に接するようになる。これは競争がどれだけ加熱しやすいかを物語っている。「競争主義」は、競争が加熱しないようにその都度ブレーキをかけ続けなければ、坂道を転げ落ちるように「勝利至上主義」へと堕してしまうのである。

 勝利とは、到達目標にすればそこに至るまでのプロセスが豊かになるという方便に過ぎない。他のなにを差し置いてでも優先する至上の価値ではないというのが、勝ったり負けたりを繰り返して辿り着いた私の結論である。競争を通じてつかんだ勝利は、その瞬間はよろこびに満ち溢れるものの、いざ手にした途端にまるで陽炎のように霧消する儚いものだ。それよりも勝利を目指すプロセスで身につくものの方が確実で、はるかに価値がある。」

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