見出し画像

甲田直美「陳列棚の物語」(群像2024年9月号)/甲田直美『物語の言語学』/ジョナサン・ゴットシャル『ストーリーが世界を滅ぼす』/大治朋子『人を動かすナラティブ』

☆mediopos3581(2024.9.8)

言語学者・甲田直美の随筆「陳列棚の物語」が
「群像2024年9月号」に掲載されている

言葉の描き方には
「物館の陳列棚に展示するような、
整然と分類を施していく方法」と
「言葉を文脈において、その発揮する力を確かめる」
「体験性を重視した方法」があり

甲田氏には
「言葉の標本化と、言葉が人に働きかける力、
その双方を捕まえて展示したいという希望」があるという

しかし「言葉の意味とは、捕まえたカエルのようなもの」で
「捕まえたとたんに逃げられてしまうかもしれないし、
解剖の対象となってしまえば、
もはや、もとの元気なカエルではない」
という「言葉の解剖学と生態学」という
「観察のパラドックス」がある

その両者のあいだを「、行きつ戻りつしながら」
甲田氏は「物語の言語学」を紡いでいるのだが

随筆の最初に興味深い例が挙げられている

甲田氏の家にはシャルルという大型猫がいることから
ChatGPTに「猫のシャルルの物語を作って」と入力すると
「我が愛猫の冒険譚」が出てくる

しかし「犬の名を入れても、架空のインコの名を入れても、
結果はすべて冒険譚」
「生成されるのは、ヒーロー・ヒロインが冒険に出かけ、
試練を乗り越え、問題を解決し、成長して無事帰還し、
もとの平穏な日常に戻るという物語」だという

ChatGPTが生成するのは
これまでに入力されたさまざまな文字列を
もっともありそうな形で並べた「物語」にすぎないからだ

つまり生成される物語は
人間がこれまでにつくりあげた物語の
無個性なパターン化であって
それらはある意味で
私たちの言語の意味や物語パターンが
一般化されたものだといえる

AIは言葉の意味や物語のパターンを辞書のようにデータ化し
人間の求めに応じて「陳列」してくれる

それは人間からのインプットに応じて
それなりに変化はしていくだろうが
新たななにかがそこで創造されていくわけではない
それは昨日とりあげたオンライン・トークイベント
「「詩情」の変換 AI時代に編む言葉」でもふれたとおりだ

さらに付け加えるならば
「陳列棚の物語」の危険性にもふれておく必要があるだろう

mediopos2934(2022.11.29)および
mediopos-3172(2023.7.25)で
ジョナサン・ゴットシャル
『ストーリーが世界を滅ぼす――物語があなたの脳を操作する』
大治朋子『人を動かすナラティブ/
なぜ、あの「語り」に惑わされるのか』
をとりあげたことがあるが

私たちはいわゆる「物語」とされているものだけではなく
ある種の元型としての「物語」を生きている
そしてそれらの「物語」をつくりあげているは
元型として働く言葉の意味であるといえる

私たちは多くの場合
それらの「意味」や「物語」によって
動かされているとは思っていないが

私たちは心のなかで無意識的に
そうした「意味」や「物語」を語り続けている

そしてそれらがどんな力をもっているか
私たちをどのように操っているか
そのメカニズムに意識的であることは少ない

とはいえひとは言葉の意味や物語に拠りながら
日々を生きられているのも確かだ
意味や物語をまったく離れて生きてはいけない

重要なのは無自覚なかたちで
外から与えられた意味や物語に惑わされないことだ

それらの危険性に対して自覚的になるとともに
そうした影響下にあることに意識的でありながら
じぶんのそれや他者のそれに向きあい
じぶんなりの意味を見出し物語を描いていくこと

