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湯浅泰雄『身体論/東洋的身心論と現代』

☆mediopos-2486  2021.9.6

西洋は〝メタフィジク〟
(物理の彼岸)へと向かい
東洋は〝メタサイキックス〟
(たましいの彼岸)へと向かうが
おそらくその二つの彼岸はつながっている

とはいえそれらがむすばれるまでの道は
ずいぶんと紆余曲折があるのだろう

西洋的な証明や実証が
必要な条件の要素を満たしていたとしても
それだけで十分な条件であるとはいえない

そこに欠けているのが
まさに「身心一如」だからだ

些細な例にすぎないが
自転車に乗るためのスキルについて
どんなに完全に説明されたとしても
それで実際に乗れるようになるわけではない
逆に難なく実際に乗れたとしても
それだけでなぜ乗れているのかを
説明できるわけでもない

だから乗れている人が
まだ乗れない人にどんなに説明しても
そのアドバイスを参考にしながら
実際に乗る練習をしたあとでしか
乗れるようにはならない

自転車に乗る練習は「修行」というほどのものではないが
どんなことでもなにかを習得しようとすれば
それに応じた「身心一如」への「修行」は必要となる

それを知行合一という言葉で
説明することもできるだろう

知ることは
行うこととなってはじめて
ほんとうに知るといえる

すべては職人的な仕方で
習得したものだけしか得ることができない
言葉をかえれば
そこには錬金術的変容が
ともなっていなければならないということだ
また魂におけるそれは
「個性化」のプロセスということもできる

人が人になるという
宇宙進化論的プロセスは
ほんらいそうした
メタフィジクとメタサイキックスが
むすばれるところへと向かうものなのだ

■湯浅泰雄『身体論/東洋的身心論と現代』
(講談社学術文庫 1990.6)

「西洋哲学の本質的特徴は〝メタフィジク〟(物理の彼岸)に求められるのに対して、東洋哲学の本質は〝メタサイキックス〟(たましいの彼岸)に求められる。アリストテレスの哲学に代表されるように、メタフィジクは客観主義的態度をとって、外なる自然を観察しながら、物理的存在の領域から人間的存在の次元へと次第に上昇する。さらに、それは人間的次元をこえた超越的領域を求めて、そこに形而上学という最高の知を打ち立てようとしている。これに対して東洋の哲学は、人間の内なるたましい(プシケー)の領域に反省の眼を向ける。結局のところそれは、内なるたましいの世界をこえた超越的次元を目指している。(・・・)この道は近代科学とは逆の方向をとって、内面の経験を通して生ける自然へと向かう。それは人間の存在可能性の基本的境界を示している。
 近代科学の道とは違って、この道は学問的知識に乏しい凡ての人に対してひらかれている。人間のたましいの底からひらけてくる閉ざされた神秘な道に気づいたのは、これまでは、少数の幸運な人びとか、少数の不幸な運命におちいった人達だけであった。もしこの道が科学との協力によってひらかれるとするならば、それは自然の隠された究極の秘密の領域へとわれわれをみちびいてゆくことであろう。ここから、伝統的意味のメタフィジクとはちがった新しい意味のメタフィジク−−−−形をこえた世界についての知−−−−が現れてくるであろう。それは、たましいの内面的世界を超え出た形而上学となって、人間存在の基本的条件である生きた自然へと立ち向かう。ここにおいて、メタフィジクとメタサイキックは、新しい意味において一つになる。それはおそらく、新しい哲学への道をひらき、また宗教と科学を調和する地平へとわれわれをみちびいてゆくであろう。」

