千早耿一郎『悪文の構造————機能的な文章とは』
☆mediopos3619(2024.10.16.)
前回(昨日)はそれまで意味を作り出していた分節が
その自明性を失った「ゲシュタルト崩壊」と
そこから出発する禅の言語についてとりあげた
「言語はもともと無限定的な存在を
様々に限定してものを作り出し、ものを固定化する」
つまり「意味の実体化」を行うもので
その意味作用を失えば言語は「死物と化す」・・・
今回はそれとは対照的な
「意味の実体化」を積極的に行うともいえる
文章を書く技術に関する本
千早耿一郎『悪文の構造』をとりあげる
副題に「機能的な文章とは」とあるが
解説(石黒圭「「悪文」に名著が多い理由」)にもあるように
本書の目的は「センテンスを書いたとき、
その構造が一つの意味でしか解釈できないように、
頑強に書くこと」であり
「逆から見れば、一義的に解釈できる頑強な文を書くうえで
必要な条件を残らず挙げて論じ」られている
「一文一義」に文章の機能美を見出しているのである
「悪文の構造」という題の「悪文」とは
それに反するあらゆる要素である
著者は言葉には
「事実や意思を伝達する働き」と
「感情を表す働き。あるいは、相手の感性に訴える働き」があり
「ほとんどすべての言葉は————ゆえにほとんどすべての文章は
————これら二つの働きを合わせ持つ」という
文書を読んでいて「分かる」というのは
「書かれている事実が分かる」という「伝達の働き」が機能し
「作者の意図したことが分かる」という
主に「感化の働き」が「伝達」のほかに機能なければならないが
さらには「文学作品などを真に理解する」ためには
「作者の意図しなかったもの
————だが潜在意識において意図したもの————」が
「分かる」必要がある
本書ではこうした
意識的か無意識的かにかかわらず
「文学作品」に隠された意図を
いかに「分かる」かについては特に論じられてはいない
論じられているのはあくまでも「文章の機能美」である
「洗練された、機能的な文章とは、なにか。
わたくしは、ここで工学の理論を応用したいと思う」
と述べられてもいるように
長文を避けることや結論を先に述べること
必要な主語を省略しないことや接続詞を濫用しないこと
そしてやさしい言葉を使うことなど
主に「伝達の働き」を有効にし
「悪文」を避けるための文書作成術である
読みすすめていくと
じぶんがいかに「悪文」ばかりを書いているか
反省させられることしきりで
「伝達」を目的とする文章を書く際にはずいぶんと参考になり
基本的な文章作成術としては必須だろうが
「伝達」を目的とせず
どちらかといえば「意味の実体化」を
可能な限りすり抜けていきたいときには
別の観点での言語機能へのアプローチに惹かれる
それはある意味では「悪文」でさえなく
「非文」「脱文」とでもいえるかもしれないのだが・・・
■千早耿一郎『悪文の構造————機能的な文章とは』(ちくま学芸文庫 2024/10)
**(「1、機能的な文章とは」より)
*「言葉には二つの働きがある。
第一は、事実や意思を伝達する働き。」
「第二は、感情を表す働き。あるいは、相手の感性に訴える働き、といってもよい。」
「ほとんどすべての言葉は————ゆえにほとんどすべての文章は————これら二つの働きを合わせ持つ。」
*「文章を読んでいて、「分かる」とか「分からない」とかいう。「分かる」とは、どういうことか。「分かる」ことには、三つの段階が考えられる。
第一は、書かれている事実が分かる、ということ。ここでは、「伝達の働き」が機能する。
第二は、作者の意図したことが分かる、ということ。この段階では、「伝達の働き」も機能するが、これに重なって「感化の働き」が機能しなければならないこともある。
第三は、作者の意図しなかったもの————だが潜在意識において意図したもの————が分かる、ということである。
文学作品などを真に理解する、ということは、第三の段階にまで到らねばならない。」
**(「2、日本語文の構造」より)
*「日本語の文は、論理の面で欠陥の多いもののように思われるかもしれない。たしかに欠点はあるが、一方でヨーロッパ語にみられないような融通性もある。融通性があるということは、長所でもある。また、係る語と係られる語との間が長くなりやすい、というような欠点は、その欠点を知ることにより容易に克服できるものである。」
「文章を読んでいて、書いてあることの内容が理解できないことがある。」