それこそが「自由」の課題でもある

■甲田直美「陳列棚の物語」
 (群像2024年9月号)
■甲田直美『物語の言語学—語りに潜むことばの不思議』(ひつじ書房 2024/2)
■大治朋子『人を動かすナラティブ/なぜ、あの「語り」に惑わされるのか』
 (毎日新聞出版  2023/6)
■ジョナサン・ゴットシャル(月谷真紀訳)
 『ストーリーが世界を滅ぼす――物語があなたの脳を操作する』
 (東洋経済新報社 2022/7)

 **(甲田直美「陳列棚の物語」より)

*「我が家にはシャルルという名の、モフモフの大型猫がいる。最近話題の生成系AI、ChatGPTに「猫のシャルルの物語を作って」と入力してみる。すると出てくるのは、我が愛猫の冒険譚である。ペットの名前入りのオリジナル作品とは、愛着もひとしおである。しかし犬の名を入れても、架空のインコの名を入れても、結果はすべて冒険譚。何度試しても生成されるのは、ヒーロー・ヒロインが冒険に出かけ、試練を乗り越え、問題を解決し、成長して無事帰還し、もとの平穏な日常に戻るという物語である。

 世界中、英雄の話は酷似している。日本の桃太郎から、古代オリエントのサルゴン伝説にいたるまで、主人公は旅立ち、試練を乗り越えて成長し、そして帰還する。これは神話学者キャンベルのいう英雄の物語、民俗学者柳田国男のいう完形昔話である。酷似している理由としては、人間の深層心理に求める説、伝搬説などがあるが、世界中に似たような話が流布しているので、AIがそれらしい物語を仕立て上げたのだろう。」

*「物語の導入と結末には一定の形式がある。「むかしむかし、あるところに」とは、時間も場所のわからないような情報量の少なさであるが、この導入によって「これから異世界に行きますよ」という虚構契約が結ばれる。だから物語の冒頭は異世界への入り口である。それでは結末はどうか。「こんなことがあったとさ、おしまい」。あるいは「めでたり、めでたり」、地域によっては「とっぴんぱらりのぷう」というのものある。おなじないのようだが、要は、物語が終わったあと、現実世界に戻るための魔法の呪文が必要なのである。

 物語を読むとき、物語の始めから終わりまで、その世界を順を追って経験していく。一言で「冒険」と伝えられるような要約ではなくて、時間の経験をたどることが物語の特徴となっている(・・・)。」

*「物語とは内部に入れば時間経験であるが、これらを陳列、展示することは可能であろうか。そもそも、なぜ展示しなければならないかという問いが、あると思う。私が言語学という、言葉を分析して、その特徴を整理して見せるというという研究をしている。」

「言葉の陳列のわかりやすい例は辞書である。辞書は項目ごとに典型的な意味を記述する。物語は言葉によってできているのだから、言葉の意味を整理したり並べたりするように、物語の持つ力を捕まえて整理したり、陳列して並べたりすることは可能だろうか。まるで博物館にある標本のように。

 これは結構、至難の業である。一瞬で眼に入る図像や絵画とは異なり、言葉は線上になっており、始めから終わりまである程度の長さがある。驚きや悲しみ、幸せなどの感情の起伏をたどりながら物語は進行するが、言葉を追いかけないかぎり、感情の起伏は生まれず、物語は生命をもたない。感情を引き起こした物語の言葉は、博物館の陳列棚に、標本として展示される剥製のような姿ではない。」

*「先ごろ『物語の言語学』(ひつじ書房刊)という本をまとめる機会にめぐまれた。物語は言葉でできているから、物語を通して言葉の特徴を描こうと考えていた。しかし「物語」というボタンを押したとたん、楔形文字からアニメ、あるいはナラティブ・セラピーに至るまで、物語それ自体に属する現象が連鎖的にどんどん出てきた。かつて詩人のルーカイザーは、「世界は物語でできている。原子でできているのではない。」といった。私は物語の渦に巻き込まれ、楽しみ、その一方で言葉の断片を取り出しながら、ミイラ取りがミイラにならないよう用心した。物語の享受から主観を取り除く、その最果てに、コンピューターが作品をデジタル情報として扱うという手法がある。コンピューターが生成するペットの冒険譚は、表層は物語らしくできているが、もっともありそうな前後の文字列を並べたものである。」

