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増川 宏一 『遊戯II: 日本小史と最新の研究(ものと人間の文化史)』

☆mediopos-2435  2021.7.17

著者の増川宏一は1930年長崎市生まれ
将棋史および盤上遊戯史の研究家である

本書『遊戯II』のまえに
15年前に刊行された
『遊戯Ⅰ』があるそうだが未読
最新の遊戯研究の成果が示されているとのこと

著者は二〇代に将棋に熱中したが
「どうすれば強くなるか」よりも
「このような面白いゲームは誰が考案したのか」
ということのほうに関心が向き
将棋史や盤上遊戯史を研究するようになったという

興味深いのが
真珠湾攻撃で「戦勝気分に沸き立っていた頃」に
入部していた美術部の先輩から
「本校は遊びの精神を学ぶ場所である」
という訓示を受けたというエピソードである

それが著者にとって
「遊戯に関心を持った出発点」となり
「狂信的な軍国少年」とならずにすんだ
遊戯へと関心が向かう重要なエポックとなった

「遊戯」に溺れてしまうことなく
「遊戯」への深い関心をもつということは
自由へと向かう精神を持ち得ていなければ難しい
しかも著者は大学などでの研究者ではない
そこが独自のスタンスを生んでいるのだろう

本書を手に取ったのは
将棋や賭博の歴史への興味からだったが
むしろ「遊びの精神」を起点に
独自の研究を行っている著者への興味から
今回はご紹介してみることにした

ぼく自身が将棋やチェスについて知っていることは
その駒の動かし方程度でしかないけれど
将棋の歴史は気になるところなので
そこだけかいつまんで少しだけ整理しておきたい

将棋の原型は
インドで生まれたチャトランガ
というのが定説となっている
それには4人制と2人制があり
どちらが先に生まれたのかという論争があったようだが
現在では2人制が起源とされている

増川説によれば
将棋は東南アジアを経由し
海のシルクロード沿いに
11世紀に日本に伝来したとし
中国大陸からの伝来説を否定しているが
6世紀には中国大陸経由で
日本に将棋が到達していたという説もあるようだ

なお本書の主な内容については
引用部分に目次を引いておいたので参考までに

さて最後に少しばかり個人的なことになるのだが
小さい頃ぼくは賭け事やゲームとなると
じぶんでもおかしいと思うくらいに熱が入っていた

小学校に入るまえにはすでに花札で遊んでいたし
賭け事となるとちょっとした興奮状態になったり…
それが小学校3年の終わりくらい頃からは
まるでひとごとのように熱は冷めていき
次第に関心を失っていった
ギャンブル系はもちろん
宝くじを買ったことさえなかったりする

あの賭博的な熱はいったい何だったんだろうと
たまにふりかえってみたりもするのだが
魂のなかにはるかな過去の
そうした熱狂が残っていたのかもしれない
それがごくごく小さな頃に燃焼させられて
別の力に変わっていったということのかもしれない

それはともかくとして
おそらく「遊戯」は
それに溺れずにさえいられるならば
自由な精神を育てるための
大事な種となるのかもしれない
遊戯のない精神はある意味で死んでいる

軍国主義的なものはもちろんだが
どんな時代にも多くの人を
巻きこんでしまう「狂信」がある
それは遊戯性を失った思考停止でもある
そうした姿を超えて訪れる思考停止に
抵抗し得る力こそが「遊びの精神」に他ならない

■増川 宏一
 『遊戯II: 日本小史と最新の研究(ものと人間の文化史)』
 (法政大学出版局 2021/4)

