見出し画像

百瀬文「なめらかな人⓭見ない、見えない、見なくていい」(「群像 2023年 04 月号」)

☆mediopos-3051  2023.3.26

現代は視覚中心の時代だが
中村雄二郎の『共通感覚論』によると
中世でもっとも重要な感覚は聴覚
それに次いで触覚であって
視覚は三番目の感覚だったという

生まれた時から目が見えなかった人が
角膜手術で視覚を得たとしても
わたしたちがふつう「見る」ということが
できるようになるまでには数年かかる

視覚にかぎらずどんな感覚も
生まれつきのものではなく
学習プロセスを経て
はじめて働くものであるようだ

そしてそれぞれの感覚は
だれにでも同じように感受されるのではなく
時代によって
そして環境によって
もちろん個々人が感覚を
どのように学び育てていくかによって
そのありようはずいぶんと変わる

五感だけではない
十二感覚それぞれにおいて
一人ひとりの感覚の機能はずいぶん異なっているから
同種の情報が与えられたとしても
それがどのように処理されるかというのは
思いのほか異なっている

生まれ持った感覚の潜在的な力は
ひとにより異なっているだろうが
それにもましてその感覚がどのように学ばれていくか
ということはとても重要になってくる

ところで本エッセイで示唆されている
現代における「見る」ことに関する
「解像度の進化」ということは
とくに視覚が特化されている現代において
見過ごされてはならない視点だろう

4K8Kとどんどん解像度が進化しているが
ここで問われている次のことはとても重要な問いである

「誰の「くっきり見たい」欲望なのだろう。
いったい、誰が知覚したい世界なのだろう。」

はたして「くっきり見る」ということで
私たちは何を得ようとしているのか

本エッセイの筆者である百瀬文は
「生まれつきの遠視」だと眼科医に言われたのだという

「あなたの目は普段、風景のどこにも
ピントが合っていないんです。
遠くのものを見るときでも、
あなたの目はそれを近くに引き寄せるために
筋肉を使ってしまっている。
いってしまえば、常に身体が休まらず、
緊張した状態になっているんです。」

おそらくそのためもあるのだろう
百瀬文は「何かを「見る」という自体が発生する手前の、
焦点の合わない風景のなかに
とどまりつづけるのは心地がよかった」のだという

遠視であるかどうかはともかくとして
おそらくだれにとっても「くっきり見る」ということは
それなりの緊張感を必要とする

そして「くっきり見」たからといって
そのことで得られるものが何かは
実際のところよくわからない
おそらくそれは欲望のための欲望になっているのではないか

それはどの感覚についてもいえることだろう
重要なのは「くっきり」ではなく
その感覚によってなにが得られるかなのだろう
ときには「見ない」ほうが「見える」ということもある

そのことを踏まえておかないと
肝心なことが感覚されなくなるということもありそうだ
過ぎたるはなお及ばざるがごとし・・・

■百瀬文「なめらかな人⓭見ない、見えない、見なくていい」
 (「群像 2023年 04 月号」所収)

「「あなたはおそらく生まれつきの遠視だと思います」
 (・・・)
「遠視っていうのは、遠くのものがよく見えるとか、見えないとうことではないんです。あなたの目の焦点が合う場所は、生まれつき他の人たちよりも後ろにある。だから近くのものを見るときには、かなり負荷をかけてピントの調節を行っているんです。それでも無意識に筋肉を使ってピントを合わせられてしまうから、そのことを本人はなかなか自覚できない。そしてそれは、通常の視力検査ではだいたい見過ごされてしまう」
 (・・・)
「あなたの目は普段、風景のどこにもピントが合っていないんです。遠くのものを見るときでも、あなたの目はそれを近くに引き寄せるために筋肉を使ってしまっている。いってしまえば、常に身体が休まらず、緊張した状態になっているんです。」
 先生は淡々とそう続けた。
(・・・)
 わたしは昔から、夕暮れの時間を家でぼんやり過ごすのが好きな子どもだった。そういうときはだいたい窓の外を眺めているのだが、それはべつに空に浮かぶ雲だとか鳥の群れだとかを、関心をもってまじまじと見つめているということでもなかった。強いていうならば、水彩絵の具を塗り重ねるようにゆっくりと紫色に変化していく外の空気だとか、じょじょに湿り気を帯びていく庭の草木の気配だとか、そういう抽象的な諸々はまぶたの奥でうっすらと感じてはいたのかもしれない。あれだけ毎日長い時間を部屋の中で過ごしていたにもかかわらず、何かをはっきり見つめていた、という記憶があまりないのだ。
 何かを「見る」という自体が発生する手前の、焦点の合わない風景のなかにとどまりつづけるのは心地がよかった。それはまるで、がらんどうになった自分の体の内壁に映し出された、うすぼんやりとした幻灯機の光を浴びているような感覚だった。意識はぽんとどこかに投げ出されていて、目の前に拡がる光景に特別なにか感慨を覚えるわけでもなく、その光がそこにある、ということをただわたしは目の当たりにしていた。」

