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三木那由他「言葉の展望台㊱呼び掛ける言葉(最終回)」(『群像』)/三木 那由他『言葉の展望台』

☆mediopos3536(2024.7.23)

三木那由他「言葉の展望台」の連載が最終回を迎えた
「㊱呼び掛ける言葉」である(『群像』)

この連載に関しては
書籍化された三木 那由他『言葉の展望台』
についてとりあげたmediopos2806(2022.7.24)のほか
mediopos2703(2022.4.11)とmediopos-3131(2023.6.14)でも
連載記事をとりあげたことがあるが

最終回では連載のいちばん最初に話題にされた
「学生からの「先生」呼び」の話の
現時点での着地点を示唆する内容となっている

学生からの「先生」呼びの話とは

「先生」と呼ばれることは
教員と学生のあいだの力の不均衡を強化することになるので
「『先生』呼びはやめてください」とするのだが

そのことで「表面的には「先生」呼びでなくなったとしても
結局のところ不均衡は維持・強化されるのではないか」

「私が要求をおこない、学生が従った結果」
その不均衡は「より強固なものになっているのではないか?」
「言葉のうえでだけ「先生」という呼び方が消え去り、
不均衡な関係が強められつつも、
表面的にはそれが見えづらくなるというだけではないだろうか?」

という悩める問いである

結果として学生は
「「どうやら『先生』呼びは好まないらしいけれど、
かと言って代わりにどう呼んでいいかはよくわからないことが増えた」
ということになる・・・

この例でもわかるように
「呼び名」というのはなにかとむずかしい

呼び名を使わなくてすめばいいのだが
どうしてもそれが必要になることも多い

ひとを呼びとめるときや
だれかの話をほかのひとにするときなども
なんらかの「呼び名」が必要になる

「会話相手の意見を訊くときには
「Aさん/A先生/Aちゃん/・・・・・・はどう思いますか?」
といった訊きかたをする」
「「あなた」や「きみ」といった言葉は日常的にはあまり使わず、
どこか気恥ずかしいところがある」
また「名前がわからないときの呼び方」もむずかしい

呼びかけの言葉は「ニュートラルでないものが多」く
「代替となるニュートラルな言葉が見つけづたい場合が往々にして」あり
「私たちはどうにも、この社会のなかでの位置づけを参照しないで
ひとに呼びかけることができない」ところが多分にあるのだ

「結局のところ、私たちはそもそも否応なしにこの社会に組み込まれ、
位置を与えられ、ほかのひとたちとの関係を与えられ、
そのなかで生きている」ため
「相手のそうした社会的な位置づけを参照して呼び名を選ばざるをえ」ず
「それ以外の呼び方を、社会に埋め込まれて生きる私たちは
知らないことが多い、ということなのだろう」という

そうした社会的な位置づけを行うことなく
「個人と個人として向かい合える」かといえば
少なくとも日本においてそうした言葉遣いは見当たりにくい

たとえばじぶんの親などを呼ぶときにも
「ママ」「パパ」
「母ちゃん」「父ちゃん」
「お母さん」「お父さん」
「お袋」「親父」など
両親と自分との関係において
年齢などに応じてもさまざまな呼び名があり
ときにそれも変わったりもする

それで「でも、だったらどうしたらいいのだろう?」なのだが
連載の最後に現時点でたどり着いた理解は以下のようなものだ

「目の前の相手としっかりと向き合うためには、
ときに自分自身で物事を決めるのを中断し、
相手に身を委ねる必要」があり

「私の言っていること、私が発話を通じてしていること、
そして会話のなかで現れる私とあなたの関係、
そのいずれも、私単独で決めることではなく、
私とあなたのあいだで相互的に調整されること」なのではないか・・・

しかしそのような「調整」がなされたとしても
「私とあなた」は
「この社会から離れた個人と個人として向きあっているわけではな」い

「社会を背負って向かい合いながら、それでもときに相手に身を委ね、
いったいどこに向かうのかわからないままコミュニケーションを続けるとき、
ひょっとしたら私とあなたはそれ以前の関係とは違う
関係のありかたを見出すことができるかもしれない」というのである