*「言葉の描き方には、博物館の陳列棚に展示するような、整然と分類を施していく方法と、その一方で、体験性を重視した方法があると思う。陳列棚に転じされたモノとしての言語資料とは、例えば楔形文字を刻んだ標本としての古代オリエントの粘土板や、最大公約数的な言葉を載せた辞書である。これに対して、言葉を文脈において、その発揮する力を確かめる接近方法がある。粘土板に刻まれた楔形文字が織りなす世界は、生きて私たちを魅了する時間の再現である。紀元前の物語でさえ、読者は物語の世界を追体験できる。言葉の標本化と、言葉が人に働きかける力、その双方を捕まえて展示したいという希望が、私の根底にある。

 しかし言葉の意味とは、捕まえたカエルのようなものだ。捕まえたとたんに逃げられてしまうかもしれないし、解剖の対象となってしまえば、もはや、もとの元気なカエルではないという、観察のパラドックスである。言葉の解剖学と生態学。振り子運動のようにどちらかに傾き、行きつ戻りつしながら対象に向かっている。」

*******

**(ジョナサン・ゴットシャル『ストーリーが世界を滅ぼす』
   〜「序章 物語の語り手を絶対に信用するな。だが私たちは信用してしまう」より)

*「たしかに、ナラティブは私たちが世界を理解するために使う主要な道具だ。しかしそれはまた、危険なたわごとをでっちあげる際の主たる道具でもある。

 たしかに、物語にはたいてい、向社会的な行動を促す要素がある。しかし悪と正義の対立という筋立て一辺倒であることによって、残酷な報復を求め道徳家ぶって見せたい私たちの本能を満足させ、つけあがらせるのもまた物語だ。
 たしかに、共感を呼ぶストーリーテリングは偏見を克服する最高の道具になる。しかしそれはまた、偏見を作り上げ、記号化し、伝えていく方法にもなる。

 たしかに、人間社会の善なる部分を見出すのに役立った物語の例は数えきれないほどある。しかし歴史を顧みれば、悪魔的な本性を召喚してしまったのも常に物語だった。

 たしかに、物語には種々雑多な人間たちを引き寄せて一つの集団にまとめ上げる、磁石のような働きがある。しかし物語は異なる集団同士を、ちょうど磁石の斥力のように反発させ合うのにも中心的な役割を果たす。

 このような理由から、私はストーリーテリングを人類に「必要不可欠な毒」だと考えている。必要不可欠な毒とは、人間が生きるために必須だが、死にもつながる物質をいう。例えば酸素だ。呼吸するすべての生き物と同じように、人間は生きるために酸素を必要とする。しかし酸素は非常に危険な化合物でもあり(ある科学者は「有害な環境毒」と言い切っている)、私たちの体に与えるダメージは一生の間に累積すると相当なものになる。」

*「物語が全人類を狂気に駆り立てている、という私の言葉が意味するのは、次のようなことだ。私たちを狂わせ残酷にしているのはソーシャルメディアではなく、ソーシャルメディアが拡散する物語である。私たちを分断するのは政治ではなく、政治家たちが楔を打ち込むように語る物語だ。地球を破壊する過剰消費に私たちを駆り立てているのはマーケティングではなく、マーケッターが紡ぎ出す「これさえあれば幸せになれる」というファンタジーだ。私たちが互いを悪魔に仕立て上げるのは無知や悪意のせいではなく、善人が悪と戦う単純化された物語を倦むことなくしゃぶり続ける、生まれながらに誇大妄想的で勧善懲悪的なナラティブ心理のせいだ。」

