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広瀬 友紀『ことばと算数 その間違いにはワケがある』

☆mediopos2888  2022.10.14

間違うということはいいことだ
そのことでなにが間違いなのかを
意識化することができるからだ

さらにいえば
「間違い」とされていることの背景に
なにがあるのかを問うこともできる

本書『ことばと算数 』では
間違いとされる事例を通じて
算数とことばとの関係や
ことばという謎への問いが示唆されている

なぜ算数で間違うのか
その多くの原因は
数の世界で働いているルール(規則)が
理解できていないことからくるわけだが
理解できていないままに
「ことば」の世界で理解していることを
適用してしまっていることも多々あるようだ

しかし数や算数を教えるとき
「数の世界」にしか通用しない規則のように
いきなり抽象度の高いことを
そのまま教えるわけにはいかないので

まずはリンゴを3個買いました
もう5個買うと全部で何個になりますかといったように
買い物などで使う実用的な数として教えるのだろうが
そうした具体物を数えるということと
抽象度の高い「数」を扱うということとのあいだには
おそらく深くて暗い河が流れている

そしてその河をとくに苦もなく渡る人と
ずっとリンゴ○個の世界から離れられず渡れない人がいる

「数の世界」のなかにいるときは
抽象度の高い数の操作のために必要な規則(ルール)を
そこに適用する必要があることがわからないと
いわゆる「数学が苦手」ということになってしまいがちだ

しかし重要なのは
なぜその「河」が渡れないのか
その鍵/枷になっているものが何かを問い
そこから河を渡る方法を見つける
あるいは此岸と彼岸に共通するものと
異なっているものを見つけることなのだろう

学校のテストなどで正解するためには
そこでいったいなにが求められているのかという
いわばそこで「常識」化されているルールに沿った
「忖度」が必要だということもある
(わからないながら「そういうものなのだから
そういうものにしておこう」という忖度である)

そこには教えられているルール(規則)もあれば
「いわれなくてもわかっていてね」という
暗黙の前提というのがあるのだけれど
後者については教えてもらえないし
場合によっては先生に煙たがられることになる
(先生自身がわからないということも多々あるだろう)

たとえば「数とは何か」
「数えるということとはどういうことか」
そうしたことを小学校の先生に聞いても
まずは答えは返ってこないから
(たとえばリンゴ3個と数の3はどういう関係なのかとか)
無難にテストなどをこなすには「忖度」が必要だ
(そのときはまだ習っていないことも禁じ手になったりする)

個人的にいえば
「数」や「数式」は
姿を変えた「ことば」だと思っていて
その「ことば」の世界との違いがどうなのか
逆にいえば共通するところはどこなのか
といったことを考えていくのが面白い

じっさい「ことばと算数」で挙げられているような
こうした比較的単純な事例から
ひらけてくる問いは思いのほか深く広い
そこを旅するだけでもちょっとした冒険になる

■広瀬 友紀『ことばと算数 その間違いにはワケがある』
 (岩波科学ライブラリー 岩波書店 2022/7)

(「まえがき」より)

「私の息子は母をしのぐつまづきエリート。今春中学生になりましたが、小1から約6年間の百花繚乱解答を提供してくれています。加えてその他に巷で話題になっているエピソードや題材を通して、数と言葉の意外な共通点、あるいは似ているようで異なる点について考えてみましょう。正解から得られる情報より、間違いから得られる情報がいかに豊かなことか、きっとうなずいていただけると思います(だから我が子には正解して欲しくないのだ、とまで言うと嘘になりますが、不正解を喜べるというのは本当です)。数と言葉の関係のあり方は、時には子供にとって理解のヒントになり、時には逆に混乱を生みます。「算数に大切なのは国語力」とはよく言われますが、その通りの場合、または逆に「それで片付ければいいってもんじゃない場合」についても示唆が得られるはずです。」

(「第1章 カッコつけるのやめたら」より)

「うちは算数苦手な家系でして、母親似の息子(このとき症)はその日も順調にバツをいただいてきました。

18−10+5=3 ×
  11−5−4=10 ×」

「最初の問題18−10+5は、左から順番に、18から10を引いて、そこに5を足せば正解の13が導けます。つまり(18−10)+5。だけど、じゃあ、3はデタラメなのかと言えば、2つ目と3つ目の10+5を先にやって、それを18から引けばちゃんと3にもなります。それはどうして間違いなんだろう。
 次の問題11−5−4も同様に、左から順番に、11から5を引いて、そこからさらに4を引けば正解の2が得られます。(11−5)−4ですね。だけど、11−(5−4)、というように、5−4を先にやって、それを11から引けば10でもよくない? 左から順番に計算しないとどうして間違いになるのだろう?」

「数式記述のうえでの決まりごととしては「(×や÷は、+や−より先に。ただしカッコでくくられていたらそこを一番先に。)ただしカッコでくくられていたらそこを一番先に。)それ以外は左から順番に」とされています。ただ、この「それ以外は左から先に」という部分は、おそらく人間の定めたあくまで便宜上の決めごとであって、冒頭の問題に答えが本当は2つあるということ自体を打ち消すものではないでしょう。」

「迷子になった選手の愛犬 拡散に次ぐ拡散、最後には発見
 サッカーJ1大分トリニータのMF松本怜選手(31)の愛犬が22日、北海道室蘭市の実家付近で行方不明になった。(asahi com 2020.2.24より)

