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カルロス・カスタネダ『時の輪-古代メキシコのシャーマンたちの生と死と宇宙への思索』

☆mediopos2665  2022.3.4

カルロス・カスタネダ(1925/31?-1998)の著作は全12作
(引用の最後の一覧を参照のこと)
そのうち10作が二見書房から主に真崎義博の訳で
ほかには第4作目が講談社から名谷一郎訳で
そして第11作目が太田出版から北山耕平訳ででている
出版社が2作だけ異なっている

カスタネダのことを知ったのは
第四作目の『未知の次元』で
そのとき最初の3作も合わせて読み始め
その後は翻訳のでるごとに目を通してきた

最近は本棚の背表紙を見るくらいだったが
あらためていくつか読みなおしている
そのなかで第11作目の『時の輪』だけは
ほかの著作とは異なって
最初の8作までのものからの引用と
それぞれの著作についての「注解」となっている

訳者の北山耕平によればその『時の輪』は
「カスタネダの全著作のなかで、
最も重要なものが本書であることは間違いがない」といい
「それ以外の十一冊のすべてを合わせたのと同じぐらい」か
「それ以上の重みをもたされている」が
「ひとりのシャーマンの教えの核心の部分の全体像」が
そこには著者の視点から描かれているからだという
少なくともカスタネダの著作の
重要なダイジェスト編集になっていることは確かのようだ

『時の輪』においてカスタネダは
「ドン・ファンの主たる目的は、宇宙に流れるエネルギーを、
私がそのまま知覚するよう手助けをすることにあった」という

重要なのは「見ること」である

ドン・ファンにとって
「宇宙を流れるエネルギーを「見ること」」は
「人間を「輝く卵」「輝くエネルギーの球体」のように
「見ること」ができる能力を意味していた

シャーマンはその輝きの際立っている一点を求め
その個所を「集合点」と呼んだという
その「集合点」によって
私たちの世界認識が形づくられているという
したがって「集合点」が変わると
世界認識がつまりは世界そのものが変化する

喩えるとすれば周波数を変えると
まったく別のものが受信されるようなものだろう
多くの場合その「集合点」は固定され
それに呪縛されているのだが
「戦士」はそうした呪縛からみずからを解放する

私たちは私たちが常識的に生きている「集合点」に
否応なく固定されて生きているが
古代のメキシコのシャーマンたちの
「生や死や、宇宙やエネルギーについて考えたり、
感じたりしていた」認識の光に照らすことで
わたしたちの世界認識を
固定された「集合点」から解き放つ重要な示唆ともなる

しかしカスタネダの他の著作でも示唆されているように
わたしたちは古代のシャーマンのような
「古い見る者」ではなく
「新しい見る者」とならなければならない

過去に帰ることではなく
過去の知恵から学びながらも
それをあらたな光のもとに照らす必要がある

カスタネダの著作については
その内容の真偽などについて云々されたりもするが
少なくとも固定的な世界観の呪縛から自由になるための
豊かな智恵をさまざまなかたちで得ることができる

■カルロス・カスタネダ(北山耕平訳)
 『時の輪-古代メキシコのシャーマンたちの生と死と宇宙への思索』
 (太田出版 2002/5)

(北山耕平「路上の土埃/訳者あとがきにかえて」より)

「カルロス・カスタネダが残した本は全部で十二冊ある。本書は、そのなかでは十一番目にあたるものだ。十二冊目の最後の『無限の本質』も先頃邦訳されたから、本書が出版されることによって、カスタネダの本の日本語化はすべて完了したことになる。そしてカスタネダの全著作のなかで、最も重要なものが本書であることは間違いがないだろう。

 この『時の輪』は、単なるこれまでの本からの引用などではない。カスタネダとされる人物が、生前にドン・ファン・マトゥスとされるひとりのシャーマンから学んだ教えを、その言葉を中心として再整理したものである。この意味では本書は、それ以外の十一冊のすべてを合わせたのと同じぐらいの、いやもしかしたらそれ以上の重みをもたされているものなのである。もし一冊だけカスタネダの本を持って旅を続けるとしたら、わたしは迷わずこの『時の輪』を選ぶだろう。そしておそらくはここに書かれてあるドン・ファンの教えの直接の言葉以外は、すべてが「たわごと」にすぎないものなのかもしれない。

