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ダヴィッド・ベシス『こころを旅する数学/直観と好奇心がひらく秘密の世界』

☆mediopos-3067  2023.4.11

プラトンが設立した学園(アカデメイア)の入口の門には
「幾何学を知らぬ者、くぐるべからず 」
と書かれてあったそうだが
ここで幾何学というのは数学のことを意味している

感覚ではなく理性による数学が重視されたのだが
感覚ではない思考ができるということは
「対象のない思考」ができるということだ

本書はこれまで読んだ数学に関する本のなかで
「なぜ数学が苦手」だとされることが多いのか
ということに対する
とてもすぐれた答えとなっていると思われ

第1章の最初に
「この本の狙いは、読者のみなさんの
世の中に対する見方を変えることにある」とあるように

おそらくは数学に代表される思考方法への苦手意識を
払拭してもらうための誘いもいえるだろうが

最終章の第20章では
「数学的アプローチのいちばんやっかいな点は、
「本当には」存在しないのに想像する手立てを
見つけなければならないものごとを、
常に基準とすることである」と
もっとも重要な問題点を示唆している

「「本当には」存在しないのに想像する」というのは
まさに「対象のない思考」ということである

おそらくそこの部分をクリアできれば
数学的なものを積極的に理解しようとしないとしても
心理的な障壁は比較的少ないのではないかと思われる

そうした障壁さえ越えられれば
本書で示唆されているように
数学は論理的なのではなく精神的な身体的活動であり
泳ぎや自転車の乗り方を覚えるようなもので
その部分を学習し鍛練すれば数学は
その「真摯、忍耐、勇気、欲求」次第で
習得することがだれにでもできるだろうことは理解できる

しかしそのように数学を学ぶということは
「学校で教えてくれる数学とはあまり関係がない」

数学には2つのヴァージョンがあるという

公式ヴァージョンは
「不可解な記号を使って難解な言語で書かれ、
論理的かつ体系的に示される」ような
数学の本に載っているようなそれで

秘密のヴァージョンは
「数学者の頭のなかにあって、
「数学的直観」と呼ばれている」もので
それは学校で教わるような
ほとんど記憶型数学の延長ではない

「数学的直観」の入口は「対象のない思考」である

その直観を「数学者以外の人たちと共有する」ために
数学的著作が書かれることになる

たとえば泳ぐことや自転車に乗ること
もっと簡単なバナナの皮を剝くことさえも
それらの習得は実際にやってみれば困難ではないだろうが
それを記述するときには非常に難解になる

しかもそれらが内面的な体験である場合
実際に習得した者にとっては自明となるが
そうでない者にとっては理解不能で共有は難しくなる

そのように本書は
タイトルにあるように「こころを旅する」者
つまりは対象のない思考を旅しようとする者にとっては
福音ともいえる入口ともなるだろうが
その旅に不信感しか抱かない者にとっては
相変わらず入口の門は閉ざされたままかもしれない

やはり「叩けよさらば開かれん」ということだろう

■ダヴィッド・ベシス(野村真依子訳)
 『こころを旅する数学/直観と好奇心がひらく秘密の世界』
 (晶文社 2023/3)

(「第1章 3つの秘密」より)

「この本の狙いは、読者のみなさんの世の中に対する見方を変えることにある。」

「数学を体験する者にとって、それは何よりも内面の体験であり、感覚的かつ精神的な探求なのである。

 この体験は、学校で教えてくれる数学とはあまり関係がない。ある面から見れば、透視力や超能力のひとつの形であり、別の面から見れば、子供のころに言葉を話せるようになった神秘的なプロセスの延長ともいえる。

 数学を理解するとは、子供のような頭の柔らかさに通じる秘密の道を進んでいくようなもの。その柔軟性をよみがえらせて手なづける方法を身につけることであり、それを意識的に生かそうとすることだ。この知性の道は、私たちが日々の生活でたどっている道に驚くほどよく似ている。ところが、その入口は、私たちの習慣の背後や、怖れとためらいの背後に隠されて見えないのだ。」

