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森本恭正×南博『音楽の黙示録/クラシックとジャズの対話』

☆mediopos-2436  2021.7.18

『音楽の黙示録』は
権威だらけの音楽の世界への
リゼントメント(憤激)であるとともに
音楽の生きた現場での
格闘のなかからしか生まれない
生みの苦しみゆえの叫びでもあるだろう

「音楽の世界に蔓延する
権威と常識を問いなおす」とあるが

南博が「一定数の方々は、不愉快な思いをし、
お怒りになるかもしれません」としているのは
「権威」を信じて疑わない方だろうし
「俎上に挙げられたさまざまな事象とその論考に瞠目し、
心の裡で喝采してくださる方々」というのは
「権威」に盲従せず創造的な自由を求める方のことだろう

ここで問われていることは
音楽の世界のことではあるが
もちろん音楽の世界を越えたところでの
「黙示録」ともなっている

権威には
権威なりの理由があり
またその歴史があるが
その理由も歴史も理解しないまま
それに「刷り込み」された状態で
権威のヒエラルキーのなかに自らを位置づけると
その権威の外に出ることはできなくなる
それは特定の宗教を信仰することで
それ以外の霊性を受容できなくなるようなものだ

森本恭正がアドルノの面白い事例を挙げている
アドルノはナチに加担し
ジャズ音楽を俗悪で低俗な音楽と論じたことがあったが
それがみずから製作したFスケール(ファシズムのF)
における権威主義的パーソナリティだということを
自省することができなかったようだ
要はみずからの依拠する認識範囲からしか
批判的であることができなかったということである

ある権威を疑ってもみないとき
人はそれを自明のものとし
意識的にそれに対することができなくなる
権威に依った状態がみずからの存在理由になるように

現代の権威の典型は
メディアであり科学(主義)だろう
メディア・リテラシーということがいわれるが
それはメディアで流された情報を
そのまま理解することではなく
それを批判的に検証するということだ

科学(主義)についても同様で
専門家としての科学者の言うことを信じるのが
科学的な態度なのではない
科学者のバイアスやその背景にある経済や政治もふまえ
その言動を批判的に検証する眼をもつということだ

さて本書は森本恭正いわく 
「何の根拠もない「矩」をこしらえた、
何か大きな力に対するリゼントメント(憤激)」だそうだが
むしろそのリゼントメントの向こうには
音楽への深い愛情が広がっている
愛情ゆえに批判も非常に厳しい

「音楽の黙示録」は
権威を十字架につけることで
音楽を「復活」させる試みだともいえる

■森本恭正×南博
『音楽の黙示録/クラシックとジャズの対話』
 (アルテスパブリッシング/2021/7)

(南博)

「黙示録というタイトルをご覧になれば、すぐに思い起こすこととして、七つのキリストの言葉、ヨハネの二十一章にわたる神への祈りと、それに伴う艱難辛苦があります。神にこれでもかと痛みつけられてさえ、ヨハネは神を捨てなかった。我々も音楽に艱難辛苦し、格闘してなお、その言葉から不思議な恩恵を与えられています。」
「本書では今まで「YES」という答えしか与えられてこなかった今日の二ホン音楽におけるさまざまな事象に対して、静かに、しかし明白に、「NO」を突きつけています。森本氏の論考は、二ホン音楽の当たり前を根底から見直し、徹底的にそして熱く語りかけます。それは二ホン音楽界に存在する、目に見えぬ差別、嘘、根拠のない高慢に悩み憤ってきた私を慰め、そして励ましてきました。その論考に私が一不良紳士として対話を挟んでゆくのが本書の仕様となっています。私の答えから、さらなる問いかけが読者のなかに拡がり、私の中の「NO」を読者と共有できることを願っています。
 読者の何割かは最後の章まで読破するでしょう。そのうち一定数の方々は、不愉快な思いをし、お怒りになるかもしれません。が、一方で、俎上に挙げられたさまざまな事象と論考に瞠目し、心の裡で喝采してくださる方々もいるはずです。ジャンルを異にする二人の音楽家が、二ホン音楽界に一石を投じるべく綴った「音楽の黙示録」として、お目を汚していただければ本望です。そして日本の音楽が固定概念の枠を超え、新たに自由な芸術表現に向かうことを願っています。」

