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石井ゆかり :「風の時代」の星占い的思考。

☆mediopos-2398  2021.6.10

地の時代から
風の時代へ

2020年12月22日
木星と土星の「会合」
グレート・コンジャンクションが起こり
これから200年ほどの「風の時代」が始まる
(と西洋占星術では言われている)

西洋占星術における星の配置や動きは
ある意味では私たちの意識の深みにある
「元型」とでもいえるものから働くときの
型とでもいったものを象徴的に現している
易でいえば八卦六十四卦であり
カバラでいえばセフィロートである

地から風へというのは
単純にいえば
物質から精神へ
モノからココロへということだ

昨年暮れのグレート・コンジャンクションから
流れがそのように変わり始めているという

流れが変わるときには
それなりの混乱も起こることになる
その混乱は外的にも起こるだろうが
重要なのは内的な変化にともなって起こることだ

「地」が悪くて「風」が良いから
変わるというのではない
「地の時代」を受けてこそ
「風の時代」があるということでもある

目に見えるものを求める「地の時代」によって
科学的な観点からの物質的なものへの探求や
自我の拡張による個のアイデンティティへの探求が
ある種の臨界点を迎えることで
それを超える目に見えない精神的なものが求められ
「風の時代」を可能にしたともいえる

目に見えるものを強く求めてきた者は
目に見えないものに抵抗し
さらに目に見えるものへの固着を示すだろうが
目に見えるものを等閑にしたまま
目に見えないものに向かう者は
「地」に足のつかないが故の混乱をきたすことにもなるだろう

そんな変化のなかで私たちは生きていき
そこからさまざまなことを学ぶことになるが
それはある種の集合的な意味での秘儀参入であるともいえる

引用のなかに
レヴィ=ストロースの言葉がある

「私は(…)自分の個人的アイデンティティの
実感をもったことがありません」
「『私が』どうするとか『私を』こうする
とかいうことはありません」
「私たちの各自が、
ものごとの起こる交叉点のようなものです」

まるで他力本願のような言葉でもあるけれど
ほんらいの他力が働くためにこそ
自力を超えた自力
自我を踏まえ自我を超えた力を必要とする
計らいを超えたときにこそ訪れるもののように

地の時代から
風の時代へ
時代の変化という秘儀参入の前で
これからどんな風景が
外的にそして内的に見えてくるのだろうか

ご専門に特化している視野狭窄な科学よりも
長い歴史のある占星術的な観点は
行く先を示す視点を提供してくれるところが多分にある
「占い」も面白いがそれは余興にして
そうした変化の見取り図を得るための「星占い的思考」は
新たな時代に向けた秘儀参入のための準備にはなりそうだ

■石井ゆかり:「風の時代」の星占い的思考。
(『群像』2021年7月号 講談社 所収)

「2020年12月22日。
 私は何度、この日付を書いたことだろう。「2020年12月22日、水瓶座で『グレート・コンジャンクション』が起こります。ここから向こう約200年の『風の時代』がはじまります」。」

「2020年12月、夕方の空に2つの星が意味ありげに並ぶあやしい光景を眼にした読者もいらっしゃるだろう。あれがいわゆる「グレート・コンジャンクション」、木星と土星の「会合」である。「会合」とは、(…)「地球から見上げた時、天体と天体が重なり合うように近づく」現象を言う。(…)約20年に一度起こる木星と土星の会合だけが、特に「大会合」「グレート・コンジャンクション」と呼ばれる。前回は2000年5月、その前は1981年1月と、かなり規則的な現象だ。(…)
 ひとつまえの2000年5月は、黄道上の「牡牛座」で落ち合った。今回、2020年12月に待ち合わせたのは、「水瓶座」であった。」

