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古沢由紀子『志村ふくみ 染めと織り』/志村 ふくみ『私の小裂たち』

☆mediopos2616  2022.1.14

二〇〇四年頃
志村ふくみ・志村洋子の
母娘がともに体調を崩し
ほぼ同時期に復帰する
というのは
魂において
同じ場を共有していた
ということだったのではないだろうか

そしてそれぞれがそれぞれの仕方で
(母ー娘の関係もふくめて)
その時期に
魂の変容と統合という
プロセスを経ていった
ということでもあったのかもしれない

興味深いのが
うつ病を患った際
アンリ・マティスが晩年に手がけた
切り絵(画集『ジャズ』)に触発されたということ

そして
曼荼羅を描くように
「裂」を
パッチワークやコラージュに
していった・・・

だれにでも
こうした「うつ」のような時期を経た
経験はあるのではないだろうか
(ぼくの場合は毎日のように
うつとそこからの回復を繰り返しているけれど)
そのプロセスは人それぞれで
そこから回復できるとはかぎらないが
その機は魂の変容プロセスともなる

志村ふくみのように
とても大きくたくさんの仕事をされてきた方ほど
大きな光ととともに
その光ゆえに
じぶんのなかの声なき声から
思わず呼ばれるときがくる

裂たちから
「私たちをどうにかして!」と
呼びかけられた気がしたというが
その裂たちもまた志村ふくみのなかで
それまで聞きとられずに来たものだったのだろう

そしてその声を聞くことで
それにかたちを与え
「裂」の曼荼羅を描くことで
志村ふくみの世界はあらたに統合され
さらに豊かに広がっていくことになった

■古沢由紀子(聞き書きと評伝)
 『志村ふくみ 染めと織り』
 (求龍堂 2021/11)
■志村 ふくみ『私の小裂たち』
 (ちくま文庫 筑摩書房 2012/2)

(古沢由紀子『志村ふくみ 染めと織り』〜「端裂が助けてくれた」より)

「母の指導を受けて三十一歳で織物を始めてから、私はたゆみなく、染めと織りを続けてきました。機に上がるのを億劫と思った日はなく、朝起きると仕事のことで心はいっぱい、スランプとも無縁——--。
 それが、八十歳を目前にして、二度と機には迎えない、ペンも持てない、と思うような状態に陥りました。うつ病を患ったのです。
 先に体調を崩したのは、長女で染織家の洋子でした。這うように仕事に来ていたけれど、そのうちに寝込んでしまい、ついに出てこれらなくなってしまいました。残った私が工房を繰り回しましたが、夜は不安にさいなまれたのです。
 明日をも知れぬ老齢にさしかかったと感じて、言いようのない深い闇、トンネルに入り込んだような心境で、機に向かえなくなりました。二〇〇四年頃のことです。
 その苦境を救ってくれたのは、裂でした。京都市内の部屋にこもり、様々な草木で染めて織ってきた着物の残り裂を見たり、触ったりしているうち、様々な昔のことが思い起こされました。
 「夜桜」「月の湖」などと名付けた作品の端裂を約五十年分、時系列にして「裂帖」に貼り付けて保管してあります。昔の農家の女性や織り屋さんなどが織った布を保存し、見本も兼ねた「縞帖」をつくっていたのと同じです。
 残り裂はタンスにもたくさんありました。私は四角や三角など様々な形に裂を小さく切り、モザイクのように紙に貼り始めました。
 まるで布同士が昔のことをおしゃべりしているような気さえしながら、私は布をまさぐっていたのです。
 思い浮かんだのは、フランスの画家、アンリ・マティスが晩年手がけたという切り絵でした。自由自在な作品を画集で見て、なんてすばらしいだろうと感銘を受けて、「やりたいことをやってみなさい」と言われたような気がしました。マティスには及びもつかない幼稚なものですが、朝から晩まで次から次へとつくっていったのです。手元にあった裂を切り抜き、雪の結晶などの形に貼った屏風は、病を得る直前につくったことがありました。

  四十年以上も休むことなく織機に向かっていた日常が止まってしまった頃、志村は、マティスの切り絵作品を収録した画集『ジャズ』に触発されて、「Mに」という詩のような文章を綴っている。巨匠に語り掛けるような言葉が印象的だ。「こんなに老いても病んでもまだ、人を喜ばせることができるなんて でもあなたはきっと 病んで苦しんで 哀しみつつ 描いていらしたのですね。」

 夢中になって残り裂でパッチワークやコラージュのような作品を次から次へとつくるうち、心も体も快方に向かったようです。本当に裂に励まされ、裂のおかげで救われたのだと思います。
 知り合いを介して聞いたのか、現代美術の画廊経営者・佐谷和彦さんに「これはミニマリズムだ、小さな芸術的なものだ」と目をとめていただきました。京都のマンションに何度も来て励ましていただき、展覧会を企画してくださったのです。

(…)

 結局、私は染織家として二年あまりの空白を果て、再び機に上がれるようになりました。洋子も私と入れ違いに仕事に復帰していました。」

(志村 ふくみ『私の小裂たち』より)

「二年あまり病を得て、果たしてもう一ど機に向かえるかとあやぶんでいたが、療養がてら、ふと小裂の一杯つまった箱をまさぐっているうちに、この小裂を雪や花びらのようにこまかくきって、一片一片を、モザイクみたいに紙に貼りはじめた。
 お菓子の空箱を小さく区切って、赤や黄、緑の、吹けば飛びそうな小片をわけて入れ、模型の小間物屋みたいに店びらきして、終日貼りつづけた。はじめは点描のようにひたすら空間を埋めて、花苑や噴水、お城や町などまるでお伽噺の世界のような幼さだった。しかしそんな手仕事がたのしく、私を快方へ向かわせたのか、次第に着想が湧き、長年織りためていた裂の箪笥から「秋霞」とか、「夜桜」「月の湖」などの作品の残り裂をとり出して着物の雛形をつくりはじめた。千年、何の気なしに着物の簡略なパターンをつくってみたのがきっかけだったが、小さいなりに主張している裂の勢いにうながされて、たて続けに五十枚、百枚をつくりつづけた。無地の雛形にも、意外と主張なき主張というか、色ひとつで勝負する潔さがあり、やはり五十枚ちかくつくった。自分が染めたというより、そこを離れて、植物染料のもつ潜在的な力強さに驚いた。
 裂は御用済の存在として長年箪笥の中に打ち捨てられ、やがて私がいなくなったら忘れられる運命だった。すんでのところで最晩年の私はその裂たちから呼びかけられ「私たちをどうにかして!」といわれた気がした。
 その裂たちのために、私は体調をくずし二年間も空白の時をあたえられたのかもしれない。人は休養の時と言ってくださるが、休養どころではなく、働きつづけた。このことに気づかされ、再びものをつくるよろこびをあたえられたことは、裂たちに何と御礼をいっていいかわからない。私はお手伝いさせてもらっている感じで、次から次へ裂の世界にはまりこんでゆく。
 一寸かっこよく言えば裂への恩返しか、なんてとんでもない、まだまだ私は貪欲に、更に更に裂を切り刻み、こまぎれにしているではないか。それでも裂たちの中からさんざめくこの話し声、聞き耳をたてずにはいられない。」

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