「筆者は昭和一七年(一九四二)の春に神戸市東灘区にある旧制甲南高等学校尋常科(旧制中学部)に入学した。入学と同時に部活動の美術部に入部したが、直ちに四年生の若林正雄先輩から「本校の心得を教えるので、校門左手の芝生へ来い」と呼び出された。前年一二月八日に日本軍はハワイとマレー沖で奇襲攻撃をおこない。大戦果に国中が戦勝気分に沸き立っていた頃であった。それで、どうせ立派な軍順になれ、国家に役立つ人間になれ、という説教だろうと思い指定の場所に行った。
 しかし若林先輩が言ったのは、「本校は遊びの精神を学ぶ場所である」という訓示であった。予想もしない発言に驚いた。学校外で公言したら憲兵に逮捕されるかもしれない言動だったからである。八〇年近い前のことを鮮明に覚えているのは、余程大きな衝撃だったからであろう。遊戯に関心を持った出発点であった。狂信的な軍国少年にならなかったのも、この訓示が頭の片隅にあったからかもしれない。」
「二〇代に筆者は将棋に熱中した。毎日曜日に各地に指しに行ったが満足できず。神戸で将棋倶楽部を組織し毎晩でも指せる沢山の仲間をつくった。普通の人は「どうすれば強くなるか」と考え努力するが、筆者は「このような面白いゲームは誰が考案したのか」に専ら関心が向き、どのようにして創り出されたのか探ろうと決心した。
 この時に漠然とした「遊戯」を研究する気持ちが芽生えていたのであろう。基本に、空襲による戦災で危うく死ぬところであった体験と、戦後に知った「大和魂があればどんな困難も克服できる」と無謀な諸作戦を指揮して、多数の兵士を餓死させ自殺に等しい突撃を命じた軍首脳の方針が、根元のところで同じと知ったからである。狂信的な軍国主義舎への怒りが、無意識のうちに戦争と対極にある平和、それも自由で平穏な遊びに向かわせたのであろう。」
「その頃、将棋の歴史に関する参考書は皆無であった。それを丸善を通じて、H・R・マレーの『チェスの歴史』を購入して読み耽った。将棋の歴史を知るにはさほど役に立たなかったが、初めて盤上遊戯は古代エジプトやメソポタミアの時代から遊ばれていたことを知り、非常に興味を抱いた。写真や図版で知ることだけでは満足できず、何とかして現物を観たいと望むようになった。
 この機会は意外に早く訪れた。一九七三年春から京都国立博物館で「古代オリエント展」が催された。展示品はすべてベルリン・ペルガモン博物館の所蔵品であった。この時にある事情で展覧会に同行していた考古学者達や修復官達と親しくなった。なかでもエベリン・クレンゲル博士とは親しくなり、神戸や姫路城を案内して自宅へも招待した。彼女は筆者の希望を聴くと、自分達の博物館にも古代の遊戯盤は沢山あるので観に来るようにと招いてくれた。
 同年晩秋にペルガモン博物館を訪れ、研究室で沢山の遊戯盤を手に取って観察することができた。」
「一九七〇年代の前半になると、古代の遊戯盤についてある程度の知識も具わってきた。偶然手にした早稲田大学の平田寛先生の著書に古代エジプトの遊戯盤に触れた箇所があったので、面識もなかったのに質問の手紙を出した。先生から届いた返事は、天文や暦には多少の知識はあるが、遊戯盤については全く無知であるというものだった。
 一九七五年に『将棋世界』誌に将棋史の連載を始めようとした頃、法政大学出版局の稲義人編集長(当時)の来訪を受けた。平田先生より関西に珍しい事柄に興味を持っている人がいると聞き訪れた、「貴方には書けるだけ書いていただく」という。書かせるための社交辞令であったのだろうが、それで一九七七年に『将棋Ⅰ』(ものと人間の文化誌23)、翌年にクレンゲル博士の序文のある『盤上遊戯』(同29)、次いで稲義人編集長の要請で『賭博1、Ⅱ、Ⅲ』(同40)を書くことができた。
 他方、クレンゲル博士から、古代の盤上遊戯に詳しい大英博物館のアーヴィング・フィンケル博士を紹介していただいいた。ほぼ同時期に、盤上遊戯史家のR・C・ベル氏より「大英博物館を観ずして歴史を語ることなかれ」という文面とともに、自邸への招待を受けた。早速ロンドンを訪れ、開館時から閉館時まで一週間通い続けた大英博物館は、毎日が発見と感動の連続であった。」
「また、フィンケル博士を通じて各国の遊戯史研究者と一気に交友関係が広まった。盤上遊戯やチェスのシンポジウムや研究会の参加し、日本人研究者として講演したからである。会合の後の懇親会もまた魅力に満ちた交流の場であった。真摯に学ぼうとする者には惜しみなく手を貸そうとする海外の研究者たちの姿勢に感激することは屢々であった。
 遊戯史への道は直接には将棋から始まったが、中学生の時の若林先輩やクレンゲル博士をはじめ内外の多くの方々の示唆、助言、激励があったので、一貫して遊戯史を追求できたのであろう。良い先達、友人に恵まれたと感謝している。時代的背景として第二次大戦前後という激動の時期も大きく作用したと言える。反戦としての遊戯という明確な対比が可能だったからである。」

以下、《目次》より

第一章 遊びの日本小史
1 先史時代
2 古代
3 中世
4 近世
5 近現代(一)
6 近現代(二)

第二章 一六世紀の囲碁・将棋
1 最初の専業者
2 一六世紀の囲碁
3 一六世紀の将棋
4 普及の功労者
5 本因坊の生活(一)
6 本因坊の生活(二)
7 俸禄拝領

第三章 盤上遊戯の新知見
1 六博
2 柶戯
3 囲碁
4 雙六
5 将棋
6 絵双六
7 連珠およびその他の盤上遊戯

第四章 他の遊戯の新知見
1 樗蒲
2 馬吊
3 麻雀
4 花札・かるた
5 中国の骨牌と朝鮮の闘銭
6 ヨーロッパのカード(一)
7 ヨーロッパのカード(二)

第五章 海外の研究
1 古代の遊戯盤
2 三六枡目盤と二〇枡目盤
3 インドの盤上遊戯
4 チャトランガとチェス
5 バクギャモン
6 パトリ
7 その他のゲーム

終章 独自の研究と課題
1 博徒と賭博
2 次の世代
3 独特の研究(一)
4 独特の研究(二)
5 遊戯の断絶
6 今後の課題

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