「数学者たちは、数学には2つの異なるバージョンがあることをよく知っている。

 公式バージョンは数学の本に載っている。不可解な記号を使って難解な言語で書かれ、論理的かつ体系的に示される、あの数学だ。

 もうひとつの秘密のバージョンのほうは、数学者の頭のなかにあって、「数学的直観」と呼ばれている。脳内表象と抽象的な感覚からなり、視覚的に捉えられることも多い。数学者はこれを「自明なこと」として感じとり、喜びを感じる、ところが、この自明なことを数学者以外の人たちと共有するとなると、大いにとまどってしまう。あれほど自明だったものが、いきなりそうでなくなるからだ。」

「数学者は、公式な数学、つまり本に載っている数学がすべてを語っているわけではないことをよく知っている。本当に大切なのは、その本に書かれてあることを〝理解〟できるようになること、それは〝見える〟ように、〝感じられる〟ようになることだとわかっている。

 そのため、日々数学者が心をくだくのは、直観を発達させ、さらに豊かで明快で強力なものにすることであり。数学者にとっては、自分の著作や発表された研究成果よりも直観のほうがはるかに自分の大傑作で、生涯をかけた業績だといえるからだ。

 〝見る〟〝感じる〟〝真に理解する〟と同時に、人類の99.999%が異様なほど抽象的でまったく理解不能だと判断するものを「自明だ」と捉える並外れたテクニック、それこそが数学者のすぐれた技であり、数学者の大いなる秘密である。この技を実際に身につけた者だけが、それがどこに導いてくれるのかを知っている。」

「1 数学者の実践は身体活動である。理解できないことを理解するには、頭を働かせなければならない。音もしないで目にも見えないが、どうしても必要な活動である。それはまた直観を豊かにし、さらに力強く奥行きのある新たな脳内表象を発達させる活動だ。その活動が、私たちの能力を強化し、開花させる。数学のやり方を学ぶことは、身体の使い方を学ぶことである。歩き方、泳ぎ方、踊り方や自転車の乗り方を学ぶようなものだ。こうした動作は生まれながらにできるわけではないが、それを習得する能力は誰にでも備わっている。

2 数学は大得意になる方法はある。この方法は学校では絶対に教えてくれない。しかも、学校で習うどんな方法にも似ておらず、従来のどんな教育の原則にも当てはまらない。それはまた、努力を求めるのではなく、簡単に目的を達成しようとする方法だ。ロッククライミングのテクニック、武術、ヨガの一種や瞑想にたとえられるかもしれない。このやり方では、恐怖を乗り越え、未知のものを前にして逃げ出したくなる衝動を抑え、反論されてもそこに喜びを見出すにはどうすればいいかを学ぶことができる。それは、自分の直感のプログラムを書き換える方法といえる。そういう意味では、単に数学が大得意になる方法ではなく、とても賢くなるための方法でもある。

3 偉大な数学者の脳も私たちの脳と同じように働いている。あらゆる身体活動と同じで、数学に対する生まれながらの能力もおそらく、すべての人に公平に分け与えられているわけではない。とはいえ、生物学的な違いが演じる内容は、一般に考えられているよりずっと小さい。」

(「第2章 スプーンの持ち手はどっち?」より)

「数学の授業で聞く話は暗記すべき内容ではない。各々が頭のなかでひそかに行わなければならない、目に見えない動作のための指示である。

 歴史や生物の授業を受けるように数学の授業を受けることは、ヨガのレッスン中に一言一句忘れまいと丁寧にメモを取ることぐたい無意味である。呼吸の練習をしたことがないのなら、メモなど何の役にも立たない。」

(「第3章 思考の力」より)

「完璧なまん丸の円を想像してみよう。ただの丸い円だ。思いうかぶだろうか?

 現実には完璧な円など存在しない。

 (・・・)

 完璧な円は数学的な抽象概念である。あなたが円に慣れ親しんでいるとしたら、それはほかのすべての人と同じように数学的抽象化の能力をうまれつき備えている証拠だ。」

「生物学的にいえばそれで十分である。ほかの要素は遺伝的なものではないし、それも必要なら手に入る。真摯、忍耐、勇気、欲求のことだ。」

(「第4章 本当の魔法」より)

「本当の数学、難解な数学に取り組みたかったのに、私が理解できたものといえば易しい数学、無能のための数学だった。

 こんなことを語るのもまぬけだが、それが錯覚にすぎないと気づくまでには何年もかかった。実際は、地平線が私とともに移動していたのだ。地平線はいつも私と同じ高さにあった。

