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阿部 重夫『異端 モンタノス派/初期キリスト教 封印された聖霊』

☆mediopos2717 2022.4.25

かつてキリスト教に
モンタノス派という異端があり
六世紀には姿を消した

キリスト教の歴史は異端排斥の歴史でもある
聖霊に憑かれた預言者による異言を尊んだのが
モンタノス派だったが
キリスト教は聖霊の働きでもある異言を否定した
それがキリスト教会を否定するものともなり得たからだ

キリスト教は一神教といいながら
父と子と聖霊による三位一体に拘り続け
それを教義としているが
実のところその三位一体は明快に説明され得ない
とくに聖霊のところは霧のなかだ

おそらく三位一体という教義が
意味もよくわからぬまま教義となっている背景には
霊魂体という基本的な三つ組みがあって
それをキリスト・イエスにおいてと同様
人間から高次存在までの基本構成と
その進化の様態を示唆しているのだろうが
教会による信徒の管理のため
人間から霊が取り去られたりもするように
実際のところ三位一体の原理はちぐはぐなまま
お題目と化してしまっている

モンタノス派の異言が
多数派の教会にとって不都合だったのは
異言にょる預言は
「聖体拝領や洗礼などの司教を邪魔し、
冒瀆するにひとしい」とされたからだ

たしかに現代のチャネリングのように
口寄せをすべて預言のように
真に受けてしまうのは危険である
むずかしいのは
預言なのか魔物が憑いているのか
正しく判断することができないことだ
古神道でも審神者(さにわ)が必要だったのは
その判定においてであった

モンタノス派に帰依する者は
預言としての異言に依ろうとする者だっただろうが
それを異端宣告して排除したほうが
新たな預言などに惑わされないで済むというのは
教会運営にとっては譲れないことだったのだろう

預言としての異言がやっかいなのは
イエスの再臨の預言やら千年王国運動やらと
密接に連動してくるからでもある

じっさいモンタノス派が消滅してからも
イエスの再臨や千年王国運動だけではなく
キリスト教以外の社会革命運動などにも現れるように
モンタノス派的な衝動は絶えることがない

聖霊はアルトラル体に働きかけるがゆえに
アストラル体の進化状態に依存するところがある
それは低次の異言として現象する場合もあれば
高次の異言として現象する場合もあるが
それを精確に判断することは難しい
そして多くの場合その衝動は無意識的で
「一個の怪物がヨーロッパを徘徊している」ように
ときに怪物化してあらわれることもあるのだ

■阿部 重夫
 『異端 モンタノス派/初期キリスト教 封印された聖霊』
 (平凡社 2022/3)

(阿部 重夫『異端 モンタノス派』本文より)

「二世紀半ばの小アジア、今のトルコ内陸の高原に、ぽつんと新宗派が生まれた。それが「新しき預言」派、またはモンタノス派である。教義にさしたる違いはない。ただ信者の一人に聖霊が憑いて、意味不明の言葉を口寄せする。意識を失ってあらぬことを口走るのだ。彼らは「預言者」と呼ばれ、その異言を解読して、やがて末世に備えて厳格な禁欲を課す教団を形成した。
(・・・)
「けれども、聖霊に憑依された人が何やらもどきだすと、教会の聖職者たちは、端的にいえばもう要らない。そのすっ飛ばしは、聖体拝領や洗礼などの司教を邪魔し、冒瀆するにひとしい————教会の主流多数派にモンタノス派が毛嫌いされ、やがて異端として斥けられたのは畢竟、この憑きものが魔物か汚鬼かと疑われたからだ。
(・・・)
 だが、イエスの約束に従っただけではないか。ペンテコステこそ教会の原点であり。そこに回帰するのに何を咎め立てする? 巫覡のように目を剝き、濁声を発する依代が、悪霊の仕業とどうして決めつけられるのか。いくらそう反論しても、囂々たる非難にかき消され、彼らが新しきエルサレムと定めた総本山は、六世紀に簒奪され焼き払われた。始祖たちの墓も暴かれ、「もうひとつの教会」は歴史から消えた。」

(佐藤優「モンタノス派の眼で歴史と世界を読み解く/推薦の辞」より)

