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中村明一『日本音楽の構造』

☆mediopos3561(2024.8.19)

先日とりあげた
細野晴臣と中沢新一の対談
「精神の音楽を追い求めて」で
「昭和歌謡」についての話があった
(mediopos3555(2024.8.13))

「文藝春秋」で昭和歌謡ベスト3のアンケートがあり
その記事をみて細野晴臣も中沢新一も
「みんな本当の昭和歌謡を挙げていない」と
ショックを受けたという話

「自分が生まれる前の時代の音楽の豊かさは、
掘っても掘っても掘りきれない宝の山」で
「一人の人間が体験した、たかだか十数年の間の
音楽なんかを持ち上げて語っちゃいけない」という

先日とりあげたNODA・MAP第27回公演
『正三角関係』で使われている音楽も
作が野田秀樹(1955年生まれ)ということもあって
ザ・カーナビーツ「好きさ好きさ好きさ」
ザ・モップス「たどりついたらいつも雨ふり」
美空ひばり「お祭りマンボ」といった
「昭和」の音楽だったが

これから時代とともに
なんらかのかたちで継承されてきた日本音楽の
「音楽・言語・音響」が一体となっていた時代は
ますます遠ざかっていくことになりそうだ

そんななか現在では失われようとしている日本音楽について
あらためてとらえなおすことのできる
中村明一『日本音楽の構造』が刊行されている
中村氏はこれまでにも「倍音」や「密息」についての書著があったが
それらの研究が集大成された日本音楽論である

付論(A〜D)にもあるように
日本音楽は特に「密息」「倍音」「音階論」「リズム」
といった点においていわゆる西洋音楽とはずいぶん異なっている

明治のはじめ国家が西洋の音楽をとりいれ
西洋に追いつくことを第一とした音楽教育によって
「私たち日本人は、過去数千年来の伝統的な音楽による、
深く、細やかなコミュニケーションを失っていった」

「元来は、言語、音響と同じシステムでできている音楽」が
西洋音楽教育によって
「共同体としての言語・音楽・音響の
総合的なコミュニケーションを失ってしま」うことになったのである

「言語・音楽・音響をつないでいるのは倍音」だが
意味と倍音が切っても切れない関係にある日本語において
「その意味と倍音との関係を切って」しまうことで
「ダブル・バインド(二重拘束)」状態に陥っている

「言語の論理構造(意味)とその伝達のされ方(音響)の両面」を
結びつけているのは「倍音」で
日本語と音楽は「母音が主体であり、非整数次倍音を用いて
強調などの表現をするというシステム」をもっているために
「深い意味を持った言葉であっても、
日本の歌を西洋的な発声と唱法で歌うかぎり、
音響的な意味まで含めた全体を伝えることはできない」のである

本書ではとくにはふれられていないが
こうした西洋音楽の受容によって
(かつては中国からの漢字の受容によって)
生み出されてくる創造的な要素もあると思われ

日本語が漢字・平仮名・片仮名
さらにはアルファベット等まで柔軟に組み込みながら
変容していくように
音楽に関してもそうした側面にも注目が必要だろうが

だからこそ
「言語・音楽・音響をつないでいる」「倍音」を中心とした
日本音楽についてあらためて実践的体験的なかたちで
再受容していくことは急務ではないかと思われる

■中村明一『日本音楽の構造』(アルテスパブリッシング 2024/3)

