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藤原辰史 『植物考』

☆mediopos2991  2023.1.25

昨日は「昆虫の哲学」だったが
今回はいわば「植物の哲学」である

ちょうど春秋社ウェブマガジン「はるとあき」の「植物考」と
生きのびるブックスのウェブマガジンの「新・植物考」の連載が
まとめられて本になっているので
その藤原辰史 『植物考』をガイドにしながら
人間と植物の関係について考えてみることにする

私たち人間はじぶんを植物だと
みなすことは稀だろうが
実際のところ私たちは
植物として生きている側面がたしかにあるにもかかわらず
そのことについて意識的であるとはいえない

私たちは植物には動物のような感覚(感情)がないとし
植物を食べ植物を利用して生きていているところがある
そしてそのことに疑いを持ってはいない
つまり「ほとんどの人間は、植物を自分よりも下位に見ている」
ヴィーガン(完全菜食主義者)もそのことを根拠にして
植物を食べることを動物を食べることとは
異なっているととらえているのだろう

たとえば(神秘学の描く)図式でいえば

人間・動物・植物・鉱物
そしてそれぞれに対応した構成要素である
自我・感覚(感情)・生命・物質

上記のように
この地上世界においては
人間は自我から物質までの構成要素を有し
鉱物は物質のみを植物は生命と物質を
構成要素として有しているとしている
(とはいえ唯物論的にとらえられた世界では
すべては物質のみによって成り立っていることになるが)

とはいえ神秘学的な認識でいえば
人間はこの地上世界において自我から物質までを有しているが
他の動物・植物・鉱物といった存在はほかの構成要素を
地上よりもいわば高次の世界において有しているとしている
あくまでもこの地上世界において
その顕現の仕方が異なっているというわけである

人間中心主義の観点でいえば
地上世界は人間・動物・植物・鉱物という順に
階層的に存在しているということになるが
それをあまりに図式的固定的にとらえてしまうと
単に高次か低次かという発想しかできなくなってしまう

私たち人間は人間として生きているので
多かれ少なかれ人間としての視点をとらざるをえないが
そのなかで重要なのは
私たちは動物としても植物としても鉱物としても
同時に生きているというだ

食物連鎖を含む「食べる」という観点にしても
ヴィーガンというような「主義」だけに
みずからを閉じ込めても問題は解決しない
直接的に動物を摂取しないでいるとしても
なんらかのかたちで動物を摂取しないでいることはできない

さて植物を「作物」や「生物資源」としてだけとらえてしまうとき
そこからは「植物らしさ」や
それが「現在の人間社会に与える示唆」が
抜け落ちてしまうことになるから

私たちはみずからの内なる植物性はもちろん
じっさいの植物たちが私たちとの関係性のなかで
どのようなありようをしているのかに自覚的になる必要がある
(動物性も鉱物性もそして霊性ということも同様に)

『植物考』の著者は本書で
「人文学の視点から植物とはなにか、
植物と人間とはこれまでどのような関係にあり、
またどのような関係を作りえるのかについて、
歴史学や文学や哲学などを横断しつつ、考えたい」としている

それは「鉱物や植物や動物の真理を究明すること」を
「自然科学者だけの営みに」してしまっている日本の教育制度が
「文系と理系」という単純すぎる図式で
「高校生の柔らかい頭を硬直化させてきたこと」があり
それへの抵抗でもあるのだという

昨日の昆虫も今回の植物もそうだが
そのほかあらゆることについて
「文系と理系」
さらには「専門」というかたちで
ひとを狭いところに閉じ込めてしまう傾向はますます強くなり
そんななかでわたしたちは生において貧しくなり
全体性を生きることができなくなってしまっている

■藤原辰史 『植物考』(生きのびるブックス 2022/11)

(「第1章 植物性」より)