「哲学者・中村雄二郎の『共通感覚論』によれば、ルネッサンス以前、中世で最もすぐれた重要な感覚は聴覚であり、視覚は触覚に次ぐ三番目の感覚だったといわれている。しかし、活版印刷が登場し、遠近法が確立され、顕微鏡や望遠鏡といった新しい光学装置が次々とあらわれたことで、近代のはじめに視覚と聴覚の順位が入れ替わってしまうことになる。

(・・・)

 生まれた時から目が見えず、暗闇の中に生きていた人が角膜手術によって視覚を得たとしても、人びとが何気なく行っているような「見る」という動作を得るためには数年の歳月を要するらしい。はじめは何を見ても、ただのぼんやりとした明暗の塊にしか見えないという。やがてそのものが持つ色を識別できるようになり、ものの存在を背景から切り離せるようになり、それからそのものの形がわかり、「ああ、これは自分とは切り離された存在なのだ」ということをようやく近くできるようになる。これは、視神経と脳神経の連携がまだうまくとれていないために起こるそうだ。

 何かがくっきり見える、ということは、たとえ無意識下であったとしても脳のたゆまぬ学習の結果であって、決して自明のものではないのだということをこのエピソードは教えてくれる。」

「普段ビデオカメラといった機材を扱っていると、解像度の進化にどこまで載り続けるのか、という話がしばしば作家同士の中で出てくる。なぜ自分たちは、くっきりと細かい絵が撮れることを無批判に「よいこと」だと信じ、次々と新しい機材に買い換えたくなってしまうのだろうか。かといって今この時代にDVテープで撮影をしたとして、それはすでに懐古趣味的な意味合いをはらんでしまう。

 初めて自分が4Kカメラで撮影されたビデオ・インスタレーションを海外の展覧会で見たとき、巨大なスクリーンに引き伸ばされてもまったく粒子の見えない映像にびっくりしたのを覚えている。プロジェクターの光の表面はぬらりとしていて、まるで水銀のような粘度の高い液体がくまなく塗られているようだった。
(・・・)
 慣れとはおそろしいもので、そんなことを感じてから十年も経たないうちに、わたしは4Kの映像の質感についてなんとも思わなくなってしまった。それは日々周りの環境を覆い尽くしていく映像がほとんどその規格になったからというのもあるけれど、もはやフルHDだとどこか「物足りない」感覚になっている。これは自分でも結構こわい。くっきりしていること、つまり情報量がたくさんあることを是とし、それ以下のぼんやりした解像度に耐えられなくなっていく視覚認識のありようは、それ自体がなにか不穏な比喩のようでもある。ちょうど、アンドレアス・グルスキーが撮る写真のように。
 今後どんどん良いビデオカメラを使う機会が増えたとして、わたしはおそらく、4Kと8Kの映像の違いに気づくことができない。それはわたしの目の性質の問題もあるだろうけど、実際はほとんどの人がそうなのではなかという気もする。
 もはや、誰の「くっきり見たい」欲望なのだろう。いったい、誰が知覚したい世界なのだろう。」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?