「「風の時代」とはすなわち、「約20年に一度の木星と土星の会合が、基本的に風の星座で起こり続ける時代」のことなのだ。1802年に乙女座(地の星座)での大会合以来、1821年と1981年の例外を除いて、木星と土星は地の星座でランデヴーを続けた。それが2020年からは、風の星座で会合を繰り返すことになるのである。このシフトを「ミューテーション」と言う。ミューテーションの前後では、多少の行きつ戻りつがある。1981年の大会合は、風の星座である天秤座で起こっている。その後、2000年に牡牛座、2020年に水瓶座で、やっと「地の時代を抜けきって、風の時代への移行が完了!」した。次の「水の時代」が始まるのは2159年、そのあと2度「風」に戻って、しっかり「水」に入りきるのは、2219年である。」

「では「風の時代」とは、どんな「時代」なのか。(…)
 まずはこれまでの「地の時代」について。
「ここまでの『地の時代』は、産業革命が起こった頃にスタートしている。そこから資本主義が一気に台頭した。(…)人々の価値観も『金持ちになること』『より多くのものを所有すること』に向かい、成功した経営者は人格者として崇敬されるほどになった。物質的な充足こそが幸福である、という考え方が広く受け入れられた。」
 そして、次に来る風の時代については、こんなイメージになる。
「ひきかえ、これからの『風の時代』は、物質的・経済的な価値観が廃れていく時代になるだろう。風は実体を持たず、知と関係性を象徴する。(…)たとえば『若者の○○離れ』。この『○○』に入るものは、すべて地の時代的な『モノ』だ。ブランドものや高価な自動車などに、今の若者は興味がない。モノの所有がものを言った時代は、もはや若い世代にとっては、終わっているのだ」。」

「西洋占星術は、非常に古いルーツを持っている。紀元前3000年、それ以上の昔からの考え方が、今現在親しまれ愛されている「星占い」の中にも、連綿と息づいている。「風」、すなわち「火・地・風・水のエレメンツ」の思想も。キリスト教成立以前からの文化的背景から生まれ、現在に至る。未だにこの4つのカテゴリで「新しい時代」を語ろうとすることが、ごく不思議なことのようにも思えるし、また、人間はどんなに時代を重ねても、それほど変わりはしない、ということを示している気もする。

 「私は以前から現在にいたるまで、自分の個人的アイデンティティの実感をもったことがありません。私というものは、何かが起きる場所のように私自身には思えますが、『私が』どうするとか『私を』こうするとかいうことはありません。私たちの各自が、ものごとの起こる交叉点のようなものです。交叉点とはまったく受け身の性質のもので、何かがそこに起こるだけです。ほかの所では別のことが起こりますが、それも同じように有効です。選択はできません。まったく偶然の問題です。」(『神話と意味』クロード・レヴィ=ストロース 大橋保夫訳 みすず書房)

 もし「風のような生き方」ができるとするなら、きっとこんな生き方だろう。私はこの一節を読んだとき、自らもこうありたい、と心から願った。自分自身は単なる現象のようなもので、それは、幾つもの偶然の重ね合わせに過ぎない。レヴィ=ストロースは「私は、自分がこのように考えるからといって、人類とはそのように考えるものだという結論を下してよいなどとは少しも思っていません」と付け加えている。だが、今の私にはこの「生」のイメージが、限りなくリアルに思われる。コロナ禍を生きることも、インターネットを介して他者と関わることも、全て、自分がどうしたとか、自分をこうするとかいうことから出てきてはいない。私はこれを受け止めて、それで、せいぜい生きられるように生きていくだけだ。そういうふうに「私」を風に手放した瞬間、あらゆる現実が圧倒的な存在感で私の意識の中に流れ込んでくる。「運命」というものがあるとして、その手触りはきっとこんな感じなのだろうと思える。「偶然」は、限りなく両義的な言葉だ。「偶然だね!」と驚きあった瞬間、それはすでに偶然ならざる意味を胎んでいる。
 風は、偶然の関係性である。トルストイは生死まで関係性に投げ込んだ。
 「生命とは世界に対する関係であり、生命の運動とはより高度な新しい関係の確立であるから、死とは新しい関係に入ることである。」(『人生論』トルストイ 原卓也訳 新潮文庫)
 私の目に「風の時代」は、今、そんなふうに見えている。」

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