「ほとんどの人間は、植物を自分よりも下位に見ている。なるほど、その優越感を説明する根拠はたくさんあるように思える。
 植物は人間を食べられない。だが、人間は植物を食べられる。(…)人間はまだ植物に食べられたことがないし、植物も、自分の分泌物を食べている人間の排泄物を栄養にすることはない。
 植物は人間を組み立ててて住めない。だが、人間は植物を組み立てて住める。
(…)
 それゆえに、人間は植物よりも高等な生命なのだ、ということはすくなからぬい人びとが感じている。植物は人間に隷属すべき低い地位にあるのは自然なことだと密かに思っている。むしり放題、切り放題、食べ放題、除草剤も殺虫剤もドレッシングもかけ放題というわけだ。植物よりは動物のほうが高等である、ということも、ついでにどこかで信じている。(…)
 けれども、本当に人間は植物よりも高等だといえるのだろうか。考えれば考えるほど、確信的な答えが遠のいていくような感覚に襲われる。植物は人間がいなくても生きていけるが、人間は植物なしでは生きていけない。どうして私たちは、。これまで述べてきた人間の文化の基本的な行為、すなわち、食べること、住むこと、着ること、育てること、名づけることを、植物が「できない」と表現してきたのだろうか。「する必要がない」ではなくて。
私が本書で試みようとしているのは、かつて鉱物や植物や動物の真理を究明することも、演劇や音楽を論じるのと同様に人文学の営みであった時代を、過去のものにしないことである。別の言い方をすれば、鉱物や植物や動物の真理を究明することが自然科学者だけの営みになった現在の高度分業社会を例外とみなすことである。そうして、人文学の視点から植物とはなにか、植物と人間とはこれまでどのような関係にあり、またどのような関係を作りえるのかについて、歴史学や文学や哲学などを横断しつつ、考えたい。」

(「第9章 「植物を考える」とはどういうことか」〜「植物らしさの在処」より)

「本書ではこれまで「作物」や「生物資源」という概念枠組みでとらえた瞬間に抜け落ちてしまう植物の「植物らしさ」について、そしてその「植物らしさ」が現在の人間社会に与える示唆について、さまざまな文献を読んだり、普段の植物とのつきあいを内省したりして考えてきた。
 植物は、人文学的課題に限ったとしても、底なしの深さを持つテーマであることを改めて思い知った。とともに、かつて、ゲーテもルソーもノヴァーリスも植物をまるで人間の魂や共和政を論じるように論じていた時代があったことを、ある種のノスタルジーとともに振り返っている自分に気づいた。あの知のあり方に、たとえそれに戻ることは著しく困難だとは分かっているとはいえ、私は憧れを禁じえない。先人たちの植物をめぐる思考に触れ、歴史や経済を学ぶ人間が植物について関心をもたない時代こそが、異常な時代なのかも知れないと感じることも少なくなかった。
 本書は、あたりまえのように思えて、しかしながら深く考えられてこなかった次の事実を確認することから始まった。
 第一に、植物は動く、ということ。根も葉も茎も動く。もちろん、動物のように捕食しようとダイナミックに四肢を動かすわけではなく、根を張って水分の在処にたどりつき、葉や茎を動かして太陽光を浴び、光合成を活性化させていることを知った。その事実の延長として、動物である人間もまた、腸に流れる「土壌」に根を張って栄養を吸収する、動く植物として考えることができるとも述べた。
 第二に、植物が地球の大気を作ったこと。植物がなければ、大気はこんなにも酸素に溢れていなかった。植物がなければ動物は棲めないが、動物がいなくても少なからぬ植物は生存可能である。植物の働きでオゾン層がここまで厚くならなければ、有毒な紫外線が地球上の動物たちをもっと傷つけることになる。植物という「基底」を、私たちがあまりにも意識してこなかった。ちょうどそれは、歴史を学ぶさいに、人間たちが何を食べていたか、とか、どんなふうに寝ていたかを知ることがほとんど重視されないのと同様に、植物はあまりにもあたり前の存在として日々の営みを繰り返してきた。イタリアの哲学者のエマヌエーレ・コッチャは、「浸る」という印象的な言葉で、植物的なものについて説明をした。葉は隙間だらけであり、むしろ空気に浸透している器官であることも確認した。
 第三に、植物は色々な生物との共同作業によってその生を営んでいること。ある花は、その上で蜂が羽をバタバタとさせて花粉が雌しべにつくような「舞台」であった。根は、多くの微生物が棲み、土壌中のミネラルを植物に供給する代わりに、植物は光合成したデンプンを根に放出し、生物たちを引き寄せていた。ちょうど、腸内細菌が人間の免疫の働きに大きな影響を与えているように、根圏の微生物もまた植物の働きを閉じられた空間で助けていたのだった。」

