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石井美保『たまふりの人類学』

☆mediopos2932  2022.11.27

「たまふり」のように
ほんらいひとのたましいは
じぶんだけに閉じてはいない

けれどじぶんだけに閉じていると
たましいは一方向的であり
他者に向かって開かれるとき
たましいは双方向的である

それは接触に関する二つの動詞
「さわる」と「ふれる」の
違いにも表れている

「(〜に)さわる」は一方向的で
「対象に作用をおよぼす行為者の
意志とその遂行力」であり
それは能動的なありようだが

「(〜に)ふれる」は双方向的で
「ある瞬間に生起する出来事と
その経験が表現されている」ように
中動態的なありようである

たましいをひらくためには
「明確な境界をもった
近代的な主体とは異なる人間像」ではなく
「憑依やアニミズム」にみられるように
「他者や人間ならざるものと浸透しあうような
流動的な人のありよう」のなかにおける〈個〉
としての〈わたし〉である必要がある

それは決して「他」になるというのではなく
「果てしのない「われ」に呑みこまれるのでもなく、
どこかに冴えたまなざしを保って居る」ということだ

近代的自我は
「さわる」ことはできても
「ふれる」ことのできない「われ」である
そこでは「他者」は対象でしかない

しかし人間を「間」の存在としてとらえるとき
「われ」は「汝」になることはないとしても
その「間」において「震えている」〈個〉として
中動態的にひらかれることは可能ではないか

■石井美保『たまふりの人類学』
 (青土社 2022/11)

(「たまふりとふるえ」より)

「「たまふり」という言葉に秘められているはずのなにか。そのことを再び考えるようになったのは、たまたま目にした新聞のコラムがきっかけだった。「『接触』の機微にふれて」と題されたコラムで、美学者の伊藤亜紗は「さわる」と「ふれる」の違いについてつぎのように書いている。

  日本語には接触に関する二つの動詞がある。「さわる」と「ふれる」である。普段あまり意識しないが、私たちは無意識のうちにこれらの動詞を使い分けている。
  ひとことで言えば、両者の違いは、接触するときの態度にある。「さわる」は一方的なのに対して、「ふれる」は双方向的なものだ。

 たとえば、傷口に「さわる」は痛そうだけれど、「ふれる」はそうではない。なぜなら後者は、ふれる側の一方的な行為ではなく、ふれる側とふれられる側の感情的な交流や双方向的な出会いを表しているからだ。
 明瞭な説明に納得すると同時に、かすかなとまどいを覚える。「たまふり」という言葉を耳にした時の、あの影がまたよぎったような気がする。

 ふり ふる ふれる。
 何かが見えてきそうなときは、ひとつずつ順を追って考えてみるほかない。
 「(〜を)さわる」という言葉において表されているのは、対象に作用をおよぼす行為者の意志とその遂行力であるだろう。それに対して、「(〜に)ふれる」という言葉では、ある瞬間に生起する出来事とその経験が表現されている。このとき焦点化されているのは、行為者自身の意図や行いというよりも、ふとした偶然のはたらきである。つと相手にふれる、外気にふれる。たまたま手にふれ、目にふれる。ふれる者はそのことに注意を向けていないわけではないけれども、「ふれること」は自分の意志や意図にかかわらず、不意に生起してしまう。
 「ふれる」という言葉が表現しているのは、このように、主体の意図によらず生じる出来事である。とすれば、それは能動態よりも中動態として捉えられるべきなのかもしれない。」

「なにかにそっとふれようとするとき、私は集中していながらも自分をいくぶんか手放している。相手のふるえを感じとりながら、自分のふるえをその波動に同期させようとするような、それは所作であるのかもしれない。ふるえながら相手にふれ、相手のふるえに感応し、ともに振動しつづける。その場に生起するふるえと共振は、風や波のように周囲に伝わり、ざわざわと波及していく。」

(「羽をもつもの」より)

「倫理に関する人類学的研究を牽引してきた医療人類学者のシェリル・マティングリーは、慢性的な疾患や障害を抱えた子どもをもつアフリカ系アメリカ人の家族を対象として調和を行ってきた。貧困と差別、子どもの病気や死といった複合的な困難の中にありながら、それでも最善の道を模索しつづける母親たちの試行錯誤を、彼女は旅になぞらえられるような一人称的な物語として描く。
 このように、苦難の中にある当事者の一人称的な視点を重視し、そこに現れる倫理をすくいとろうとするマティングリーの記述に対して、インドに出自をもつ人類学者であるヴィーナ・ダスは疑問を投げかける。マティングリーが前提としているような、一人称・二人称・三人称という人称の三分法は、はたして普遍的なものなのか。この三分法を前提とした上で、一人称である「私」の視点を中心化することによって、みえなくなってしまうものがあるのではないか。
 こうした問いかけによってダスが光を当てようとするのは人称の流動性であり、たとえばわたしが「私」と発話したときの、その内容の非自明性や重層性である。演劇や憑依儀礼などの場面で顕著に見られるように、ある発話において「私」という代名詞が表しているのは発話者本人ではなく。別の誰かでもありうる。「私」が語りだすとき、そこには無数の他者が含まれている。そのとき、「一人称の物語」とは、いったい誰の物語だといえるのだろうか。
 苦難の中にありながらも善き生を探求する「私」の紡ぎ出す物語に着眼するマティングリーに対して、ダスが提示するのは唯一の「私」に統合されることなく、語りや行為の文脈に応じて彼我がいれかわり、揺れ動くような人称のありかたである。それは、この「私」を中心とする物語の生成に向かうというよりも、むしろ個としての自己のありようが曖昧になってゆくような、なりかわりの契機を指し示すものだ。他者になりかわるシャマンや憑坐の経験についてしばしば指摘されてきたような、それは実存の危機であり、だからこそ人は変身の瞬間にあってなお、みずからの境界と再帰性を辛くも維持する必要に迫られる。」

「憑依やアニミズムをテーマとする人類学的研究はしばしば、明確な境界をもった近代的な主体とは異なる人間像として、他者や人間ならざるものと浸透しあうような流動的な人のありようを描き、その未知なる可能性を提示してきた。けれどもそうした境界の不分明さ、自他の混じりあいやいれかわりが彼岸のものではなく私たちの身にも起こりうることを知ったとき、そうした生のありさまを礼讃するばかりではなく、どうすればその中でなお〈個〉なるものが維持されうるのかを考えなくてはならないだろう。鳥や獣になりかわりながらも、シャマンがみずからの意識を鋭敏にたたらかせているように。魔物に魅入れられた狩人が、言葉を発することでようやく自分をとりもどすように。
 他なるものに完全になりかわるのではなく、果てしのない「われ」に呑みこまれるのでもなく、どこかに冴えたまなざしを保って居る。それはでも、己の物語を生き抜く主人公としての自意識ではなく、彼我のめくるめく交錯の中に巻き込まれながらも独自のかたちをもって震えている、個としての〈わたし〉であるだろう。そのぎりぎりの、切羽詰まった変身への予感と畏れ、静けさと高揚感。

  人間のゐない所へ飛んでゆきさうな不安にじつと向き合つてゐる 石牟礼道子」

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