これを見てつい「サッカー選手が迷子になったんか? 大人なのに? どういう事態?」ってちょっとびっくりしたのですが、よく読んだら迷子になったのはワンちゃんのほうでした。
 こうした表現も、3つの要素のうちどの2つを先にまとめるか、という点で解釈が2つ生じている例です。「[迷子になった選手]の愛犬」なのか、「迷子になった[選手の愛犬]なのか、カッコでくくって違いを表せるところが先ほどの計算問題と共通していますね。」

「近年、言語のみならず、言語以外の認知領域においても類似した階層構造が見いだせること、ならばそれらの領域の間に共通した階層構造の表現形式やそれを処理する認知基盤があるのではないかということに、多くの研究者が関心を持っています。視覚的芸術、音楽そして数隙はいずれも階層構造を持つという点で言語と共通しています。」

(「第3章 正三角形は二等辺三角形に入るんですか問題」より)

「まさにタイトル通り、数学的な解釈と、言語ならではの語用論的解釈がいよいよ真っ向から異なってしまうという事象を取り上げます。」

「正三角形も二等辺三角形に入るという点については「漸次着目させる」ことによってやがて気づいてくれることが期待されているように見受けられるものの、最初からそのように説明することにはどうやら焼却的な姿勢が見てとれます。異なる名称が同じ対象物に当てはまる、つまり、ある三角形は、同時に正三角形であり二等辺三角形である、ということにより子供が混乱することへの配慮なのでしょうか。」

(「第5章 かける数とかけられる数は同じだった?」より)

「かける数とかけられる数はどう区別するのか。いわゆる「かけ算の順序問題」を巡り今でも熱い議論が続いています。そしてその陰でひっそり見逃されている問題が。そもそも「かける数」「かけられる数」っていう日本語はどう理解すればいいの?」

「日本語の構文構造、特にこうした関係節構造は、母語話者の統語的な知識のなかでも比較的複雑なほうに入るでしょう。主語を名詞とする関係節、間接目的語を主名詞とする関係節、直接目的語を主名詞とする関係節を大人と同じくらい処理ができて、「かけるシロップ」とも「(パンケーキに)かけられるシロップ」とも言えるじゃないか、ということに気づく傾向がもしあるのだとしたら……むしろこうした言語能力、そしてさらに言語知識を客観視できるほどの高度なメタ言語能力があるからこそ、「かける数」「かけられる数」「比べる量」「比べられる量」等の持つ曖昧性に混乱する場合も多々あるのではないか、というのがこの章で言いたかったことです。そう考えると、もしかしたら巷で言われている「算数は国語力」には、「その実、(鋭すぎる)国語力がアダ」的なパターンも隠れているのかもしれません。」

(「第6章 マイナスを引くと……とってもマイナス?)」より)

「「マイナスのマイナスはとってもマイナス?」「え、なぜプラスになるの?」と、今では忘れてしまったけれど私たちもかつてはきっと悩んだはず。ここでは個別言語の二重否定表現や、言語一般の再帰性とのつながりについていろいろ考えを巡らせてみました。」

「日本語で「ないものはない」と言うと、「ないったらない」という同語反復の意味にもなりますし、逆に「何でもある」という意味にもなりますが、後者の肯定強調の計算をマスターするのは一筋縄ではいかないのかもしれないなと「思わされた事例があります。

(小3のとき、クラスの誰がドッジボールが強いかという話をしていて)
息子「○○の球は、あたらないやつがいない!」
母「全員あたるん?」
息子「ちがうよ。1人はあたるってことだよ」
母「へー(それ絶対ちゃうし……)」

これは「あたるやつがいない、ってことはない==少なくとも誰か1人は当たる)」という肯定強調の趣旨での二重否定表現だったのかもしれず、しかしそれを意図していたのなら日本語としてはおかしいっちゃおかしいんですが(あたらないやつがいない≠あたるやつはいないってことはない)、彼の頭のなかで、彼なりの、「否定の否定は肯定」的な計算自体はされていたことになるのかと、今から考えたらほめてあげたいかも……「一理ないわけはない」と。」

「人間の言語における再帰性とう性質はとても大きな意味を持ちます。これは、ある構造操作の結果に、同じ構造操作を再度適用することができる、あるいはある構造単位が、その内部にそれと同じ構造単位を持つことができる、というふうに、有限の性質を持つ決まりを無限にくり返すことを許す性質です。
 前者と後者は本質的には共通した性質ですが、例えばわかりやすい前者の例としては、名詞と名詞で複合語(より大きな名詞)を作ることができる、そしたらそのできあがった名詞とまた別の名詞を……をくり返してものすごく長い複合語を作ることもできます(東京特許許可局職員代表委員会委員長杯←適当に作ってみました)し、理屈上ではこれは無限に長くすることもできるはずです。
 そして後者の例が、自己埋め込みによる入れ子構造です。「夢を見た夢を見た夢を見た夢を見た……」はただ同じフレーズを連呼しているのではなく。ある夢の内容としてそのなかで夢を見ていて……という内包関係がマトリョーシカのようにくり返されているという解釈ができますよね。
 この再帰性は、人間の言語の普遍的(つまり言語共通の)性質であること。そして、その再帰性を持つことが、他の生きもののコミュニケーションと比較しての人間の言語の重要な特性であること。そうした前提のもと、人間は進化の過程でどのように再帰性を扱う能力を獲得したのか。これらの問題は引き続き多くの科学者の興味を集め、熱い議論の対象となっています。」

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