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大山顕「撮るあなたを撮るわたしを 11.触覚と視覚、前後と左右」(『群像 2023年5月号』)

☆mediopos-3072  2023.4.16

右と左は
視点で変わる

じぶんにとっての右は
他人から見たら「向かって左」になり
じぶんにとっての左は
他人から見たら「向かって右」になる

じぶんにとっての顔の左右を
そのまま見ることができるのが鏡だが
その鏡像は左右が反転しているわけではない

自分の右目はちゃんと「向かって右」にあり
自分の左目はちゃんと「向かって左」にある
カーブミラーやバックミラーなども
同様だからこそ役に立つ

ここで問題になるのは「左右」ではなく
「照らし合わせる視線の向き」である

鏡の中のじぶんの顔は
見ているこちらのほうを向いているから
左右が逆になっているのではなく
前後が逆になっているのである

左右が逆になっていると勘違いしてしまうのは
他人が見ている視線の向きで
じぶんの顔を見ようとするからだ

パスポートなどの顔写真は
他人が見ている視線だが
「自撮り写真」の多くは
じぶんでじぶんの視線で撮る
鏡に写った状態の写真だ

この論考でとくに興味深いのは
視覚と触覚についてのところだ

「触覚の最大の特徴は、触れたとたん、
触れた側と触れられた側の区別がなくなる、
というところにある」のだという

視覚はじぶんの視覚と他人の視覚が異なっているが
触覚ではその視点の違いがなくなってしまうのだ

また論考の最後に
「左翼/右翼」という区別についての面白い示唆がある

その用語ができたのは
フランス革命期の憲法制定国民議会においてで
保守派(右翼)の陣営が右側の席に
共和派(左翼)が左側の席に座ったことからきているのだが
この左右はは議長席からの右と左であって
議員たちからの左右でいえば
右翼が左に左翼が右になるという(笑)

そのように
左右や前後だけではなく
じぶんがどの視点から見ているか
(じぶんから見ているか他者から見ているか)
あるいは視点が意味をもたなくなっているか

そうしたことに意識的になれるだけでも
認識上のある種の混同や曖昧さを避けられる

■大山顕「撮るあなたを撮るわたしを 11.触覚と視覚、前後と左右」
 (『群像 2023年 05 月号』講談社 2023/4 所収)

(「マスクが知らせる顔の左右」より)

「マスクによって自分の顔をいつも感じるようになって発見したことがある。それは、右の頬は右にあって、左の頬は左にある、ということだ。当たり前じゃないか、とお思いだろう。しかし、ほんとうに当たり前だろうか。自分の顔を写真に撮ってもらうと、右の頬は向かって左にある。他人から見たぼくの頬の左右は、ぼくが感じている左右と逆だ。ぼくの右の頬が右側にあると知覚しているのは、世界中でぼくだけ。そして、自分の顔はじかに見ることができない。ということは、事実上、視覚的にはぼくの右の頬は左にある。

「PortraitPro」という顔写真を修正するためのアプリケーションは、左右の眼を個別の大きしたり形を変えたりすることができるが、その際「右目」となっているのは、写真の向かって右の目だ。つまり、被写体の人にとっての左目である。「Photoshop」の「顔立ちを調整」というフィルターでも同様だ。右に配置されたスライダーは向かって右の目を調整するためのもので、左にあるのが向かって左になっている。

 自分にとっての顔の左右をそのまま見ることができるのが鏡だ。鏡像は左右が反転していると言われるが、それは間違いだ。自分の右目がちゃんと向かって右にある。でなければ鏡を使って化粧ができないし、カーブミラーやバックミラーは役に立たない。」

「建築の図面に「天伏図」というものがある。屋内の天井に取り付けられる照明器具や空調機器、消防設備などの位置を示したものだ。いわば「天井の平面図」とでも呼ぶべきものだが、興味深いことにこの天伏図は天井を透明にして上から見下ろした状態で図示される。つまり鏡像だ。一見、これでは工事がしにくいように思える。なぜ反転しているのか。それは施行の現場で天伏図は床などに置かれるからだ。