あらためて「『先生』呼びはやめてください」
というところに話を戻すと

先生と生徒・私とあなたといった関係を
「それ以前の関係とは違う関係のありかた」へと開くためには
「『先生』呼びはやめてください」という際に
その「先生」と呼ぶことになっているということについて
意識的であることを求めることはできるはずである

その意味においてまずは
「『先生』呼びはやめてください」と要請することも重要な契機となる

固定化された関係性における「呼び名」は
それそのものが関係性を強化するものでもあるから
じぶんがほとんど無自覚なままに
社会的な慣習のなかで使っているさまざまな「呼び名」が
どういう関係性のなかで使われているのかを
それぞれが問い直すようにするきっかけともなるからである

「相互的に調整される」ことで
あらたに見出される関係があるとしても
その前段階として
「どう呼んでいいか」わからなくなる
そのことそのものに直面することが重要ではないか

「わからなくなること」
そのことでしか見えてこない
あらたな未知の道もあるのではないかと思う

■三木那由他「言葉の展望台㊱呼び掛ける言葉(最終回)」
 (『群像』2024年8月号)
■三木 那由他『言葉の展望台』(講談社 2022/7)

**(三木那由他「言葉の展望台㊱呼び掛ける言葉(最終回)」より)

*「この連載の最初の回で、学生からの「先生」呼びを話題にした。教員と学生のあいだの力の不均衡を強化したくない、「先生」呼びはそれを強化しそうだ、けれど「『先生』と呼ばないで」と学生に私が言ってその通りにさせたなら、それは私がどうにかしたく思っている力の不均衡を利用した振る舞いであって、表面的には「先生」呼びでなくなったとしても結局のところ不均衡は維持・強化されるのではないか、・・・・・・と悩んでいるという話だった。

 それがもう三年ほど前のことだ。その間に、当時は想定していなかった自体が起こり始めている。単行本となった『言葉の展望台』を読んで、私のそのもやもやを知ったうえで入学してきた学生さんと出会う機会が増えてきたのだ。その結果、こんなやり取りも起こるようになった。

「あの、『先生』呼びでなく、何と呼んだらいいですか?」

「ええと、ご自由に、好きなように呼んでくだされば・・・・・・」

「そうです・・・・・・」

 そしてどうなるかというと、たいていの場合、相手は単に私のことを呼びづらそうにするようになるのである。」

「ともあれ、そんなこんなで「私をどう呼んでもらうか問題」は新しい局面を迎えている。ひとと何気なく会話をしていなかで、「どうやら『先生』呼びは好まないらしいけれど、かと言って代わりにどう呼んでいいかはよくわからないことが増えたのである。」

*「思えば、呼び名というのは悩ましいものだ。ひとに呼びかけるというのがどうしようもなく必要な場面はたくさんある。ひとを呼び止めるときにも必要だし、誰かの話をほかのひとにするときにもその誰かを何らかの言葉で呼ばないとならないし、会話相手の意見を訊くときには「Aさん/A先生/Aちゃん/・・・・・・はどう思いますか?」といった訊きかたをする。もちろん「あなたはどう思いますか?」と訊いてもいいといえばいいのだけれど、私の日本語感覚としては、「あなた」や「きみ」といった言葉は日常的にはあまり使わず、どこか気恥ずかしいところがある。

 そうすると、そのたびごとに私たちはAというひとに一定の「位置づけ」を与えながら話すことになる。Aは私と対等かつそこまで距離が近くない「さん」呼びでよいひとなのか、それとも親しく「ちゃん」呼びをする相手なのか、それとも・・・・・・。その選択には、私自身がAとどういう関係でありたいかという意志だけでなく、実際のところ私とAがどのような社会的位置にあるかということも反映されるだろう。」

*「名前がわからないときの呼び方も気になるところである。名前のわからないひとを相手に、「お姉さん」、「お兄さん」などと呼びかけるのは、よくあることだ。いや、私はそんんふうにひとを呼ぶことはないし、「お兄さん」は問題外として、「お姉さん」呼びをされるのも好まないけれど、とはいえそういう言葉遣いのひとはあちこににいる。それは、一種の親しみの表現ともなっているように感じる。だからこそ逆に、ナンパや客引きなどでの「お姉さん」呼びは馴れ馴れしくて邪魔くさく感じられるのだろう。ほかにも、相手が教員であったり、弁護士であったり、医者であったりするのはわかっているが名前はわからない、という場合には、「先生」という呼びかけが使われることも多い。」