*「政治の分極化、環境破壊、野放しのデマゴーグ、戦争、憎しみ─文明の巨悪をもたらす諸要因の裏には必ず、親玉である同じ要因が見つかる。それが心を狂わせる物語だ。本書は人間行動のすべてを説明する理論ではないが、少なくとも最悪の部分を説明する理論である。

 今、私たちがみずからに問うことのできる最も差し迫った問いは、さんざん言い古された「どうすれば物語によって世界を変えられるか」ではない。「どうすれば物語から世界を救えるか」だ。」

**(ジョナサン・ゴットシャル『ストーリーが世界を滅ぼす』
   〜「第5章 悪魔は「他者」ではない。悪魔は「私たち」だ」より)

*「歴史上の悪者と加害者に対して、私たちは共感をもって想像することができない。奴隷商人、異端審問官、アメリカ大陸征服者、虐殺者たちに対しては、神の恩寵がなければ自分がああなっていてもまったくおかしくなかったということを私たちは認めようとしないだろう。悪魔は「他者」ではない。悪魔は私たちだ。彼は同じ環境に生まれていれば私が——あなたが——なっていたかもしれない人物なのだ。」

**(ジョナサン・ゴットシャル『ストーリーが世界を滅ぼす』
   〜「終 章 私たちを分断する物語の中で生きぬく」より)

*「最も重要な一歩は、私たちを分断する物語の中を歩くためのもっと寛容な規準を作ることだ。私は次のように提案したい。
  物語を憎み、抵抗せよ。
  だがストーリーテラーを憎まないよう必死で務めよ。
  そして平和とあなた自身の魂のために、物語にだまされている気の毒な輩を軽蔑するな。本人が悪いのではないのだから。
 自動的に物語を消費し制作する私たちの脳のあり方をコントロールするのは難しいだろう。結局は失敗する可能性もある。人類という種の誕生にひと役買ったストーリーテリングの本能は、私たちに牙を剝き絶滅させるかもしれない。だが、もし危険が実在せず、解決策が簡単に手に入るようなら、英雄は必要ない。
 勇者たる読者よ、これが冒険への誘いというやつだ。」

*******

**(大治朋子『人を動かすナラティブ』〜「はじめに」より)

*「ナラティブという英語の表現がある。
 日本語では「物語」とか「語り」と訳されることが多い。本書であえてナラティブという英語表現を使うのは、「物語」「語り」「ストーリー」といった日本語がそれぞれ持つ意味やニュアンスを広く網羅する表現だからだ。」

「善くも悪くもナラティブは人間の感情をかき立て、個人を、そして社会を突き動かす。人間を孤独にも憎しみにも、連帯にも慈しみにも駆り立てる。

「英ロンドンを拠点に軍事心理戦を展開したデータ分析企業のケンブリッジ・アナリティカ元研究部長は私のインタビューに、ナラティブと、その影響力を最大化、最適化するアルゴリズムを組み合わせた「情報兵器」による世界最大規模の人心操作の実態を語った。

 それは現代社会に蠢く「見えざる手」ともいうべきものだった。

 見えざる手は、見えないから恐ろしい。見えないから、支配されやすくもない。SNSを駆使して物語を操るさまざまな手があるのなら、それがいかなるメカニズムを持ち、どのような働きからをするのか、できるだけ「見える化」する、可能な限り顕在化させることが、一方的に支配されないための手がかりになるはずだ。そう考えて、私はこの調査を続けた。」

○甲田直美(こうだ なおみ)
東北大学大学院文学研究科・教授
2000年京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程修了。博士(人間・環境学)。日本学術振興会特別研究員(DC,PD)、滋賀大学教育学部助教授、文部科学省在外研究員(Faculty Scholar, Department of Psychology, University of Massachusetts)を経て現職。
主著に、『談話・テクストの展開のメカニズム─接続表現と談話標識の認知的考察─』(風間書房,2001年)、『文章を理解するとは─認知の仕組みから読解教育への応用まで─』(スリーエーネットワーク,2009年)、『認知語用論』(くろしお出版,2016年,共著)などがある。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?