(森本恭正)
「生まれて初めて見た動くものを、親だと思い込んでしまう。これを動物行動学では「刷り込み」というらしい。人間も生まれて初めての音楽体験に相当支配される。そしてそこからは、かなり苦労しないと抜けられない、というより抜け出そうという強い意志がなければ、わけのわからない対象を、母親と思ってずっとついて歩くことになる。それでもいいという人々はT・W・アドルノらが製作したFスケール(FはファシズムのFだろう)でいうところの、権威主義的パーソナリティに属するのかもしれない。つまり目の前にいる権威には盲目的に従う。そのアドルノは、リベラルな言動で知られる社会学者、哲学者だが、彼の著作、『新音楽の哲学』(一九四九)や『不協和音』(一九五六)や『音楽社会学序説』(一九六二)は、今でも、音楽学を学ぶ学生の必読書とされている。何十年も前に私も読んだ。その後、ずっと経ってから、彼が、一九三三年、ナチス政権が資金の大部分を援助し始めた『ヨーロッパ・レヴュー』誌に寄稿し、ジャズ音楽を俗悪で取るに足りない音楽であると書いていることを知った。だからナチス政権が黒人の演奏するジャズを禁止したところで、低俗な音楽がひとつ消えただけで、問題は些末であるとも。アドルノは自らをFスケールで測定したことがあるのだろうか。
 ジャズ・プレイヤーはここまでコケにされてなぜ黙っていたのか。それはたぶん両者に接点がないからだろう。ジャズ・プレイヤーはそもそも論文など読まないし、アドルノはコード・シンボルが読めない。しかしお互いそれで良いと思っているのだ。アドルノにしてみれば、ジャズのカンピング(バッキング)なんかできなくても、高尚で高貴なクラシック音楽の世界での立ち位置は微動だにしない。ジャズ・プレイヤーにいたっては「Adorno?who cares!」である。アドルノのナチ加担を別にすれば、この状況は、どちらも喜劇だ。
 夥しいレコードやCDを聴いて、バッハやベートーヴェンを理解したと思っている人は多い。あるいは、クラシック音楽しか聴かずに、それ以外の音楽をまとめてゴミ箱に放り込んで平然としているような評論家もいる。だが、彼らの多くが自信のよりどころとして聴いているのは、バッハやベートーヴェンの作品を演奏した、演奏家の音楽である。作曲家が言いたかったことは、作曲家が残した譜面にしか残っていないのだ。それを自分で読まないで(弾かないで)どうやって理解するのだろう? これは喜劇なのか悲劇なのか……。」

(「第9章 音楽と権威」より)

(森本恭正)
「ヒトは権威が好きだ。そして、その権威に対して高い親和性をもっているのが西洋音楽である。そもそも、九~一〇世紀頃に生まれたグレゴリオ聖歌がその胎芽なのだから、西洋音楽はローマ・カトリック教会という一大権威の中から生まれてきたのだ。権威との親密さはその出自からして抗いようがない。手を結ぶ権威は教会から貴族へ、貴族から資本家へ、そして資本家からメディアへと移っていった。」
「奏者や作者に、何の根拠もない浅薄な惹句や独断のレッテルを貼っても、どこからも苦情が来ないのをいいことに、「しんぶんがみ」の記者は気ままな思い込みと、周りの評判への忖度をないまぜにして、主観で記事を書く。そして何の検証もなされない。こうして、メディアの発する記事は、もともと権威の中から生まれた西洋音楽にさらに権威の布をまとわせる。
 そんな情報をさんざん振りかけられた現代の聴き手は、メディアから発せられたニュース漬けになって法廷に座っている陪審員のようなもので、もはや客観的な判断などできない。対象に対する洞察も分析も批判も不可能なまま、メディアが対象に与えた「権威」を無意識に丸呑みするほかないのだ。今聴いている音楽が真実素晴らしいものなのか、感動している自分は本当にその音楽だけを聴いて感動しているのか、あるいは、聴いている音楽にまとわりついている「しんぶんがみ」の記者や評論家が書いた記事を読んで、「感動」したつもりになっているだけなのか、もうわからない。」
何かを隠蔽して、もしくは物事の一面しか示さずに、大衆をある種の権威へと向けて扇動する。これはポピュリストの常套手段ではないだろうか。ポピュリストにとって嘘は大きいほどよいという。」