**(「序」より)

*「図1「日本音楽の構造」を見てください。日本音楽が現在の形をとるようになった流れを整理したものです。図1の上半分から見ていきます。

 まず第一に、日本の人々は、さまざまな環境要素からa微小音量の聞き取り能力が上がった。そこからさらに倍音、c整数次倍音の変化に敏感になった。

 第二にそこから母音主体の言語が生まれた。それによって強調するときにはd非整数次倍音を使うようになった。そのために音楽において複雑な音響を使うようになった。

 第三に音楽・言語・音響の構造が同じになった。それにより境界を越えて言語、音響を取り込んだ複雑な音楽が成立した。

 第四に複雑な音響を扱うことにより、無意識下のコミュニケーションの割合が大きくなった。

 第五に真実性、社会同一性、集合的無意識など、人間の本質的な部分と深く関わる音楽になった。

 第六に人類の始原、本質を、演じ、聴く音楽となった。言い換えれば古代の脳を受け継いだ、

 ここからは下半分に移ります。

 第七にさまざまな環境的要素から、倍音に敏感になり、さらにeリズムの自由性を獲得した。

 第八に根源的要素を使うようになった。

 第九に各要素の複合性が進んだ。

 第十にそこから「間」の感覚が生まれた。

 第十一に根源的要素を使用することにより他のフィールドとの融合が進んだ。これは他の音楽、他のジャンル、他のメディア、果ては脳、宇宙に至るすべてとの融合を意味する。

 第十二に未来の音楽を指し示していること。

 第十三に日本の音楽は、人類の遙かなる過去を呼び戻して、未来を指し示す、時空を越える音楽と考えられること。」

「誤解しないでいただきたいことがあります。ここでは、日本音楽と他の世界お音楽の優劣を論じようとしているのではないということです。

**(「第一章 日本音楽の構造」〜「1 日本音楽の価値」」より)

*「じつは日本の音楽は、世界で最も特殊な音楽です。ここで言えることは、即座には分かりにくいものを扱っているということです。したがって、今までなかなか分析されてきませんでした。
言い換えれば、他の国の音楽と少し異なったシステムを持っているということです。「倍音」や自由なリズムの枠組みに重きを置いた音楽であること。「音楽・言語・音響」が一体となっていること。したがって、この現実世界から取り込んだ複雑な音響を扱うこと。それらは無意識の部分に影響を及ぼします。
自然と文化を統合し、過去と未来を結びつけ、さらにイメージの世界と現実の橋掛けとなるものと言えるでしょう。

 最終的には人間のコミュニケーションの、そして世界と関わるためのツールとして、これからの日本人の生き方に、さらには人類の進むべき方向に大きく関わってきます。
そういった意味では、日本の音楽は人類にとって未来の音楽とも言えるのです。」

**(「第三章 日本音楽の未来」〜「1 日本の音、概観これからの日本音楽/(10)ダブル・バインド」より)

*「現在、整数次倍音、非整数次倍音など、日本人にとって重要なコミュニケーションの要素が消えていこうとしている状況にあります。

 これは、明治の始めに国の音楽教育の方針を大きく変えたことにその原因があります。政治、経済、軍事などと同様に、西洋が優れているとし、それに追いつくことを第一とした。日本の音楽をばっさり切り捨て、西洋の音楽だけを教えるようにしたのです。

 明治から始まった西洋音楽主体の音楽教育により、私たち日本人は、過去数千年来の伝統的な音楽による、深く、細やかなコミュニケーションを失っていったのです。

 元来は、言語、音響と同じシステムでできている音楽により、また他の人とその音楽を共有することにより、ストレスにさらされた心をいやし、晴らしていた。祭りなどにより、コミュニケーションも取れ、精神的にも良い状態を保つことができたのです。」

「現在の日本は、社会的に多くの問題を抱えています。これらの理由としては、日本が音楽というコミュニケーションを失ってしまったことが大きな原因として考えられる。さらに言えば、音楽を失い、それにより共同体としての言語・音楽・音響の総合的なコミュニケーションを失ってしまったからではないでしょうか。」

*「言語・音楽・音響をつないでいるのは倍音ですが、日本語においては、意味と倍音が切っても切れない関係にある(・・・)。では、その意味と倍音との関係を切ってしまうと、どういうことが起きてくるでしょうか。

 一般的に、言語に使われる音響派意味から独立していると考えられてきました。それぞれの音を並べて言えば、その意味は論理的に確定する、という考え方です。たとえば、「交渉」という言葉は数式のように、「こ+う+しょ+う」で成立すると思いがちです。しかし、日本語の場合、そうとは言い切れない。高尚、校章、考証など同じ「こうしょう」という言葉は、分かっているだけで四十八もあるそうです。この違いを判断するのは、文脈、アクセント、そして日本語の場合。非常に重要になってくるのが、音質、つまり倍音構造なのです。」

*「西洋クラシック音楽の発声法では、日本の伝統的な発声法と比べて、口腔、喉を大きく開けることで、倍音の少ない声を出します。基音を力強く出して、複座ルナ和音を倍音どうしをぶつからせずにきれいに響かせるためには、有効な発声法です。ところが、この西洋のクラシック音楽に使われる発声は、日本語にはもともとありません。この発声法で日本語を話し、歌うと、音質、倍音構造の違いが聞き取れない。日本語の意味が理解できなくなるのです。

 日本語に翻訳されたオペラを見にいくと、強い違和感をもちます。」

*「日本語のオペラで、「助けて」とか「愛している」というような言葉を私たちが聴くと、頭の中ではどういうことが起こるのでしょうか。論理構造としては「助けて」という意味が入ってくる。ところが、音響はまったく「助けて」という状況ではない。「楽しいよ」といった平和すぎる音響が入ってくるわけです。すると、頭の中で、論理的な意味と、それを伝える音響が齟齬をきたします。頭の中え、まったく別の意味を持った二つのものが闘うことになる。相反する二つの意味をどう処理してよいかわからず、私たちは、くすぐったいような変な感じになってしまいます。これが、時として、日本語オペラ、ミュージカルの妙なおかしさ、違和感を引き起こすのです。」

「こうした現象を、心理学では「ダブル・バインド(二重拘束)」と言います。母親が「おいで」と優しい声で言うけれども、顔は拒否している、というように、二つのメッセージが矛盾している場合に起こると言われている。頭の中で、二つのものが齟齬をきたし、どう処理してよいのかわからなくなってしまう現象。日本語を、倍音の少ない発声で語り、歌うときには、このダブル・バインドが引き起こされているのです。グレゴリー・ベイトソンの著書『精神の生態学へ』には、そのような状況が続くと精神分裂症(統合失調症)に至る、ということも書かれています。(『精神の生態学へ』佐藤良明訳、岩波文庫、二〇二二年)。ある意味で、現代の日本の病理を表しているようにも思えます。」