 本当の魔法は存在しない。魔法を覚えたとたん、それは魔法ではなくなる。悲しいかもしれないが、そのことに慣れなくてはならない。

 自分に理解できる数が気は簡単すぎると思ったら、それは簡単だから理解できるのではなく、理解できるから加担なのだ。」

(「第5章 頭のなかは目に見えない」より)

「偉大な数学者とは、たとえば数え方が5までしかない文化に生まれながら、ある日その先に進めることに気づくような人である。」

「自分が感じ取ったものを表現するには、新しい言葉を考案するか、すでにある言葉をいままでとは異なる方法で使わなければならない。頼りない印象に言葉を当てはめられると、そこでやっと思考が根を下ろす。必要不可欠だが時間のかかる作業である。言葉とは、簡単に生まれるものでも、すぐに思いつくものでもないのだ。

 発見の第一段階はスピリチュアルな体験である。言語を介さずに考えていると世界が明るくなり、啓示を得る。」

「数学が謎めいていて難しいのは、他人がどうやっているかが見えないからである。黒板や紙に書かれたものを見えるが、他人が頭のなかで前もって成し遂げたことと、何によって彼らがそれを考えて書き表せるようになったかは、目に見えない。

 数学自体は単純だが、数学を自分のものにするための頭のなかの動作は捉えにくく、直観に反する。しかもこの動作は目に見えない。他人の頭のなかの動作はまねできないのだ。それを説明するには言葉を使うしかないが、言葉では常に本質的な部分、つまり体のなかで本当に感じているものが抜け落ちる。」

(「第7章 幼い子供のように」より)

「グロタンディークの誤りに関する記述は、学術の領域を大きく超えて普遍的な広がりをもつ。次のフレーズを見たら、学校の正面扉の上に刻みたいと思うのではないだろうか。

  「誤りを恐れることと真理を恐れることは同一である。間違えることを恐れる者は発見できない。間違えることを恐れるときこそ、自分の内にある誤りが岩のように確固たるものになる」

 ほとんど知られていないが、数学における主な壁は心理的なものである。これは最初だけでなく、高度な専門レベルまでの長い道のり全体を通していえることだ。子供時代を終えると、誰でもばかに見られることを恐れ、誤りを恥ずかしいと思うようになる。自分がほとんど何も理解できないという事実を、自分自身の目を含めて偽ることを覚える。数学の力を伸ばすには、この偽るという反応が起こらないようにしなければならないが、それはとても難しい。」

「グロタンディークがいう「私たちの内にある誤り」は、論理とは何の関係もない。計算違いでも推論の誤りでもない。彼がいう誤りとは、直観の誤り、ビジョンの誤りである。つまりものごとからつくりあげるイメージが正しくないのだ。(・・・)

 数学的理解の重点はものごとの表現方法を少しずつ修正できるようになること、より明快で正確、かつ現実と一致したものにすることである。」

「あらゆる精神運動の学習と同様、新たな数学的概念の学習は直観の再構成を経て行われ、そのためには試行錯誤が必要となる。グロタンディークがいう誤りの役割を歩行の文脈に置き換えると、意味がはっきりする。

  「転倒を恐れることと歩行を恐れることは同一である。転んでけがをすることを恐れる者は歩けるようにならない。座り込んでいるときこそ、最初のしくじりが精神運動障害になる」」

「数学的想像は、(ものごとが見えるようになる)想像の努力と(見えたものを言葉にする)言語化の努力を絶え間なく行ったり来たりすることである。

 このプロセスによって私たちの直観と言語は同時に修正される。見ることを学ぶと同時に話すことを学ぶ。新たなものごとを見る方法を学び、それに名前をつけるための言語を考案する。」

(「第8章 イメージを明確にすること」より)

「私たちは文字どおりゼロから出発する。辞書から出発するのではない。私たちは実生活から、つまり他者と分かち合う共通の経験から出発するのだ。」

「数学の公用語で書かれた文献を解読したいと思うのは、目の見えない人が、星が見えないまま星の形式的定義を解読しようとするようなものだ。

(・・・)

