岡﨑乾二郎「老子、天井を払う」 (『絵画の素』)/寺田寅彦「変わった話」
☆mediopos-3040 2023.3.15
岡﨑乾二郎『絵画の素』は
mediopos-3012(2023.2.15)でとりあげたが
ここでとりあげた章は
一八世紀のバロック絵画における天井画の
「天井があるのに、それがないかのように青空を描く」
という「虚偽であり不実」についての話からはじまっている
(紹介されているのは
ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロの
《美徳が不徳を打ち払う》というタイトルの天井画)
天井画に描かれている青空には
天井の上は存在しない
青空は方便なのだ
それにもかかわらず
そこには天に向かって上昇する世界が描かれている
そして「天井の下で全ての人は平等だけれど、
一方でその平等を包容する天が示される必要がある。
こうして青空を描いた天井という方便が栄える。」
この章がなぜ「老子、天井を払う」なのか
それは寺田寅彦の「変わった話」という随筆にある
老子の話にかかわっている
孔子と老子の間には大きな違いがあって
それまで孔子の教として知っていた世界よりも
「段ちがいに上等で本当のものではないか
という疑いを起こした」という
そのきっかけとなったのは
奇行をもって有名な漢学者のK先生の話である
K先生は黒板に富士山の絵を描いて
麓に一匹の亀を這わせ
頂上の少し下あたりに鶴を描きそえ
こんな説明をする
「孔子の教ではここにこういう天井がある。
それで麓の亀もよちよち登っていけば
いつかは鶴と同じ高さまで登れる。
しかしこの天井を取払うと鶴はたちまち沖天に舞上がる。
すると亀はもうとても追付く望みはない
とばかりやけくそになって、
呑めや唄えで下界のどん底に止まる。
その天井を取払ったのが老子の教えである」
「分からない話」であるにもかかわらず
「富士山の上に天井があるのは嘘だろう」
そう寺田寅彦は思った
「方便」には「方便」なりの理由があるのは確かだ
現代においてそうした「天井」にあたるものは
たとえば唯物論であり科学主義であり民主主義だろうか
それらはそれらなりの教育的効果さえ期待できるが
その「天井を取払」うことは禁じられている
そしてそれらの意味が失われたとき人は亀のように
「呑めや唄えで下界のどん底に止まる」しかない
しかしいまもっとも重要なことは
「天井を取払」うというタブーを超える
あらたな智慧に向かって開かれてゆくことだろう
青空という天井を
ほんとうの青空に
天空にかえてゆくように
■岡﨑乾二郎「老子、天井を払う」
(岡﨑乾二郎『絵画の素──TOPICA PICTUS』岩波書店 2022/11)
■寺田寅彦「変わった話」
寺田寅彦『ピタゴラスと豆』 (角川ソフィア文庫 KADOKAWA 2020/8)
(岡﨑乾二郎「老子、天井を払う」より)
「天井があるのに、それがないかのように青空を描くのは虚偽であり不実でもあろう。このような徹底して不実な絵画がおおく制作されるようになったのは一七世紀から一八世紀である。こうした不実な絵画をトロンプ・ルイユと呼ぶ。どんなに誠実にまざまざとリアルにそれが描かれていても、それが虚偽である以上、不実といってよかろう。そして絵画技術がこうして本質において不実につながることを容認し、その不実の必要性が公式に受け入れられるようになった時代がバロックと呼ばれている。嘘も方便というわけだが、方便であることが、嘘を正当化する弁解として成立するのは、その方便が正しい目的を達成するために不可避であると認められているときである。」
「世界には上があり、上には上がある。天に向かって上昇する終わりなき闘争。やがてそれを終わらせるには天井が必要だという、もうひとつの方便が導入される。天井の下で全ての人は平等だけれど、一方でその平等を包容する天が示される必要がある。こうして青空を描いた天井という方便が栄える。」
「寺田寅彦が次のような奇妙な話を紹介している(「変わった話」)。高山があり、誰でもそれに登れるとしよう。地を這うしかない動物は山を登ることで天に近づけるが、登れるのは山の頂上までである。けれど鳥であればもっと空高く上昇していくことができる。鳥と動物に平等はない。だから高山の頂上と同じ高さに見えない天井を架ける。たとえ鶴がすいすい空高く昇っていっても、やがて天井にぶつかってそれ以上は上に行けなくなる。あとからゆっくり山を登ってきた亀が結局は追いつく。この天井を架けたのが孔子だという。どういう意味か不明だが、道徳的な目標は誰にでも同じ可能性として開かれていなければならない、という喩えだろう。その上で優劣も測れる。亀はどんなにがんばっても行けないろころに、鶴が飛んで昇って行っても鶴がえらいとは言えないだろう。だから天井がそこに作られた。一方で空がないと誰も登ろうとは思わないだろう。だからその天井は(ガラスのように透明で)見えないものとして作られる必要があった。
誰でも登れると思わせておいてガラスの天井を架けておく。これはバロック芸術のような仕掛けである。その方便が正当なのは平等という善を見かけとして維持するためだが、その平等は階層の上へと登りたいという不平等の欲望に(その欲望を平等に持たせることに)基づいているのであれば、どうも捻じ曲がっている。どこで寺田寅彦が書いている話にはつづきがあって、この見えない天井を老子がぶっこわしたというのである。すると鶴は飛び去ってしまい、亀はあほらしくて山を登るのをやめて、飲めや歌えやの楽しい生活をはじめた、という。
(美徳が不実を打ち払う)というタイトルを持つジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロの見事な天井画を見て、思い出すのはこの話である。」
(寺田寅彦「変わった話」〜「一 電車で老子に会った話」より)
「中学で孔子や孟子のことは飽きるほど教わったが、老子のことはちっとも教わらなかった。ただ自分らより一年前のクラスで、K先生という、少し風変わりというよりも奇行をもって有名な漢学者に教わった友人達の受売り話によって、孔子の教と老子の教との間に存する重大な相違について、K先生の奇説なるものを伝聞し、そうした当時それを大変に面白いと思ったことがあった。その話によると、K先生は教場の黒板へ粗末な富士山の絵を描いて、その麓に一匹の亀を這わせ、そうして富士の頂上の少し下の方に一羽の鶴をかきそえた。それから、富士の頂近く水平に一線を劃しておいて、さてこういう説明をしたそうである。「孔子の教ではここにこういう天井がある。それで麓の亀もよちよち登っていけばいつかは鶴と同じ高さまで登れる。しかしこの天井を取払うと鶴はたちまち沖天に舞上がる。すると亀はもうとても追付く望みはないとばかりやけくそになって、呑めや唄えで下界のどん底に止まる。その天井を取払ったのが老子の教えである」というのである。なんのことだかちっとも分からない。しかし、この分からない話を聞いたとき、なんとなく孔子の教よりは老子の教の方が段ちがいに上等で本当のものではないかという疑いを起こしたのは事実であった。富士山の上に天井があるのは嘘だろうと思ったのであった。」