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アレハンドロ・ホドロフスキー 『サイコマジック』

☆mediopos-2513  2021.10.3

いうまでもなくホドロフスキーは
『エル・トポ』や『ホーリー・マウンテン』
『リアリティのダンス』などの
映画監督として知られているが
タロット研究家・サイコセラピストでもある

ホドロフスキーのライフワークは
「日本語版への序」に書かれてもいるように
科学によって精神を治療するのではなく
芸術によって魂を解放する独自のセラピーである
〈サイコマジック〉の取り組みだという

映画『リアリティのダンス』を観て以来
ホドロフスキーに興味をもつようになり
本書を手にとってみた

目次でもわかるように
さまざまなことが語られているが
実際のところ書かれてあるのは
読み始めたときの印象を裏切るほどに
きわめてシンプルなことだ

愛されることを求めるのではなく
愛することから始めようということ
じぶんがじぶんに与えたものが与えられる

ひとがじぶんを愛してくれないというのは
じぶんの問題ではなくひとの問題だ
じぶんをセラピーするためには愛するしかない
愛することそのものこそが創造的な詩的行為であって
そのための言語が「サイコマジック」なのだ

もちろんそのシンプルさへ至るまでが
錯綜し複雑だとはいえるけれど

「それではどうすればいいのか?」といえば
「請うのをやめることだ」という
「請うのをやめれば、与える立場にいることにな」る
そうすることで「被害者」として生きることをやめる

批判的な性向は魂の成長をスポイルしてしまうというが
それはじぶんやじぶんに関係してとらえているものを
「被害者」としての立場に置いてしまうからだろう
現代の病のひとつである「承認欲求」も
「承認されることを求める」という
「愛されない症候群」のひとつにほかならない

「サイコマジック」である詩的行為は
批判的・被害者的ではなく創造的である必要がある

その意味でどんなときでも必要なのは
「それは創造的だろうか」とじぶんに問うことだろう
「愛されない」と百万回唱えても創造的にはなれない
それは「愛されない」現実しか生み出すことはできない
だいじなのは愛したければ愛する求めたければ求める
ただその詩的行為を遂行しつづけることだ

■アレハンドロ・ホドロフスキー(花方寿行訳)
 『サイコマジック』
 (国書刊行会 2021/6)

(「日本語版への序」より)

「精神分析は神経科医であるジグムント・フロイトによって創られた。そのルーツは科学的だ。
 サイコマジックは映画作家にして舞台監督であるアレハンドロ・ホドロフスキーによって創られた。そのルーツは芸術的だ。
 精神分析は言葉を用いてのセラピーだ、
 サイコマジックは行為(アクト)を用いてのセラピーだ。
 精神分析はセラピストが患者に触れることを禁ずる。
 サイコマジックはセラピストが相談者に触れることを勧める。

 治療するためのアートを実践することを決意した時、私は自分のエゴの囲いから出て、世界の痛苦へと足を踏み入れたが、そこで家族の問題に直面することになった−−−−二、三、四あるいは五世代にわたる一つの病の反復だ。繰り返される癌、繰り返される名前、繰り返されるレイプ、繰り返される離婚、等々・・・・・・
 精神分析はある人物が問題を抱えている時、言葉を用いてそれを分析し、それを引き起こしたトラウマが何かを探ろうとする。患者はこうして、六ヶ月、十ヶ月、数年間も話をした末に、例えば、自分が母親に託して性的欲望を持っていることに気づくかもしれない。だがトラウマを抱えているのに気づくことは、それを解決することではない。
 さて、言葉から治療的な行動に移るために、患者には何ができるのだろうか?
 そこで私は迫られたのだ、
 サイコマジックの発明を!

 サルバドール・ダリは夢を現実に持ち込みたいと言った。私は逆向きの道を行った−−−−
 「無意識に現実の言語を話すことは教えられない。
  理性に夢の言語を話すことを教えなければならない」

 サイコマジックは詩的行為の言語だ。」

(本文より)

「論理的であってほしいと望むこの人生は、気違いじみて、ショッキングで、驚異的で残酷だ。私たちの行動は論理的で、意識的な振りをしているが、実際には、非理性的で、狂っていて、矛盾している。」