 インディアンの人たちがそうしたたわごとの書かれた本をなんのために使うかは、一連のシリーズを読まれた方にはおわかりのことと思う。カスタネダは、彼が誰であれ、ある意図を持ってこれらの言葉を選び、おそらくは最初にそれを聞いたときのままに戻すことを試みたのだ。それぞれの本でばらばらに配されていたような言葉が、本書においてはひとつの脈絡ある連結をもたらされて提供されている。ひとりのシャーマンの教えの核心の部分の全体像が、それを聞いたとされる人物によってこのように再整理されていたとは驚きではないか。ドン・ファンのシリーズを読んだ人間の多くが、この膨大な記述のなかからドン・ファンその人の言葉だけを書き抜いてあればいいのにと考える。実際に試みた人たちもたくさんいる。そしてほんとうにそれができるのは、カスタネダ本人しかいなかったのである。彼は『時の輪』を残すべくして残したのだ。」

(カルロス・カスタネダ「はじめに」より)

「本書に収録した一連の言葉は、古代メキシコのシャーマンたちの世界を描いた私の最初の八冊の著作のなかから特に選り抜いたものである。引用は、私の恩師であり、先達でもあったメキシコ生まれのヤキ族のインディアン、ドン・ファン・マトゥスが、人類学者としての私に説明してくれた部分から直接選び出した。彼は、はるかにその起源をさかのぼれば、古代にメキシコで暮らしていたシャーマンに連なる系譜に属する人物だった。

 ドン・ファン・マトゥスは、彼にとって最も効果的なやり方で、古代のシャーマンのものそのものでもある彼の世界へ、当然のごとく私を引きずり込んだ。なぜならドン・ファンこそがその世界のキー・パーソンだったからだ。彼はもうひとつのリアリティの領域について熟知していた。それが幻覚でもなければ、あふれ出るファンタジーの産物でもないことも知っていた。ドン・ファンにとっても、古代シャーマンの世界は、存在するいかなるものと同じようにリアルであり、実効性を持っていた。」

「ドン・ファンの主たる目的は、宇宙に流れるエネルギーを、私がそのまま知覚するよう手助けをすることにあった。シャーマンたちの世界においては、そのようにしてエネルギーを知覚することは、異なる知の体系のなかにさらにはいりこむための、より自由にそれを通覧するための、いわば避けては通れない第一段階にすぎなかった。「見ること」に関する反応を私の内部から引き出すために、ドン・ファンはどこからかもってきた別の知の枠組みをも利用した。

(・・・)

 宇宙を流れるエネルギーを「見ること」は、ドン・ファンにとって人間を「輝く卵(Iluminous egg)」もしくは、「輝くエネルギーの球体(luminous ball of energy)」のように「見ること」ができる能力−−−−そのような光輝くエネルギーの球体の中でも、通常の人間が共通してわけあっている特質を識別し、すでに輝いているエネルギーの球体においても、その輝きの際立っている一点を識別できる能力−−−−を意味した。シャーマンたちの求めるものはまさしくその輝きの際立っている一点にあり、そこが知覚の集合する場所であることから、それらのシャーマンたちはその個所を、「集合点(assemblage point)」と呼んだ。彼らなら、この考えを論理的に敷衍して、まさしくその輝きの際立っている一点のうえにこそ、われわれの世界認識は形づくられているとすることもできただろう。」

「ドン・ファン・マトゥスが、彼の認識の世界について真実であると教えてくれたすべてのことを考慮することで、私は結論に−−−−彼自身が分けあってくれたところの結論に−−−−つまり、もっとも重要なそのような世界の単位は概念としての「意志(intent)」であるとする結論に−−−−到達した。古代のメキシコのシャーマンたちにとって、「意志」とは、宇宙に流れるエネルギーを「見た」とき、視覚化できるひとつの力であった。彼らはそれを、あまねく偏在する力で、時間と空間のあらゆる面において介在してくる力としてとらえていた。それはすべてのものの背後で突き動かしている力だったが、そのようなシャーマンたちにとって、想像を超えて価値あることは、その「意志」が−−−−一個の純粋な抽象(a pure abstraction)であるところのその「意志」が−−−−人間と深いところで結びつけられていることであった。人間には常にそれを操ることのできる能力が与えられていたのだ。古代メキシコのシャーマンたちは、この力に影響を及ぼすただひとつの方法が、一点の非の打ち所のない完璧な振る舞い(impeccable behavior)」を貫くことだと気がついていた。そしてこのような無欠の離れ業を試みることが出来るのは、修練を徹底的に積んだ者だけなのである。