「困るのは、こうした呼びかけが必要になる場面が多いことと、そうした呼びかけの言葉にはそんなにニュートラルでないものが多いということ、そして代替となるニュートラルな言葉が見つけづたい場合が往々にしてあるということだ。(・・・)私たちはどうにも、この社会のなかでの位置づけを参照しないでひとに呼びかけることができないらしい。

結局のところ、私たちはそもそも否応なしにこの社会に組み込まれ、位置を与えられ、ほかのひとたちとの関係を与えられ、そのなかで生きているということなのかもしれない。私とあなたが社会を背負うことなく個人と個人で向かい合うことは、まったくないとは言えないかもしれないけれど、少なくとも滅多にない。私はただの私ではなく、ある職業に就き、ある性別の枠に置かれ(あるいは置かれず)、ある年代の、あなたとある関係のもとにある社会的存在として現れ、あなたと向かい合う。そして、互いに呼びかけ合うとき、私たちはしばしば相手のそうした社会的な位置づけを参照して呼び名を選ばざるをえない。それ以外の呼び方を、社会に埋め込まれて生きる私たちは知らないことが多い、ということなのだろう。」

 では、そうした参照がうまくいかないときには、何が起きるのだろう? 社会的位置づけから遁れて、個人と個人として向かい合えるようになるのだろうか? きっと、そんな都合のいいことにはならない。たぶん私たちはただ、互いの社会的位置づけはおおむね維持したまま、気まずく、ぎこちなく会話をすることになる。」

*「小さいころ、私は両親を「母ちゃん」、「父ちゃん」と呼んでいた。幼稚園くらいまでは「ママ」、「パパ」だったはずだが、その後、確か小学校に入って少しして、『少年アシベ』のアニメが始まったのがきっかけで呼びかけを変えたような気がする。」

「この呼び方にはたくさんの位置づけが絡んでいる。親と子という関係、母と父を呼び分けるジェンダー化、そして「お母さま」や「お父さま」、あるいは「お母さん」や「お父さん」と呼ぶのと比べるといくらか庶民的なものとしての自分自身の立ち位置、そのことを、当時の私が意識していたわけではなかったはずだ。ただ、アシベの言動を真似することで、私は知らず知らずのうちに、自分をアシベに類似した位置に置くような自己理解をし、それに合わせて両親の位置づけ、両親と自分との関係を認識し、両親に呼びかけていたのだろう。

 だが、成長し、思春期を迎えるころ、周囲の子どもたちの親への呼びかけが変化するようになった。典型的なのは、親を「お袋」、「親父」と呼ぶ子どもたちだ。小学校のころ、そんな呼び方をする子はほとんどいなかった。しかし、中学校、高校となるとかなり数が増える。そしてそのほとんどは(というより、私の周囲に限って言えば全員が)男の子だった。」

「いま私は両親を「お母さん」「お父さん」と呼んでいる。それは、性別移行の過程で自然に起きた変化だった。「男性」という社会的な枠に適合できない自分に気づき、性別違和を解消しようと社会的、身体的な移行を試みるなかで、だんだんと周囲かた「女性」という枠に入れられ、呼びかけられるようになった。例えば「くん」や「お兄さん」呼びはなくなっていった、というように。」

*「私が「先生」呼びへの否定的な気持ちを語ることで、このぎこちない状況へと追いやられてしまったひともいたのかもしれない。私に呼びかけるとき、相手は私との関係や互いの社会的位置を参照し、私への呼びかけを探す。特に親しい相手でなければ、参照できるのは私が大学の教員であるということくらいかもしれない。しかし、私は自分のそうした位置を参照してほしくなさそうな素振りをしている。すると、呼びかけかたが見つからず、ぎこちなく話すしかなくなってしまう。そんなふうにして、私は少なからぬひとを困らせてしまったのかもしれない。

 そんなことを考えていると、「でも、だったらどうしたらいいのだろう?」と改めて困惑してしまう。」

「たぶん必要なのは、関係の可能性を開くこと、関係の変化へと身を委ねることなのではないか。両親に対する私の位置は、「息子」から「娘」へ変わることができた。この変化のなかで、私は自然な呼びかけかたを手にした。これは、両親と私の関係がそのように変わる可能性が開かれていて、そして両親が私の試みるその変化へと身を任せてくれたために実現したことだ。」