「ひとは自分自身の狂気を通過することによってのみ、賢者になるんだ。」

「蓮の花は泥の中から咲くことを決して忘れてはならない。浄められた空に向かって昇るためには、泥濘を探求し、死と泥に触れる必要がある。」

「一度もしたことのない何かをする瞬間に、もう私たちは治癒の道にいる。ルーティーンを破らなければならない。」

「私たちはみな、この「よくもこんなことをしてくれたな」とか、「あなたは私を愛していないんだ」というゲームを終わりにしなければならない。愛されていないという感覚に耽溺してはならない。まさしく、愛されていない感覚を持っているなら、その感覚を変えて愛されていると感じなければならない。それではどうすればいいのか? そうだな、まずはじめに、請うのをやめることだ。私が請うのをやめれば、与える立場にいることになり、そうすればこう言えるんだ−−−−「あなたは私を愛していないが、私はあなたのことをとても大切に思っている」とね。そしれ腹を立て、相手をうんざりさせ、苦しみながら人生を送る代わりに、私は「もうたくさんだ」と言うだろう。そして問題はおしまいだ。私はあなたを愛している。私は自分の一生を通して被害者として生きるつもりはない。とんでもない。私はあなたを愛しており、それで十分だ。もしあなたが私を愛さないなら、それはあなたの問題で、私のじゃない。そこに治癒がある。創造的である時、ひとはもう何かを求めるのに集中するのではなく、反対に、それを私たち自身で作成する。愛のないところに愛を置かなければならない。そうすればそれを見つけられる。君が自分の愛する能力の欠如を映す鏡として相手を利用しているなら、それは君が自分を愛してくれない誰かを探しにどこかへ行ってしまっているからで、それが君の愛することができない理由なんだ。君は愛することができないのに、愛さないという自分の問題を相手に託してしまっている。それを鏡のように投影しているんだ。愛するんだ。そして君が愛すれば、相手も君を愛するだろう。なぜなら君が自分の愛を投影するからだ。

 物事を愛することから始めよう−−−−芸術、人々、私たちの作品、全てを。創造し、愛することに専念しよう。他の態度は私を無為に、ずっと停止していることへ導くのだから。想像力は、反対に、しなければならないことをするように導く、そして君は自分がすることを投影する。投影すれば、受け取れる。君が世界に与えるもの全てを、世界は君に与えてくれる。君が世界に与えないもの全てを、世界は君に与えてくれない。想像力のおかげで、請うことから解放されなければならない。「僕は才能が欲しい」と思う時には、「僕には才能がある!」と言わなければならない。もう持っているなら、どうして才能を欲しがるんだ? 私は成功したい。だがもう成功を手にしているんだ! 欲しいものは全て、私は持っている。そこで、請うことをやめて、私は自分の作品を作りにかかる。それが全てだ! 音楽を演奏したければ、演奏する。歌いたければ、歌う。書きたければ、書く。金を稼ぎたければ、稼ぐ。それだけだ。
 なぜなら私たちの横いんはいつも、私たちが自己実現するのを妨げる牢獄があるからだ。父さん、母さん、そうだろう? 私たちが言われてきた忌々しい禁止だ−−−−被害者になれ、被害者のように生き、被害者面をしろ、他人をうんざりさせろ、と。」

(「訳者解説」より)

「本書でも重要な役割を担っているのが、アクトという言葉だ。これは日常我々が行う「行為」を意味すると同時に、演劇・映画における「演技」、あるいは演劇における「幕」を意味する単語である。本書では大体「行為」「演技」にルビを振って用いているが、ホドロフスキーはこの語を、「状況に応じた即興を含みつつも、何らかの意図をもって予め計画された通りに遂行されるパフォーマンス的行為」という意味で用いている。ごく稀に、意図が解放される以前、家族や社会によって押しつけられた「役割」を「自分自身」と混同して行われるものを指すことがあるが(この場合ひとは無自覚に役柄を「演じて」いることになる)、基本的に無自覚的・反射的・習慣的な行動が「行為」には含まれない一方、厳密な行動計画や台本のない「ひたすら真っ直ぐ歩く」といった行為がアクトと呼ばれるのは、このためである。通常「演技」という言葉に含まれるような、自分とは異なる人間を「演じる」必要も、ここにはない。狭義の演劇やパフォーマンス・アートと異なり、観客も必要ない。純粋に主観的なものである夢の中でも、無自覚に夢に流されるのではなく、意識的に何かを計画しそれを遂行するのは、たとえ「明晰な傍観者として夢の展開を眺める」だけのものだとしても、アクトになる。
 ただしこのアクトは、主観的なもののみであるわけではない。詩的行為が友人と一緒になって行えるように、演劇的行為が最低限の台本や設定に基づいて上演可能になるように、パフォーマンスの目的と内容の骨子を共有することによって、アクトは複数の人間によって行う共同作業となり得る。前衛演劇がそうであるように、呪医による手術やサイコマジック・サイコシャーマニズムは、患者=観客をアクトに直接参加させながら、パフォーマンスを実践する。実践=実習もまた、ホドロフスキーが好んで使う用語だ。書かれた台本はそれだけで成立しているものではない。上演するために練習され、その場で実践されることによって、アクトは完成される。惰性によりアクトが形骸化するのを嫌うホドロフスキーの場合、演劇活動において練習はあまり重視されていないようだが、サイコマジック行為の場合も含め、失敗したアクトを修正し成功するよう繰り返すことは否定されていない。」

【目次】

日本語版への序
プロローグ

▶第一部 サイコマジック――パニック・セラピーの素描
(ジル・ファルセットとの対話)
序文(ジル・ファルセット)
詩的行為
演劇的行為
夢的行為
魔術的行為
サイコマジック行為
サイコマジック行為数例
サイコマジック書簡抄
想像力に力を

▶第二部 ミュータントのためのレッスン
(ハビエル・エステバンとのインタビュー)
魂の鍵
人生の航路
不可視の橋
幻視
治癒させる芸術
生を理解する

▶第三部 創造力速修講座

想像力のエクササイズ
想像力のテクニック
セラピーへの応用

訳者解説 アートからセラピーへ――ホドロフスキーの宇宙

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