 この奇妙な認識体系の、もうひとつの途方もない単位は、シャーマンたちの時間と空間に関する観念の理解と用法だった。
(・・・)
 古代メキシコのシャーマンたちにとっては、時間はどこか思考に似ていた。その思考は、はっきりとわかるぐらいとてつもなく大きなあるものが考えているところの思考なのだ。倫理的な表現を用いれば、彼らにとって人間は−−−−つまり自分の知力をはるかに超えたとほうもない力が考えている思考の一部であるところの人間は−−−−かろうじてその思考のほんのわずか数パーセントの部分を、想像を絶する修行というある種特別な状況と引き換えに、失われずに保ち続けているのである。

 空間は、そのようなシャーマンたちにとって、活動の抽象的な領域であった。彼らはそれを「無限」もしくは「無窮(infinity)」と呼び、それは、生命を持つすべての被造物たちの努力の総和なのだと表現した。」

「そうしたシャーマンたちは、彼らが「時の輪(wheel of time)」と呼ぶ、もうひとつの認識の単位を持っていた。彼らの「時の輪」についての説明では、「時」は無限の長さと幅を持つ、いうならばトンネルのようなもので、そのトンネルには反射溝が幾本も刻まれているということだった。その溝も果てしなく続いていて、その数もかぎりなく存在する。そして生きものというのは、生命の力によって、その無数にある溝の一本をのぞきこむために、強制的に創りだされたものなのだ。その溝の一本だけをのぞきこむことは、その溝のワナにとらえられることを意味し、その溝を生きることになるのである。

 戦士の最終的な目的は、徹底した修練を経た行為を通じて、「時の輪」にたいして、決してゆらぐことのない焦点を合わせ、その「時の輪」を回転させることにあった。成功裏に「時の輪」をまわすことができた戦士なら、いかなる溝であれ、じっくりとそのなかを見つめることで、望むものを引き出すことができる。無数にある溝の中のただ一本の溝のみを凝視させられる力の呪縛から解き放たれることで、戦士たちは、いかなる方角でも、時が後退したり、反対に自分のほうに向かってきたりするところを、見ることができるようになるのだ。」

「引用文をまとめるに齋して唯一なしえたことは、それぞれの言葉にしたがって、古代のメキシコのシャーマンたちが、生や死や、宇宙やエネルギーについて考えたり、感じたりしていたことの枠組みのうえに、それらの言葉自身で、なんとか一枚の絵を描かせようとしたことだけだった。そうしたシャーマンたちが、この宇宙だけでなく、生きることのプロセス、およびわれわれの世界における共存について、どのように理解しているかを、ここに集めた言葉たちは投影している。しかもさらに重要なのは、それらが、自我にいささかの損失を与えることなく、同時に二つの認識システムを取り扱える可能性を指し示しているところである。」

(「分離したリアリティ(『呪術の体験』からの言葉」より)

「戦士に名誉はない。尊厳もない。家族も、国もない。あるのは生きるべき命だけだ。そしてこのような状況下にあって、彼を唯一同胞と結びつけているものが、彼の管理された愚かさである。」

「たとえそれがどんなに重要ではなくとも、戦士はいかなる行動も、あたかもそれが自分にとっては一大事であるかのごとく選び、そしてそれをやりとげる。彼の管理された愚かさは、彼に「自分のすることには意味がある」と言わせるだろうし、実際そういうふうに振る舞いもさせるが、それでも、彼にはほんとうはそうでないことがわかっている。だからこそ彼は、自分の行動を成し遂げれば静かに引きこもるし、自分の行ないが、善だったか悪だったか、うまくいったとかいかなかったとかなどについては、およそ関心の外にいるのである。」

「戦士は、いささかも心を動かさずに、何もしないということを、選ぶかもしれない。そして心を少しも動かさないことこそが。自分にとって大事なのだといわんばかりに、振る舞うかもしれない。そうした行ないもまた、彼の管理された愚かさであることから、当然しごくまっとうなものなのである。」