(「第9章 「植物を考える」とはどういうことか」〜「完全菜食主義者の「植物中心主義」批判」より)

「だが、以上のように私の植物をめぐる考えをまとめている最中に、これまで考えてきたことを真っ向から否定するような本が登場した。(…)ある種の「植物ブーム」に対するヴィーガンの哲学者の強烈なカウターパンチである。
 それは、フロランス・ビュルガの『そもそも植物とは何か』(河出書房新社)である。ルソー、メルロ=ポンティ、フッサール、レヴィ=ストロースなどのヨーロッパの哲学者や人類学者を中心に、植物とは何ものなのかを丹念に論じた本である。(…)
 ビュルガのモチーフはこうだ。現在訪れている植物ブームの背後には、菜食主義者に対するある種の批判がある——動物は苦痛を感じるゆえに肉食をやめるのであれば、あるいは、動物にも権利があると主張するのであれば、どうして植物に苦痛がない、植物に権利を与える必要がないと信じられるのか。植物だって生きものであり、その生命を奪うことでしか私たちは生きていけない。植物と動物のあいだに線を引くのは恣意的ではないか、という批判である。(…)
 ビュルガは「知性」という人間にしか当てはまらない言葉を、植物を説明するときに用いるのはおかしいと感じている。そもそも、植物には、脳はもちろん神経がない。「痛み」を感じないし、「欲求」を覚えることもないし、「死」というものも存在しない。種子によって増殖できる。植物は、私たちの感覚を超越した存在であり、安易に比喩を用いて説明した気になってはならない。植物にはセンサーはあるが、知覚などなく、動物とは似ても似つかぬ存在だ、だから動物と同じような苦痛を感じるわけもなく、権利など与える必要はない、と主張する(…)。
 そして、このような植物ブームの影には、動物への無関心が存在するとさえ言う。「実際、環境や自然の保護を訴える哲学者や法律家の多く、そして自然環境保護活動家のほとんどは、『個体としての』野生動物にはまるで関心がない。絶滅危惧種に指定されている動物でも、その種さえ存続されれば、それぞれの個体が苦しもうが殺されようが一向に気にかけない」と。また、生命全般を重視する「生命中心主義」を批判する。動物の生命と、植物の生命は異なるから、そこを一緒にすることに懐疑的なのである。」

(「第9章 「植物を考える」とはどういうことか」〜「植物の権利」より)

