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ダヴィッド・ル・ブルトン『歩き旅の愉しみ/風景との対話、自己との対話』  

☆mediopos2804  2022.7.22

本書『歩き旅の愉しみ』 を読みながら
その内容とは異なったかたちで
「自己との対話」をしてみることにした

未来を創造するためには
手足を使わなければならない

現在の思考は過去からくる
過去の手足が現在の思考になるのだ

手足を使うことは
作ること
そして歩くことだ

手先の不器用な哲学者はいない
というのは
かつて作り歩いたことによって
考えを深める潜在力を得たということ

そしていま
作り歩かないものは
やがてみずからを哲学者にすることはない

しかし哲学者は
哲学者のままでいることはできないだろう
哲学者こそがさらにその先の
創造することへとむかわなければならないからだ

そのために
未来へ向かう哲学者は
みずからのすべての感覚を
可能なかぎり広げ深めなければならない

すべての感覚は
潜在的な変容の可能性を秘めているからだ

しかしそれを
苦悩に充ちて行うことは
未来を創造することにはならない

作ることも
歩くことも
愉しく幸せなことでなければならない

作ることは
ほんらいの芸術家になることであり
歩くことは
ほんらいの旅人になることである

芸術家は作ることで世界を変容させ
旅人は歩くことで世界と対話し
みずからをも変容させてゆく

それはつねに
あらたな自己となるために
生まれ変わり続けるということだ
いまという永遠のなかで
はるかな時を超えながら

■ダヴィッド・ル・ブルトン(広野和美訳)
 『歩き旅の愉しみ/風景との対話、自己との対話』  
 (草思社 2022/7)

(「1 さあ、行こう」より)

「たとえ自宅のすぐ近くにある丘の中腹や土手から歩き始めたとしても、こんな場所があるのかと気づくために、ときには世界の果てまで回り道をする必要があるかもしれない。そんな場所はいつも数限りなく存在する。なぜなら、私たちは絶えずそんな場所を探し求めているのだから。どんな旅も場所探しのようなものだ。目にしたとたん、まさに求めていた場所だとはっきり感じ、喜びに満たされるような場所——。人は誰でも、そんな生まれ変われる場所を探している。つかむべきチャンスだという確信が、内なる磁石のように自分をぐいぐいと引っ張っていく。必ずしも遠くまで行く必要はない。

(…)

ある特定の場所で、ここはまさに自分を待ってくれていた場所だ、いつも頭の中で思い描いていた場所だ、と感じることがある。だからそれは、はじめての出会いではなく、再会だ。時間が遠ざかり、これまでのあらゆる個人的な物語がその瞬間に向かって終結する。光はもはや日常を日常を照らす光ではなく、私たちが回帰しようとする「もうひとつの世界」を感じさせる。美しく静謐な「真実の世界」への扉が開かれる。そこに漂う静寂は、おぼろな川となって旅人を包み込み、流れの中に取り込み、感覚を研ぎ澄まさせる。旅人は周囲の動きとぴったり共鳴する感情に包まれる。」

「歩くことは、強い意味で「存在する」ことだ。
 それは〝存在する(exister)〟の語源である〝ex-sistere〟が、「決まった場所から遠ざかる」「自分の外に出かける」という意味であることからも想起される。小径や散策路を探し求めて歩くのは、現代のポストモダン社会の基本的な価値に対する一種の「揶揄」でもある。」

(「3 リズム」より)

「ひとりの修道士が鳥のさえずりに魅せられ、時が過ぎるのも忘れて、どこまでもその鳥を追っていった。彼が修道院に戻ると、長年、放置されていた修道院は朽ち果てていた。修道士はそんなこととはつゆ知らず、何百年も歩きつづけていたのだ。
 歩き旅では、社会のリズムとは逆に、時間がゆっくりと進む。いや、むしろ自身の意思で、内なる時間に入りこむ。」

「歩き旅では到着することより、一足一足踏みしめて歩くことが重要で、どの一歩にも意味がある。到着することを気にかけず、どんな目的地もぜひとも到着しなければなたないということはない。」

(「5 自分の道を描く」より)

「旅人とは道を生み出す人のことだ。方向を示すラインの外側には、草木が生い茂り、動物たちの自然豊かな世界が至るところに広がっている。道が描く境界線を越えれば、外側の果てしない空間がはじまる。旅人はちょっとした冒険心かた、あるいは近道をして時間を節約しようと、思いつくままに標識のない空間に飛び込んでしまうことがある。そこには道路標識もルートを示す案内板も、設置が義務づけられていない。そんな場所で大切なのは、主体性だけだ、小径にとどまるか、草原や森に入って道に迷うか、それとも、休息や昼寝をするために用水路のほとりや木の下で足を止めるか、すべて自分で決めなければならない。」

(「6 厄介なこと」より)

「失意のどん底にいるときこそ、長い歩き旅をするといい。積み重なる不安、疲労、いつまでもやまない雨とは無縁の、穏やかで心地よい我が家のことを激しく思い浮かべながら。ゆっくりと歩を進めるうちに、憂鬱な気持ちが少しずつ消し去られる。そして心の振り子は、さまざまな道の自由を思いのままに味わう、幸せな驚きへと振れる。」

(「8 素晴らしい散策」より)

「小径や道を歩く旅人たちは、もはや以前と同じ人間ではない。以前の自分の特質は消し去られ、より幸せな自分に出会いに行く。そのために、しばらくの間、数え切れないほどの責任にがんじがらめにさせられるアイデンティティという制約を放棄する。自分を再発見し、開かれたばかりの世界に自分をさらけ出し、自分の存在というサイコロを改めて投げる。旅人は戸籍上の身分や社会的権力あるいはみじめな状況を捨て、誰に気兼ねすることもなく、ただ、同じ経験を共有する同じような人に出会うだけだ。ここでは、誰もが社会的身分から離れ、自分を来る示すこともある家庭、社会、友人に対する義務から解放される。彼らは、至るところから、どこからともなくやって来る人々であり、思いやりのある情熱的な人々だ・
 旅人は世の中の動きから距離を置き、今では、別のところにいる。」

(「9 風景は生きている」より)

「広大な空間を歩けば、広大な内なる宇宙とつながる。そこにはもはや境界はなく、一歩一歩踏み出すたびに別の領域へと導かれる。
 詩人のリルケは、ある手紙の中でそのことをこう表現している。「毎日を命に変えるこの無限の静寂、宇宙とのこの一体感、つまりこの空間、目には見えないのに人間が住むことができ、人間が数えきれないほどの存在に囲まれている空間」だと。
 自然のひとつの神秘的な生命だと考え、自分たちのいる場所からは、ほとんど感じ取れない呼吸に耳を傾けようとする人々がいる。このような昔ながらの霊感を自分なりに体験している旅人たちも、こうした感情を抱くことがある。」

(「10 孤独と同行者」より)

「孤独な歩き旅では、それがたとえ数時間でも、大自然の中にいるという感覚が研ぎ澄まされ、意識と動きが自由になる。さまざまな考えに耽っていても、何ものにも邪魔されることはない。視線も時間も瞑想も自分だけのものだ。気の向くままに、こちらの道に行こうが、あちらの道に行こうが、歩くのをやめて木陰で昼寝をしようが、どんどん先に進もうが、思う存分のんびり過ごそうが、思いのままだ。こうして長い時間、何ものにも邪魔されずに自分に集中すれば、ちょっとした予期せぬ出来事が起こらない限り、自分の真髄に入り込み、自分のことをそれまで以上に理解し、人生を変えることさえできる。」

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