(南博)
「音楽と権威、これは難しい課題です。二一世紀の今になっても、巷ではやはりクラシック音楽のほうが、ジャズ、ポップスより高級で威厳があるものと思う人が多く、権威としての社会的認知度が高いのはなぜでしょうか・そこには、ジャズ、ポップスよりもクラシックのほうに特別な威光があると、人々の意識に根づいている何かがあることも否定できない事実でしょう。」
「かくいう私も、音楽高校時代にジャズ・ピアノこそが自分のやりたい音楽だと見きわめて以来、学校のクラシック・ピアノの先生と上手く行かなくなり、エスカレーター式に行けるはずだった付属の音楽大学に行くチャンスも逃し、めでたくキャバレーのピアニストとしてデビューしたのです。そこでは演歌から、カントリー&ウェスタン、歌謡曲、ラテン、ヌード・ダンサーの伴奏、コメディアンのコントの間に入れる効果音など、あらゆる音楽をこなせなければ即、分厚い譜面でバンド・マスターに頭をぶっ叩かれるという、今から考えれば稀有な体験をしたのです。当時の私は、自分はそうとう理不尽な思いをしていると悲観的でしたが、今思うと、あらゆるジャンルの音楽に触れる機会に恵まれて、音楽そのものに対する見識がものすごく広がったと、感謝しているくらいです。キャバレーこそが私にとって最高の音楽学校だったのです。
 ジャズの起源で触れましたが、ジャズを習得するうえで、クラシックの知識、記譜法、音楽理論を抜かしては、特に現代において、基礎を修めることはできません。なぜならば、もともと扱っている楽器自体、ヨーロッパで発明され発展し、用いられてきたものだからです。だからこそ、私のみならず、数々のジャズ・ミュージシャンの演奏仲間が、クラシックも聴き込み、音楽理論にもひじょうに精通しています。」
{どうしてこんなことを長々と書き連ねているかというと、不思議なことに、クラシックの演奏家の大半は、あまりにも他の音楽に対する知識、興味が著しく欠乏している----つまり聴いていないのです。ここで音楽と権威という今回の回の題と話が重なるのですが、どうして、音楽大学はさわりだけでもよいので、ジャズ、ポップスの成り立ちと歴史を教えないのでしょうか。ジャズには、ラヴェルのハーモニーからたくさんの借用が見られます。そういう発見や楽しさをクラシックの演奏家と共有したいのです。また、私の知る限りですが、クラシックの演奏家は音楽理論に疎い人があまりにも多い。これは日本だけの事象かもしれませんが、私の憶測では、ジャズ、ポップスの成り立ちに触れないからでしょう。音楽史においても、ジョージ・ガーシュインを、クラシックとジャズを融合させた作曲家と教えますが、あれはリズムがクレズマーです。ブルーズ、ジャズとはハーモニーが少し似ているだけです。」
「いわんや、ブルー・ノート・スケールが弾ける、譜面に記してあるからという理由のみでは、ブルーズは演奏できません。そういう間違った教育を西洋音楽史でも犯していること自体、ジャズ、ポップスに対する無知と偏見と誤解が、ある種のヒエラルキーを産んでいるのではないでしょうか。」
「近い将来。音楽と権威という概念が、あらゆる意味と普遍性において、同列に扱われなくなることを願ってやみません。森本氏の言うように、音楽そのものを、その権威とやらで犠牲にしてはなりません。
 どんな種類であれ、良い音楽は良い(Good music is good no matter kind of music it is)。----Miles Davis」

(「第13章 音楽と農業」より)