「私は、(…)植物を人間の下に見る思考法の批判をしてきたが、(…)植物に権利を与えよとまでは論じなかった。かといって、ビュルガのように、動物に権利を与えるべきだとも考えない。大規模畜産に見られるような食肉の機械的大量生産が労働者を傷つけ、本来は食べないトウモロコシを牛に食べさせ胃に潰瘍をもたらしたり、場合によっては肉骨粉を与え狂牛病をもたらしたりしてきたあり方は根源的な見直しが必要であると強く思うが、動物に人間界で通用する権利を与えるべきだ、とまでは考えていない。
 それは、「権利を与える」という態度自体が人間の食物連鎖や物質循環に対する傲慢さのあらわれであると思うからである。人間が動物と植物に権利を与えなくても、動物や植物が従う食物連鎖や物質循環の理ことわりを尊重することで、それらに権利を与えるよりももっと豊かに残酷な交流が、人間の法的世界の狭さをはるかに越え出るような規模で行われている。それは、これまで私が論じてきたとおりである。
 人間はその歴史の中で、奴隷、農奴、女性、障害者、性的マイノリティに権利を与えてきた、と思い込んでいる節がある。その一本線の歴史の延長に、動物や植物をおく、という歴史観は、魅力的に響く。だが、私はそれに与することができない。なぜなら、まず人間の歴史は一本線ではないし、地球上の人間の中で権利を認められている人間の割合は依然として少なく、奴隷的な状態に置かれている人間も依然として増えているにも関わらず、人類は進歩を遂げてきたと思い込んでいる人がいわゆる「経済先進国」に多いからである。その人たちは言うまでもなく、インドネシアのパームやしやフィリピンのバナナの農園にせよ、ブラジルやアルゼンチンの農薬漬けの遺伝子組み換え大豆の畑にせよ、植物や動物を相手にする仕事についている。原発事故によって放射性物質が作業員の体内を傷つけているが、それは周囲の植物や動物たちも同様である。放射性物質の漏洩は、食物連鎖自体の破壊なのである。古河鉱業が渡良瀬川の魚と周囲の水田の稲と住民を同時に破壊したように、あるいは、チッソが魚と猫と漁民の体内に有機水銀を蓄えさせたように、三井金属がカドミウムを神通川の魚介類にも、その水系のイネにも、周囲にすむ住民たちの体にも浸透したように、人間の破壊は必然的に植物や動物に対する破壊をともない、その逆もまた然りである。権利範囲を広げるだけでは、個々の存在が犯された毒性は指摘できても、地球規模の人間とそのほかの生物の同時的破壊の「連関」が、つまり、個々の存在は地球にある物質でしか構成されていないことが、とらえられない。ビュルガのおかげで、私が植物について考えたかったのは植物の権利を主張したいためでなく、植物の作った世界に「浸る」私たちの連関をとらえたかったことを確認できた。」

(「第9章 「植物を考える」とはどういうことか」〜「植物の美」より)

「ビュルガは、あまりにも植物を自立(あるいは孤立)したものと考えているように思える。これこそ、ビュルガが批判した人間の比喩を植物にあてはめる行為ではないか。植物が、他の昆虫や微生物との共生、もっといえば、生の浸透の仕合でしか成り立たないことは、すでに植物学者たちに指摘されているし、それについて繰り返し述べてきたが、この混交の有様や相互浸透の局面を見つめることこそが、植物を考える、ということではないだろうか。
 もっといえば、人間が他人の考えと行動をあえて理解しようとするとき、それがたとえ絶望的な試みだと分かっていても、どちらにも存在する「動物的なもの」を抜きにしてそれができるわけではない。腹が減ったり、喉が乾いたり、眠くなったりするあの感覚がその勇気を駆り立ててきた。それは「植物的なもの」も同様である。ある場所に根を生やそうとする志向、太陽にあたろうとする志向、重力と光を感知するセンサーがお互いにあるだろうという想像が、他人に向かおうとする、あわよくば一緒に生きていこうとする勇気を作り上げてきた。

(「第9章 「植物を考える」とはどういうことか」〜「植物を食べること」より)

「ところで、動物にせよ、植物にせよ、私たちは食べものを選べると思い込んできた。ビュルガが動物を食べないことの根拠を探り、植物を食べてもよい根拠を探ることができるのは、そのような選択が可能な立場にあるからである。私もまた、そんな立場に悠然と居座っている一人である。しかし、地球上に生きてきたほとんどの人間にとって食べものは選べなかったし、現在地球上に住んでいるほとんどの人間にとっても、食べものは選べない。食べものはそこにあるから食べざるをえない、というものである。たしかに、実りがいいものと悪いもの、肉付きがいいものと悪いもの、という選別は長い年月をかけて植物を作物へ、動物を家畜へと改良していったのだが、明日は肉食中心で今日は野菜中心と選べる環境にいるのは、歴史的にも地理的にも経済的にも例外だと考えた方がよい。それは必ずしも貧富の差と相関するのではない。選べないということは、その住んでいる環境と人間たちが切り離せない関係にあるとも言えるからだ。
 だとすれば、植物は私たちが選択し消化すべきものというよりは、私たちの体内に入ってきて、出ていかざるをえないものであり、そうでなければ、種子が他の場所へ運ばれず、セルロースが大腸内に残って、腸内細菌を増やすこともできず、体から排出したものが次の生物たちの食べものになることはない。それ以前に、私たちが食べる動物は、植物を食べていたかもしれないし、植物を食べていた動物を食べていたかもしれない。動物たちにいたっては、このような植物の環境と抜き差しならない関係にある。
 イヌイットにとっての肉がそうであるように、漁民にとっての魚介と海藻がそうであるように、アイヌにとっての鮭や熊がそうであるように、食べものが選ばれる前に、自然の摂理にしたがって、あたかも口の中に入り込んでくることの方が通常である。あらゆる種類の野菜と肉が、季節と関係なく目の前に並び、それを大量に選ぶどころか、大量に食べぬままに捨てて燃やす権利さえ持っている方が、どうして「進歩」と言えるのか、私には理解できない。
 食物連鎖から逃れることはできない。その当たり前の事実から出発しなければ、植物について考えることはできない。」