 想像してみてほしい。たとえば、鏡像になっているその図面には、紙面の上方に窓、右に空調、左に照明があるとする。そこで、窓に向かって床に図面を置く。そのまま顔を天井に向ける。すると、ちゃんと向かって右に空調、左に照明があるはずだ。ゆかめんに置かれた図と天井を、作業現場でスムーズに対応させるには、鏡像になっていなければならない。図面と天井が向かい合っているからだ。要するに天伏図は化粧するときの鏡のようなものだ。天上面が顔のように思えてくる。」

(鏡:触覚→視覚の変換装置」より)

「鏡や天伏図から分かるのは、ここで問題になっているのは左右ではなく、照らし合わせる視線の向きだ、ということだ。天井が向いている向き、すなわち床面に向かって見るとき、鏡像こそが「正しい」図になる。要するに鏡や天伏図において反転しているのは前後であって左右ではない。そもそも鏡の中の自分の顔は、こっちを向いているように見えるのだから、前後が逆になっているのは明ら
かだ。なのにそうは思わず、左右が逆になっているのだと解釈してしまう。他人が見ているように自分の顔を見ようとするからだ。」

「SNSで見られる自撮り写真の多くが、鏡像の状態でポストされる。一緒に写っている文字が鏡文字になっている自撮り写真を見たことがあるだろう。多くの自撮り用アプリの初期設定は、鏡像のままフィルターをかけ、投稿するようになっている。いつも見慣れた顔は鏡に映った状態のものだし、フロントカメラを使って、ディスプレイで確認したものをそのまま投稿したいと思うのは自然なことだ。これらの鏡像自撮りポートレイトこそ、撮った本人が認識している自分の顔だ。

 スマホ普及以前の鏡像でない肖像写真が、いわば他人のための顔だった。他人の視線は自分の視線と向かい合っている。だから、証明写真は、自分が感じている自分の顔ではない。証明写真が「証明」しているのは、他人とっての顔である。だからパスポートなどの顔写真による身分証明は居心地が悪い。本来の持ち主であるはずの本人を埒外にしてしまうから。カメラマンという他人を必要とせず、自分で自分のために撮る自撮りは、写真の革命だと思う。

 マスクがぼくに感じさせる顔の左右は、鏡像と一致する。つまり、顔の左右に関して言えば、鏡は触覚を視覚に変換する装置だ。」

(「キスのとき人は目を閉じる」より)

「触覚の最大の特徴は、触れたとたん、触れた側と触れられた側の区別がなくなる、というところにある。見るものと見られるものの区別から逃れられない視覚と大きく違う。だから、マスクによって感じているのは、マスクの表面でもあるが同時に自分の顔でもある。感覚器がどちらにあるか、という考え方は視覚の特徴に慣らされた人間の発想だ。」

「触覚はほんらい視覚に置き換えることができない。それを無理やり変換すると「鏡像」が出現する。しかも、そこに問題になるのは視線の向き、つまり「前後」なのに、それを「左右」と取り違える。人間が、つい「左右」をいろいろなものにあてはめてしまうのは、それを恣意的に決めることができるからだ。前後は人間の目が一方向にしか付いていないので、自動的に決まってしまう。天伏図の置き場所の話にあったように、上下も人間が決めるものではない。重力に従うからだ。左右だけが、人間が地涌に扱うことができる。(・・・)

 そもそも、右の頬と左の頬が区別されるのは、その中間、鼻に中心線を引くからだ。しかしぼくが妻と並んで立って、ふたりの間に線を引き、ぼくは左、妻は右、となるとぼくの頬は両方とも左側に位置する。」

(「左翼は右に、右翼は左に座る」より)

「左右を決定する線はどこにでも引くことができる。ということは、線を引くためにあらかじめ何と何を左右に振り分けるかを決めておかなければならないということだ。」

「左翼/右翼」という区別がある。この言葉の由来は、フランス革命期の憲法制定国民議会にある。議会内で、いわゆる保守派の陣営が右側の席を占め、それと対抗する共和派が左側に陣取ったことからきている。ここで注意すべきなのは、この左右は議長席から見てのものだということだ。つまり、議長の方を向いた議員たちにとって、右翼陣営は左にいて、左翼陣営は右に座っていたのだ。」

「前後は人間の目が一方向にしか付いていないので、自動的に決まってしまう、と言ったが、ぼくとあなたの前後を同じにすることはできる。向かい合わずに、並んで立てばよい。そして、ふたりの間に線を引こうとする、向かい合った人間に言うべきなのだ。きみもこちらに来て並んでみてはどうか、と。」

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