「単語の意味の分からないのはまだいい。辞書を引いたり、人に聞いたりすればよいからである。構文のまずさのためになにを言っているのか分からないのでは、絶望的に困惑するであろう。」
**(「3、長文は悪文」より)
*「簡潔な文章というよき、二つの意味がある。第一は、文章全体を短く簡潔にすること。第二派、個々の文章を短く簡潔にすること。いまわたくしは、主として文の簡潔さということについて述べていくことにする。個々の文を簡潔にすることができなければ、文章全体を簡潔にすることは、とうていできないであろう。」
**(「4、短いことはいいことだ」より)
*「文が長い、ということは、とりわけ日本語の場合、悪い結果を生むことになりかねない。もちろん長い文章を書く人にも、すぐれた文章家はいる。」
「とはいえ、構造のしっかりした長文を書くことは、なみたいていの努力ではできない。それに、どちらかといえば、短文の方が読みやすいに決まっている。(・・・)ただ漫然と長文を書くのでは、ろくな結果を生まないであろう。とりわけ「伝達の働き」を重視しなければならない文章では、長文になることを警戒した方がよい。」
**(「5、なにが主格か」より)
*「必要な主語をサボってはいけない。」
**(「6、述語は基幹である」より)
*「主語には、これに対応する述語がなければならない。述語を忘れないためには、二つの方法があった。第一は、なるべく早くしめくくること(短文化)。第二は、箇条書き。
第三の方法がある。主語を書かないことである。(・・・)不必要な主語ないし題目語のある文章は、けっこう多い。不必要なものは、躊躇することなく切り捨てるがよい。」
**(「7、なにを修飾するか」より)
*「修飾語はなにかを修飾する。連体修飾語は体言を、連用修飾語は用言を。修飾語がなにを修飾するのか分からないでは、読者が困惑する。」
**(「12、この漠然たるもの――「が」を濫用するな――」より)
*「「が」は安易に使うべきではない。単に句と句をつなげ、長文にするために使う、というようなことをしてはならない。それは、作者の意図を不明確にするばかりだ。もしかしたら、自分の意思や意図の不明確さをごまかすために、「が」を使うのではないか、と思われるばかりだ。」
**(「13、切れ目を示せ――読者のための句読点――」より)
*「原則の第一。題目語を形成する助詞「は」の次には、原則として読点を打つ方がよい。」
「原則の第二。係る語と係られる語とが接近しているときは、原則としてその間に読点を打たない方がよい。」
「原則の第三。係る語と係られる語との間が相当に隔たっているときは、係る語のあとに読点を打つのがよい。」
「原則の第四。題目語が二つあるときは、最初の「題目語+叙述」のあとに————接続の助詞が続くときはそのあとに————読点を打つのがよい。」
「原則の第五。中止形のあとには、読点を打った方がよいことが多い。」
「原則の第六。文頭の接続詞、あるいは接続の役目を持つ語————「このため「かくして」————などのあとには、読点を打った方がよい。」
「原則の第七。文中に完成された小文が含まれる場合は、その小文の直後に読点を打つのがよい。」
「原則の第八。以上の原則のうちでも、大きな切れ目を示す読点は、とりわけ欠かすことができない。より小さな切れ目を示す読点は、状況に王位JT絵省略してもよい。ないしは。省略した方がよい。」
**(「14、正しく伝える努力」より)
*「いままで、わたくしは、機能的な文章とはどういうものか、ということを追求してきた。そのために用意したのは、「工学の理論」であった。そしてまた。機能的な文章を書くためには、作者を内から支えるもの————読者に対する親切心————がなければならない、ということも。あわせて述べてきた。
以下「17、文と人間」までは、とくに「読者に対する親切」という観点から考えてみることとしよう。その場合でも、おのずから「文章の機能性」ということに帰着するであろう。」
**(「15、曖昧な表現」より)
*「イエスかノーか、というようなことがはっきりしない文章も、親切であるとは言えない。」
**(「16、表現の過不足」より)
*「過剰な表現は、無用であるだけでなく、有害でさえある。とはいっても、表現の不足もまた読者に迷惑をかけることが多い。」
「いうまでもなく、舌ったらずと省略とはちがう。省略できないものをあえて書かないのは、作者の怠慢であり、読者に対する不親切である。」
**(「17、文と人間」より)
*「文章は、人の〝心と心と〟をつなぐ「かけ橋」である。「かけ橋」をつくるために、作者は言葉を選ぶ。まさにそれでなければならない、という語を選ぶことが、本当の文章を書くことである。」