 数学的理解の要は、正確にいえば、形式的定義にもとづいて自分の内に新たな脳内イメージをつくりだす手段を見つけることだ。これは、こうした定義を直感的なものにし、内容を「感じる」ためである。」

(「第14章 デカルトに学ぶ知の技法」より)

「デカルトが発見したのは、私たちが本気で内観の作業を行ったり、認知の矛盾に耳を傾けたり、漠然とした脳内イメージを捉えてそれに言葉をあてはめようとしたり、自分の想像力の産物が抱える矛盾を思い切って直視したり、冷静になって偏見から目を逸らし、ものごとをありのままに見つめたりするとき、私たちの行動には脳内表象を修正し、その力と揺るぎなさ、一貫性と有効性を高める効果があるということだった。

 つまりデカルトは、人間の身体の特性を発見したのである。

 (・・・)

 この方法から得られる深い理解という現象には、デカルトだけでなくこの方法に出会った誰もが驚嘆する。人間が生まれ変わる体験、それ自体であらゆる努力が報われる体験である。

 懐疑はデカルトの独創性の秘密であると同時に、その信じがたい安定性の秘密でもある。このような読み方をすれば、『方法序説』は自信を手に入れるための立派な教えでもある。デカルトがいう合理性は具体的かつ個人的で、人間の尤も深い希求に根ざしている。私たちを揺るぎない存在にし、成長させるアプローチである。次の文章はグロタンディークのものだが、デカルトが書いたものだとしても不思議はない。

  「この確信は内なる資質の一面であり、同じ資質の別の面は懐疑に通じる。懐疑とは自分自身の誤りに対するすべての不安を排除する探求の姿勢であって、そのおかげでたえず誤りを見つけ出し、訂正することができる。」

 尊大ながら反論されるのが大好きな人、気取り屋でも自分の間違いが証明されると満足そうに微笑む人、独断的ながら一瞬にして意見を変える人。私はこのようにかなり変わった心理的姿勢をすぐれた数学者にしか見たことがない。」

(「第20章 大いなる数学のめざめ」より)

「数学的アプローチのいちばんやっかいな点は、「本当には」存在しないのに想像する手立てを見つけなければならないものごとを、常に基準とすることである。

 あたかもそうしたものごとが目の前にあって手で触れられるかのようにふるまうこと————それが、数学を理解したい人に贈れる最も単純かつ基本的な序言、私がこの本でずっと繰り返してきた助言である。

 数学がまったくできないというのは、じつは不信のひとつの形である。「存在しないものごとを想像すると何かに役立つ可能性がある」と信じるのを拒む態度である。」

「数学の学習は、泳ぎ方や自転車の乗り方といったほかの学習と同じように、大多数の人々にとって手の届く精神運動学習であるべきだ。だが、言語と思考の働きに対する私たちの間違った思い込みが、このような単純かつ直接的な教育を邪魔している。この思い込みが学習につながる動作を妨げるのだ。」

【目次より】
第1章  3つの秘密
第2章  スプーンの持ち手はどっち?
第3章  思考の力
第4章  本当の魔法
第5章  頭のなかは目に見えない
第6章  トースターの取扱説明書
第7章  幼い子供のように
第8章  イメージを明確にすること
第9章  何かがおかしい
第10章 直観的に見る方法
第11章 ボールとバットで1ドル10セント
第12章 1から100まで足すといくつ?
第13章 屈辱・みじめさ・劣等感
第14章 デカルトに学ぶ知の技法
第15章 怖くなんかない
第16章 危険なスポーツ
第17章 純粋な理性は人を惑わす
第18章 部屋のなかのゾウ
第19章 概念をつくり出すマシン
第20章 大いなる数学のめざめ
エピローグ

◎ダヴィッド・ベシス(プロフィール)
1971 年生まれ、フランスの数学者。高等師範学校Ecole normale supérieure (Ulm) を卒業後、イェール大学の助教授を経て、フランス国立科学研究センター(CNRS)の研究員に。現在は、人工知能を専門とする会社を経営。

◎野村真依子(プロフィール)
フランス語・英語翻訳者。東京大学大学院人文社会系研究科修士課程修了。訳書に『フォト・ドキュメント 世界の母系社会』、『カバノキの文化誌』(ともに原書房)など。

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