「並みの人間は、誰かを好きになったり、あるいは好きになられたりすることに、気をつかいすぎる。戦士は好きになる。それだけだ。誰であれ、なんであれ、戦士は欲しいものが好きになる。そこには理由などない。」

「戦士は、それがいかに些細なことであったとしても、自らの行動に責任をとる。並みの人間は、自分の考えたとおりの行動をやりとおすが、決して自分のやったことに責任をとらない。」

「並みの人間は、勝ち組か負け組かのどちらかで、それに応じて迫害者にもなれば、犠牲者にもなる。人が「見ない」かぎり、正反対のこのふたつの状況は、いつまでも続く。だから「見る」ことである。勝利とか、敗北とか、苦しみといった幻想は、それで消える。」

(「イクストランへの旅(『呪師に成る』)からの言葉」より)

「戦士には履歴は不要である。ある日、自分にはもうそれが必要ないことがわかったので、彼はそれを捨てた。」

「履歴は、自分のすることを、両親や親戚や友人に逐一伝えることで、常に改められ続けなくてはならない。反対に、履歴を持たない戦士にとっては、説明は一切必要ない。その人間の行ないにたいして、腹を立てる者もなければ、幻滅する者もない。とりわけ、おのれの勝手な考えや期待によって、彼を縛りつける者もいないのだ。」

「われわれが生まれ落ちたときから、人びとは、世界とはこうこうこういうもので、あそこはこうなってああなっているなどと、教え続けてくれている。だから自然に、人びとに教えられ続けら世界だけしか、われわれには選択する余地がなくなってしまっているのだ。

「戦士の技術とは、人間であることの恐ろしさと、人間であることの素晴らしさの、均衡を保つことにある。」

(「力の話(『未知の次元』)からの言葉」より)

「世界は、測りがたい。同様に、われわれも測りがたいし、この世界に存在するもののすべてが、測りがたい。」

「戦士たちは、壁に頭をぶつけることで、勝つわけではない。壁を超えることで、勝つ。戦士たちは壁を飛び越えるのだ。彼らが壁を粉砕することはない。」

(「力の第二の輪(『呪術の彼方へ』)からの言葉」より)

「「人型」とは、宇宙に存在するエネルギーの複合体のことであり、それはもっぱら「人間」とかかわりあっている。そうしたエネルギーの場は、生活の習慣や誤用によって、ねじまげられてしまっているから、シャーマンたちはあえてそれを「人型」と呼ぶ。」

「戦士は、自分が変われないことを知っている。だが、変わることができないことを知りつつも、あえて自ら変わろうと試みるのも戦士なのである。そしてはたせるかな変わることに失敗したときでも、しかし戦士は絶対に落胆などしない。戦士が並みの人間に、唯一勝っている点があるとすれば、そこである。」

「人間の世界は上がったり下がったりしていて、人びとはその世界と一緒に上下している。戦士たちは、同胞たちの上がったり下がったりに、いささかもつきあう必要はない。」

《カルロス・カスタネダの全著作(邦訳)》

◎『呪術師と私/ドン・ファンの教え』(真崎義博訳、二見書房、1972年)
◎『呪術の体験/分離したリアリティ』(真崎義博訳、二見書房、1973年)
◎『呪師に成る/イクストランへの旅』(真崎義博訳、二見書房、1974年)
◎『未知の次元/呪術師ドン・ファンとの対話』(名谷一郎訳、講談社、1979年)
◎『呪術の彼方へ/力の第二の環』(真崎義博訳、二見書房、1978年)
◎『呪術と夢見/イーグルの贈り物』(真崎義博訳、二見書房、1982年
◎『意識への回帰/内からの炎』(真崎義博訳、二見書房、1985年)
◎『沈黙の力/意識の処女地』(真崎義博訳、二見書房、1988年)
◎『夢見の技法-超意識への飛翔』(真崎義博訳、二見書房、1994年)
◎『呪術の実践/古代メキシコ・シャーマンの知恵』(結城山和夫訳、二見書房、1998年)
◎『時の輪/古代メキシコのシャーマンたちの生と死と宇宙への思索』(北山耕平訳、太田出版、2002年)
◎『無限の本質/呪術師との訣別』(結城山和夫訳、二見書房、2002年)

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