**(「18、文章のリズム」より)
*「文章における「遊び」は、多くの場合「感化の働き」に役立つ。「感化の働き」が機能することにより、よりよく「伝達の働き」も機能することになるだろう。
リズムもまた、その意味で、文章における「遊び」の一つといえようか。リズムのある文章は、リズムのない文章よりも、ずっと読みやすい。」
**(「19、機能的なものこそ美しい」より)
*「やさしい言葉を選び、単純な語法を使いながら、その作者でなければ掛けない、個性ある文章を書くことはできる。(・・・)詩人や小説家に限らない、文章を書くものは、だれもが、自分の自由と責任において、自分自身の文章を書くべきである。それが「文章の機能性」ということと矛盾するものでないことは、いうまでもない。」
**(解説 石黒圭「「悪文」に名著が多い理由」より)
*「『名文を簡単に書く技術』と『悪文を丁寧に直す技術』、どちらの本を書店で手に取るだろうか。まず手が伸びるのは『名文を簡単に書く技術』ではないだろうか。この本があれば、名文が書けそうな気がするからである。
しかし、『名文を簡単に書く技術』を手に、レジに並ぶまえに考えたい。読者をうならせる名文なんてそんなに簡単に書けるものだろうか。自分の実力を省みたとき、基礎が満足にできていない自分に、すぐに名文など書けないことは、冷静な頭で考えればすぐにわかるはずである。きちんとした文章の書き方を身につけたいなら、急がば回れで、『悪文を丁寧に直す技術』を手元におき、地道な方法をじっくり学ぶべきなのではないだろうか。
事実、書店に並ぶ文章の指南書を見直すと、悪文と名の付く本に名著が多い。
岩淵悦太郎編(1961)『悪文』日本評論社
永野賢(1969)『悪文の自己診断と治療の実際』至文堂
中村明(1995)『悪文』筑摩書房
とくに、岩淵悦太郎編の『悪文』は隠れたベストセラーで、第三版が1979年に刊行されているほか、角川ソフィア文庫にも収録されている。また、評者の大学院時代の指導教員であった中村明先生の『悪文』はちくま新書から刊行され、現在ではちくま学芸文庫に収録されている。
じつは、この三冊には共通点がある。執筆者がいずれも評者の勤務する国立国語研究所の関係者だという点である。岩淵悦太郎先生は国立国語研究所の第二代の所長で、岩淵悦太郎編の『悪文』の執筆者の多くは国立国語研究所の当時の研究員である。また、永野賢先生は国立国語研究所の創設に関わった作家・山本有三の娘婿であり、やはり国立国語研究所の研究員だった方である。さらに、中村明先生も最終的には早稲田大学名誉教授であるが、もともとは国立国語研究所の所員であった。
国立国語研究所の所員の書く文章指南書の特徴は高い実用性にある。所員は年中、日本語という言語に向きあっているので、抽象論で書くことはせず、かならず例文を出し、それに基づいて議論を進める癖がついている。このため、高い実用性を有するのである。」
*「名文は定義が難しい。どのような文章が名文かは、読み手の主観によって異なると考えられる。一方、悪文は定義が易しい。どのような文章が悪文かは、簡単に決めることができる。読んでいて不正確な文章、わかりにくい文章が悪文だからである。
文章を書くコツは、じつは名文を書くことではない。悪文を書かないことである。悪文さえ書かなければ、書かれた文章は社会で通用する。名文として評価されるかどうかまではわからないが、少なくとも実用には供するのである。名文は芸術であり、悪文は技術である。私たちが学校で、また社会で学ぶべきは、芸術的な文章の書き方ではなく、正確でわかりやすい文章を書く技術である。」
*「本書、『悪文の構造』は1979年に木耳社から出版されたもので、まさに悪文を避ける技術について書かれた本である。」
「上記の三冊とは異なり、国立国語研究所の所員のような日本語の研究者によって書かれたものではない。しかし、本書をお読みになった方はおわかりのとおり、本書はきわめて日本語学的な本であり、徹頭徹尾、日本語の文の構造が頑強なものになるようにすることを目指した技術書である。
内容は当時としては画期的だったことは疑いはないが、現代的な視点から見ると、物足りない面は正直ある。悪文を避ける技術と一口に言っても、その内容は多岐にわたる。しかし、本書の紙幅の大半は文の構造についての記述に割かれ、それ以外の点にはほとんど言及がないからである。
文章の書き方を考えるとき、表現技術に関する観点をざっと挙げるだけでも、次のようなものがある。
①文字の使い方(漢字・カタカナetc.)