(森本恭正)
「ずいぶんと長い間、恐らく紀元前から起源一六〇〇年頃までの間、ヨーロッパでもアジアでも、人間は音楽を作るうえで、旋法といわれる五つから七つの音の組み合わせしかもたなかった。そこにとつぜん出現したのが、長調と短調によるいわゆるドレミの音階である。ヨーロッパで一〇〇〇年以上続いた旋法の音楽は、バロック音楽が始まる一六〇〇年頃を境に、まるで何かに吹き飛ばされたかのように一気になくなる。その後二〇世紀に入るまで、旋法を使って曲を残した作曲家はひとりもいなかった。なぜか。それまでの旋法による音楽に比べて、長調と短調による音階の音楽は、音階を取り入れたことによって、音楽における人口の度合いが増し、表現の幅が格段に大きくなったからだ。あるいは、こういってもいい、音楽をより人工的につくりやすくなった。」
「音階を構成するドレミの音は、その振動比率が整数の倍音でできている。(…)しかしこのような音程の構成は自然界にはほぼない。ドとソの音が自然界で鳴っていることなど、人間が石ころを削って人工的に調整でもしない限りあり得ない。少なくとも私は聞いたことがない。(…)私たちを取り巻く音楽以外、自然界のほとんどすべての音は(…)整数の倍音で構成されず、輻輳した非整数の倍音によって構成されている。それらは、西洋音楽的に見れば(聴けば)ノイズだ。自然はノイズに溢れているといっていい。ここで、西洋音楽的にと断ったのは、欧米人は押しなべて虫の音をはじめとする自然界の音をノイズという一語で括ってしまう傾向にあるからだが、翻って日本人には、自然界の音ノイズ(雑音)と呼ぶ認識は低い。」
「しかし、(…)音が自然の中に溶け込んでしまっては、まったく西洋音楽にならない。西洋音楽は、あくまで自然と拮抗していなければならないからだ。そしてそれは、バロック、古典、ロマン派、近代と、より複雑に人工的な拡大を続けたのち、ついにドレミの音階を手放すときが来る。それがオクターヴにある十二の音を、短調や長調にとらわれることなく使った十二音音階による音楽(十二音音楽)である。」

(「第14章 音楽と軍隊とヒエラルキー」より)

(森本恭正)
「戦争は軍隊なくしては遂行できない。そして、西洋音楽と軍隊の関係については、日本でも、さまざまに述べられてきた。事実、今でもほとんどの軍隊には軍楽隊があり、そこで奏でられる音楽は例外なく西洋音楽である。」
「ヨーロッパ音楽が軍隊との関係を深めたのは、バロック音楽以降だ。ヨーロッパはそれまでの数百年間も、戦争と略奪に明け暮れていたが、その戦いの跡に、中世ルネサンス音楽の影は薄い。」
「オーケストラ、これも中世ルネサンスにはなかった演奏形態だが、まずその頂点に指揮者がいる。指揮者の命令は絶対だ。その支配下にある演奏家たちはけっして逆らえない。(…)少なくとも制度上はそうだ。(…)オーケストラ内部にも階級がある。上位下達が基本。」
「オーケストラの、この命令に従うという性格は軍隊そのものだといってもよいのではないだろうか。命令への盲従。この特徴は、バロック音楽以降その完成度を高めてゆく楽譜という、西洋音楽に特有な、演奏家と作曲家をつなるコミュニケーション・ツールにも、その非民主的な影を落としている。」

(森本恭正「Bostonの一夜 あとがきにかえて」より) 
「本書で、私が書いてきた領域は多岐にわたっている。音楽家の矩(のり)を踰(こ)えていると思う方が大半だろう。だが、私が書きたかったことは、まさに、そうした実は何の根拠もない「矩」をこしらえた、何か大きな力に対するリゼントメント(憤激)である。」

○本書全18章の各テーマ

「音楽と男」「音楽の嘘」「音楽と自然と人工」「音楽と映画」「体が聴く音楽」「音楽と無知」「音楽と脳」「音楽と言葉」「音楽と権威」「音楽と音楽評論」「音楽と欲望」「音楽とAIと創造」「音楽と農業」「音楽と軍隊とヒエラルキー」「音楽と効率」「音楽と政治」「音楽と日本」「音楽と女」


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