(「第9章 「植物を考える」とはどういうことか」〜「スキン・プランツ」より)

「植物と人間は、三〇億年前に地球上にあらわれた共通の祖先を持つ。私たちは「動物」という、人間が勝手に決めた生物の集合体に強い帰属性を抱いてきたが、他方で植物との共通性をあまりにも意識してこなかったように思う。実際、地球上に生息する生きものは、細胞を単位に形成されており、エネルギーは炭水化物を利用し、体の構造はタンパク質で形成されているだけでなく、遺伝子によって増殖している。しかも、単細胞生物から見れば、私たちは植物にそっくりであるともいえる。植物学者の三村徹郎はこう述べている。「今の生物学の最先端の知識からみるかぎり、大腸菌のようなバクテリアやヒトを含む動物と「植物」の間には、何等のちがいもないと言っても過言ではない。
 私たちは、根を生やしてそこから水とミネラルを吸い取ったり、光合成をしてデンプンを生産したり、可憐な花を咲かせたりすることにあこがれるよりも、チーターのように速く進み、鳥のように空高く飛び、モグラのように地下に穴を掘り、イルカのように海を泳ぐことに憧れ、実際にそのように産業文明を発達させてきた。地球に降り注ぐ太陽の恵みを存分に利用し、土壌の湿度と団粒構造を見極め、美しいものをもっと時間をかけて育て上げるような世界のあり方を、どこかで放棄してきた。人はそれを、社会の産業化というだろうし、環境問題の出現ともいうだろう。私はそれを植物性からの人間の大きな乖離、あるいは、人間のうちなる植物性の弱体化と呼びたい。
 植物について考えることは、初めて会った人なのに昔から知っている気がすると錯覚する、あの感覚に似ている。」

(「あとがき」より)

「本書は、日本の教育制度が「文系と理系」という単純すぎる図式で高校生の柔らかい頭を硬直化させてきたことに対するささやかな抵抗でもあります。生物や数学は自然科学で、歴史や古典は人文科学であり、どちらかに決めなさいと言われたとき、高校生の私はショックを受けました。理系も文系も勉強したかったのの受験勉強がそれを阻んだわけです。それゆえに、文理融合をうたった学部に入学しましたが、ほとんどの教員は文系と理系の融合研究に取り組んでいませんでした。学問の世界に専門性が求められることは理解しています。二兎追うものは一兎をも得ず、という警句を私は真実だとも思っています。本書も片手間の仕事ととらえられるかもしれません。しかし、そうではありません。二〇世紀前半の歴史研究に従事する人間が、否が応でも植物について学ばねば先に進めないという「必然」を理解していただきたいと願っています。本書は『歴史の屑拾い』(講談社)という歴史学の語りや隣接諸分野との対話について探求した本と同時並行で進められたプロジェクトで、あまり信じてもらえないかもしれませんが、私の中では密接不可分です。すでに『分解の哲学——腐敗と発酵をめぐる思考』(青土社)という本で文理をわけない思考にチャレンジしてきましたが、本書はその第二弾にあたります。」

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