②記号の使い方(句読点・カッコetc.)
③語彙の選び方(語種・類語etc.)
④文の組み立て方(文法・文型etc.)
⑤文のつなげ方(接続詞・指示詞etc.)
⑥文章の組み立て方(文章構成・段落etc.)
⑦文体の選び方(書き言葉・ジャンルetc.)
⑧修辞の捉え方(視点・比喩etc.)
本書はこのうち、④「文の組み立て方」についてしか書かれていない。そのため、本書だけを読んでも、文章の技術がすべて身につくわけではない。
しかし、上記の①~⑧の観点をすべて網羅しようとすると、いきおいページ数は増えてしまう。」
「この点で本書の割り切りはすばらしい。本書の主張は、センテンスを書いたとき、その構造が一つの意味でしか解釈できないように、頑強に書くこと、それに尽きる。評者は先ほど観点が網羅的でないことで、物足りない面はあると述べたが、文章を書くうえでもっとも大切なメッセージに絞って伝えられているという点ではむしろ長所と見ることもできる。」
*「本書が扱っているテーマは一見多様に見える。長文を避けて単文で書くこと、主語と述語を明確にすること、「は」「が」をはじめとする助詞を的確に使い分けること、修飾関係や並列関係を明確にすること、句読点を適切に使うこと、過不足のない情報を提示すること、読み手の理解に配慮することなど、多岐にわたっていることは確かである。しかし、本書をよく読めば、それらはすべて一義的に解釈できる頑強な文を書くという目的に収束していることがわかるはずである。逆から見れば、一義的に解釈できる頑強な文を書くうえで必要な条件を残らず挙げて論じていることに気づく。
一文一義。そのことこそが文章を書くうえでもっと大事なことであると、筆者は銀行生活と文芸生活の両面で体得しており、そこに文章の機能美を見いだしたのであろう。こうした筆者の信念に基づく一貫した記述には、抗いがたい説得力がある。」
*「情報があふれかえる時代にあって、文章執筆にもっとも大事なエッセンスをぎゅっと絞りこんで提示した本書はかえって読者の目に新鮮に映るかもしれない。何より四十年以上経った今でもこれだけ論旨が明快な本は珍しく、読み返して学ぶところは大きいと思われる。
「悪文を語る本に外れなし」。このことは文章読本を考えるうえでの鉄則だと評者は考える。本書もまた、その例外ではない。」」
□千早耿一郎『悪文の構造』目次
1、機能的な文章とは
2、日本語文の構造
3、長文は悪文
4、短いことはいいことだ
5、なにが主格か
6、述語は基幹である
7、なにを修飾するか
8、「は」のイキは長い
9、合流点はどこか――並列語の盲点(1)――
10、左右均衡の論理――並列語の盲点(2)――
11、無責任な仲人――接続の論理――
12、この漠然たるもの――「が」を濫用するな――
13、切れ目を示せ――読者のための句読点――
14、正しく伝える努力
15、曖昧な表現
16、表現の過不足
17、文と人間
18、文章のリズム
19、機能的なものこそ美しい
あとがき
解説 「悪文」に名著が多い理由(石黒圭)
○千早 耿一郎(ちはや・こういちろう)
1922-2010年。滋賀県生まれ。中国(上海、青島)で育つ。帰国して第一神戸商業学校卒業後、日本銀行入行。42年に入隊し、中国で初年兵教育を受けつつ「討伐」に出動する。現地の予備士官学校を卒業後、挺身攻撃隊長として訓練中、終戦を迎える。46年、日本銀行に復帰し、吉田満を知る。事務繁忙の時間を割き、吉田らと文芸活動に従事した。著書として、詩集に『長江』『黄河』『風の墓標』など、小説に『防人の歌』『蝙蝠の街』、ほかに文章論・事務管理論、伝記『おれはろくろのまわるまま――評伝・川喜田半泥子』『「戦艦大和」の最期、それから――吉田満の戦後史』などがある。