*「以前に「先生」呼びへともやもやを語ったとき、私はただ単に「私はこういう位置づけに違和感がある」という気持ちを表明しただけで、相手との関係をもっと広い可能性へと開くこともしていなかったし、その関係について相手に身を委ねる用意があるという姿勢を見せてもいなかった。ただ単に私の意志を語っただけだ。しかし、この連載を通じてコミュニケーションについて考えるなかで徐々にわかったきたのは、目の前の相手としっかりと向き合うためには、ときに自分自身で物事を決めるのを中断し、相手に身を委ねる必要があるということだ。私の言っていること、私が発話を通じてしていること、そして会話のなかで現れる私とあなたの関係、そのいずれも、私単独で決めることではなく、私とあなたのあいだで相互的に調整されることであって、だからこそときには自分の意志を引っ込めてあなたのやり方に合わせることもできる。一緒に歩いているときに、自分のスピードを頑として維持するのではなく、相手の歩調に合わせるように。」

「そのように相互に調整するただなかでも、私とあなたがこの社会から離れた個人と個人として向きあっているわけではないのだろう。私たちはこの社会から逃れることはできない。でも、社会を背負って向かい合いながら、それでもときに相手に身を委ね、いったいどこに向かうのかわからないままコミュニケーションを続けるとき、ひょっとしたら私とあなたはそれ以前の関係とは違う関係のありかたを見出すことができるかもしれない。私はきっと本当は、そうした関係のつくりかたを夢見ていたのだ。それをうまくやるコミュニケーションの方法を知っているわけではないし、そんなものがあるのかもわからない。ただ、そうしたコミュニケーションがありうるのだと、そこに新しい私、新しいあなた、新しい私とあなたの関係が生まれる可能性があるのだと私は信じたいのだろう。」

**(三木 那由他『言葉の展望台』より)

*「私が「『先生』呼びはやめてください」と学生に言ったとしたら、私はどういう行為をしていることになるのだろう? この言葉を見ると、(・・・)お願いのために使われる表現であるように思える。言語行為論的には、「『先生』呼びはやめてください」という文には、依頼という言語行為と慣習的に結びついた形式(「ください」)が備わっている、といった言い方がなされる、ただ気になるのは、この状況で、私の行為は単純に依頼で終わるのかということだ。

(・・・)

 私から学生に「『先生』呼びはやめてください」と言うとき、私はこれよりも大きな強制力をこの学生に及ぼしているように思える。私は、自分がそう言いさえすれば相手が基本的に断れないということを自覚している。そして、おそらくはその力を発揮しようとしている。これは依頼とは別の行為だ。

 言語行為のなかでよく語られるテーマのひとつに、間接言語行為というものがある。ある言語行為をすることによって別の言語行為をもするときに、そのふたつめの言語行為のほうを「間接言語行為」と呼ぶ。例えば私がカフェで「お砂糖ありますか?」と訊けば、これ自体は(疑問文を浸かっているという点に照らしても)質問という言語行為に該当することになるのだが、たいていの場合において、私の真の目的はそのお店に砂糖があるかどうかの情報を得ることではなく、砂糖を自分のところに持ってきてもらうということであるはずだ。私は、「お砂糖ありますか?」と言い、それによって直接的には質問をしているだけなのだが、間接的には依頼をしている。これが間接言語行為という現象の例だ。」

「私は教える者と教わる者との不均衡な関係をできるだけ弱めたいのだった。しかし、それを弱めるために言う「『先生』呼びはやめてください」は、まさにその不均衡な関係を梃子にして強制力を伴うようになりかねないのだった。言っていることとやっていることがちぐはぐだ。

 このちぐはぐに目をつぶって私が「やめてください」と果敢に言ったとしたら、例の学生はきっとその通りにするだろう。しかし、そのときに私が望んだ仕方で私たちのあいだの力の不均衡は弱められているのだろうか? いやむしろ、私が要求をおこない、学生が従った結果、より強固なものになっているのではないか? それなのに言葉のうえでだけ「先生」という呼び方が消え去り、不均衡な関係が強められつつも、表面的にはそれが見えづらくなるというだけではないだろうか?」

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