*「言語において、このタイプのダブル・バインドをきたす状況は、言語の論理構造(意味)とその伝達のされ方(音響)の両面が、「言語」において強く結びついている、日本独特のものです。そして、それらを結びつけているのは倍音なのです。

 日本では、言語(日本語)と音楽は、同じシステムを持っている。母音が主体であり。非整数次倍音を用いて強調などの表現をするというシステムです。深い意味を持った言葉であっても、日本の歌を西洋的な発声と唱法で歌うかぎり、音響的な意味まで含めた全体を伝えることはできない。」

**(「第三章 日本音楽の未来」〜「2 これからの日本音楽/(3)日本の文化と音楽」より)

*「現在の世界は、情報が大量に早く飛び交う中で、異分野の壁が崩れ、多くのものが融合している。これから描きうる理想の社会は、人々が主体となった、文化、政治、経済などが融合した世界であると考えられます。多くの要素が複雑系として融合した世界。そして、それを最初に造る可能性のある国を考えるのならば、その第一番は日本と言えるでしょう。音楽については前述しましたが、日本では多くの事物が複雑系として、操作、運営されています。

 こうして見てくると、これからの日本をより良くしていくためには、日本のソフト、文化、さらにその文化の中心である、日本の音楽が鍵になってくると考えられます。社会構造が音楽を作り、音楽を含めた文化構造が製品、社会を造ります。

 日本の音楽は、人類が作り出した、全人類の宝です。日本の音楽がなくなるということは、全人類からこのような表現形式が、未来永劫失われてしまうということです。

 そう考えれば、日本音楽は世界の財産。日本音楽を失うことは人類にとって大きな損失です。」

**(「付論A 密息」より)

*「密息とは、骨盤を後ろに倒し、お腹を出して、膨らませたまま、横隔膜だけを上下させる呼吸法のこと。江戸時代までの日本人はみな、この呼吸法を使っていました。この呼吸法を行うことにより、身体が安定し、動きがなくなる、そしてさまざまな要素に敏感に、そうした身体性を背景に、日本の文化が強い特殊性を持つものとなったと考えられます。

**(「付論B 倍音」より)

*「音に含まれる成分の中で、周波数の最も小さいものを基本、その他のものを「倍音」と、一般的に呼んでいます。「倍音」は「上音」と呼ばれることもありますが、基音より下につくこともあるので、「部分音」といったほうがより正確です。」

「倍音の種類は、大きく二つに分けることができます。整数次倍音と非整数次倍音です。

 整数次倍音は、基音の振動数に対して整数倍の関係にあります。かつてが「倍音」という言葉はこの整数次倍音のみを指していた。」

「弦がどこかに振れてビリビリした音を発することがある。このように整数倍以外の何かしら不規則な振動により生起する倍音が、非整数次倍音です。」

**(「付論C 音階論」より)

*「長二度の音程で並んだ二つの音は上の音に、三音のときには真ん中の音に終止するという性質を持っています。

 ポイントは、音階という概念の前に、この二音、三音のシステムが、私たちの脳の中に存在するということ。したがって、二音、三音だけでできている音楽も、多くあります。

 そしてこれが次のテトラコルドにつながっていきます。」

「「テトラコルド」とは、四度の枠組みということです。テトラが四、コルドが枠=まとまりという意味。コルドは和音という意味のコードにもつながる。」

「西洋における「音階」と同様なシステムが日本にもあると考えがちですが、日本では、むしろこのテトラコルドが基本的なシステムと考えられます。音階より、テトラコルドがさまざまな組み合わせを作っていくと考えたほうが説明がつく部分が多く見られます。

 テトラコルドには次の四種のものが見られます。

 沖縄、民謡、律、都節。」

「このテトラコルドが積み重なって音階を作っていきます。:

**(「付論D リズム

*「パルス=等価な刺激が等間隔で再起するもの
 拍(beat)=アクセントのあるパルスとアクセントのないパルスが存在するときにパルス
 拍子=周期的に「拍」が繰り返されるもの
 リズム=拍子がグループ化されたもの

 これらは西洋の学者が定義したものです。

 これに対し、日本音楽では、「パルス」以前の状態もよく使われる。自由リズム、等間隔ではない伸縮リズム、付加リズム、変拍子といったものが多くの部分を占めています。こうなると、リズムの定義自体が怪しくなってくる。「自由リズム」「伸縮リズム」という言葉自体が、自己矛盾を起こしてきます。

 現代の私たちにとって、矛盾がないようにこれらを再定義すれば、次の要因なるでしょう。パルスは元来「脈」という意味ですが、ここでは一つの脈の存在と捉えます。

 パルス=単なる音響的刺激
 拍(beat)=パルスい何らかの規則性があるもの
 拍子=「拍」のまとまり
 リズム=音の時間的組織」

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