「キリスト教は一神教と言われているが、厳密に言うとそれは間違いだ。キリスト教は、父、子、聖霊からなる三一(三位一体)の神を信じる宗教だ。父なる神はユダヤ教と共通のヤーウェだ。子なる神はイエス・キリストである。そして最後が聖霊なる神であるが、これが何であるかが実にわかりにくい。既成の教会は、聖霊を組織内に閉じ込めることに腐心してきた。しかし、キリスト教史では繰り返し、聖霊の自由な働きを重視するグループが出てくる。そのようなグループは、廷丁の場合、「異端」として切り捨てられてきた。

 二世紀に小アジア西部フリギュア地方でイエス・キリストの再臨が近いと終末論を伴う預言活動を行ったのがモンタノスだ。キリスト教史では、三世紀の初め、これまで正統派教会で護教活動を中心的に展開していたテルトゥリアノスが晩年にモンタノス派の転向したことで知られているくらいで、詳しい情報がない。阿部重夫氏は、日本であまり知られていないタバニーの名著『預言者と墓石』の精読を通じてモンタノス派の精神をとらえる。ただし、本書はモンタノス派についての学術的研究とは本質的に異なる。モンタノス派の眼で、阿部氏が歴史と世界を見直すのである。

 コンスタンティヌス帝のキリスト教公認によって、国家とは異なる位相に存在していたキリスト教は制度化された宗教に変質した。そしてできあがったのは、ヘブライズム(ユダヤ教の一神教)、ヘレニズム(ギリシア古典哲学)、ラティニズム(ローマ法)の合金であるヨーロッパのキリスト教世界だ。この型に嵌まった窮屈な世界から人間を解放しようとした一人がモンタノスである。

 阿部氏は、田川健三やブルトマンの聖書研究、吉本隆明の共同幻想論、ドストエフスキーの『罪と罰』、幸徳秋水の『基督抹殺論』、北一輝の『国体論及び純正社会主義』などのさまざまなテキストと格闘しながら、人間が作ってきた歴史を読み直す。そして個人の死を超えた先にある世界を描き出す。〈個人が死ねば、魂の行方はたいがい因果応報とされるが、キリスト教はその間に「この世の終わり」という中二階を挟む。再臨したイエスとともに、復活した義人が地上を一〇〇〇年統治したのち、最後の審判で人を天国か地獄かに振り分けることになっている。モンタノスが預言した新エルサレムのペプーザ降臨は、黙示録の「千年王国」を再起動させたものにちがいない。〉(一七七頁)千年王国の思想は、人間の努力によって理想的な社会を構築することができるとする革命思想とは根本的に異なる。人間の努力で千年王国を作ることはできない。千年王国は到来するのである。それはある日、突然、やってくる。その日に備え、人間は、待ちつ急がなくてはならないのである。
 しかし、待つことができないのが人間の性だ。革命を創り出そうとして、かつての革命家であった明治維新の元老に殺された北一輝の例をあげる。〈維新革命未だ成らず————天皇制無化を含む第二維新を考えた北は、山縣が操るこの擬制を早くから討とうとしていた。それを資本制社会から取り残された村落共同体や下町共同体の営民の土俗的な欲求を人類史的普遍性に止揚しようとした「コミューン主義」だというのが渡辺京二の見立てである。しかしこのコミューンは。一九四八年に「一個の怪物がヨーロッパを徘徊している」(堺枯川・幸徳秋水共約)と誇大に宣言された前衛党のコミュニズムではない。毛沢東のような東洋的デスポットに拝跪し、収奪者かつメシアという双面神に従わざるをえないから、むしろ万象回帰の「社稷(コイノニア)」の別名であったに違いない〉(二七五頁)

 前衛党により導かれたソ連型共産主義がもたらしたのは、人間の解放とはほど遠い収容所群島だった。東西冷戦での資本主義陣営の勝利をフランシス・フクヤマのような新ヘーゲル主義者は「歴史の終わり」が到来したと勘違いした。しかし、歴史は終わらなかった。自由、民主主義、市場経済というような原理は、普遍性を帯びておらず、アメリカ帝国に都合が良いローカル・ルールに過ぎなかったことが中国の台頭によって明らかになった。普遍的な価値観というのは、単一のカトリック教会が全世界のキリスト教徒を糾合できるというのと同様、幻想に過ぎない。この幻想に足を掬われないようにするためにはモンタノス派の眼が必要になる。」

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