「一般的にいって、東洋の身体論の特徴はどういうところにあるのであろうか。東洋には「身心一如」という古い言葉がある。これは中世日本の有名な禅僧栄西が用いた言葉で、禅の瞑想における内的経験の昂揚した状態をあらわしている。この句はまた、日本の舞台芸術(たとえば能楽)とか武術(たとえば柔術、剣術)などでも、しばしば用いられている。言い換えれば、身心一如とは、内面的瞑想と外面的行動の両者が向かう理想的境地なのである。」
「西洋の伝統的身体観においては、心的なものと身体的・物質的なものを分析的に区別する傾向が強い。近代哲学の出発点になったデカルトの心身二元論(物心二分法)はこのことをよくあらわしている。このような考え方の歴史的源泉がキリスト教の霊肉二元論にまでさかのぼることができるとすれば、われわれはここに、東西の精神史にみられる長いちがいを見出すことになるだろう。
 心と身体が分けられないということは、常識にとっては明らかなことであって、西洋の思想家もそういう常識を欠いているわけではない。デカルト以降の近代哲学は、この二元論をどのようにして克服するかという問題をとりあげてきた。たとえばメルロ=ポンティの哲学は、身体が主体であるとともに客体であるという両義的性質を明らかにしている。それはいわば、二元的緊張をはらんだ身体と心の統合ともいえる。したがって、身心の統一は東洋の伝統においてのみ見出されるというのは正しくない。われわれは更に進んで、心と身体の不可分法は、どういう意味において、またどういう考え方に従って主張されるのか、ということについて問わなくてはならない。」
「東洋と西洋の知を比較してみると、そこには、それぞての形而上学の伝統に基本的な差が見出される。言いかえれば、東洋と西洋の理論構成の方法論的基礎には、いちじるしい相違がある。この点をよく考えないと、東洋の身体論の独特な性質をとらえることはできない。」

「東洋思想の哲学的独自性はどこにあるのか。一つの重要な特質は、東洋の理論の哲学的基礎には、〝修行〟の考え方がおかれているところにある。簡単にいえば、真の哲学的知というものは、単なる理論的思考によって得られるものではなく。「体得」あるいは「体認」によってのみ、認識できるものであるというところにある。それは、自己の身心のすべてを用いてはじめて得られる知である。それはいわば「身体で覚えこむ」ものであって、知性によって知るわけではない。修行とは、身心のすべてを打ちこんではじめて真の知に到達するための実践なのである。」

「ところで、修行とは一体何であろうか。仏教の立場からいえば、それは「悟り」の追求である。しかし、悟りがひらける体験は、単なる知的思弁や理論的思考から得られるわけではない。そのためには、身心を訓練する修行が必要である。言いかえれば、修行とは、悟りの知を獲得する方法であり、通路なのである。われわれはここに、東洋の形而上学に独特な方法論的問題を見出すであろう。」

「東洋思想の一つの特徴は、修行の生きた体験を意識の「ひらけ」に至る方法論的通路とするところにある。ここでの最初問題は、心と身体の関係は、修行においてどのようにとらえられているかということである。先に言ったように、東洋の身体路には、心と身体を不可分なものとしてとらえる傾向が強い。しかしこのことは、心と身体が分けられないということを意味するだけではない。それと同時に、この両者は不可分であるべきだという理想ないし目標をも意味している。「身心一如」という表現は、心と身体において見出される二元的で両義的な関係が解消し、両義性が克服され、そこから意識にとって新しい展望−−−−ひらかれた地平ともいえるような−−−−がみえてくることを意味する。身心一如とは、たとえば舞台でわれを忘れて舞っている達人の演技のように、心と身体の動きの間に一分のすきもない昂揚した状態である。
 道元はさらに一歩進んで、修行における悟りとは「身心脱落」の体験であるという。これは、心と身体の間の二元性が消失し、心はもはや客体としての身体と対抗する主体でなくなる−−−−と同時に、身体は心の動きにさからう主体としての「重さ」を失う体験である。そういう意味において、心と身体は元来不可分なものでありながら、依然として緊張をはらんだ二元的関係においてある。言いかえれば、それは修行を通じてなお一つとなるべき関係において見出されるのである。
 このことは、身心関係にみられる二元的な様態そのものが。修行の過程を通して次第に変化し変容するということを意味する。」

「ここで、方法論の上で東洋と西洋の考え方にみられる一つのちがいが出てくる。近代西洋の哲学者は、哲学と経験科学の間には論理的な次元の区別があると考えている。近代認識論は、実証的経験的な科学的知識の前提におかれている(経験に先立つ)方法や論理形式を明らかにするのが哲学の仕事だと考えている。(・・・)
 西洋のこのような伝統に対比すると、東洋では、哲学的思惟と経験的検証は本来一つのものでなくてはならないと考えられてきた。悟りの知は、身心を用いる修行の過程を通して体験的に確認され、認識される。こういう経験に基づいてはじめて、人は、「ひらけ」の経験領域について理論的な形で表現するのである。したがって東洋思想の伝統的立場からいえば、哲学的思惟と経験的研究とは二つの区別された領域の問題ではない。両者はいわば協力関係にあって、互いにまじり合うのである。したがって東洋の哲学的身体論は、実証的あるいは経験科学的観点からその意味を明らかにしょうとする企てに対して何も反対する理由はない。」

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