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細川瑠璃「花粉から花序へ/「個」をめぐるロシア思想とノヴァーリス」  (『思想 2022.6 No.1178』)

☆mediopos2769  2022.6.17

mediopos2764(2022.6.12)の
細川瑠璃「新たなる中世」でとりあげた
パーヴェル・フロレンスキイは
ノヴァーリスから影響を受け
その思想と共振しそれを展開させていた

ノヴァーリスと二十世紀ロシア
そして「個」をめぐる思想

前回と同じく細川瑠璃氏の
「花粉から花序へ」という
大変興味深い内容の小論である

ノヴァーリスには
「花粉」という断章集があったが
フロレンスキイには
「花序」(花の並び)という「具体的形而上学」があり
それはどちらも「ポエジー」として表現されている

ノヴァーリスの「花粉」がロシアまで届き
それが「花序」へと展開していったということができる

二十世紀初頭のロシアにおいて
ノヴァーリスが注目されるようになったのには
文学者のイヴァーノフが深く与っているようだが
イヴァーノフはノヴァーリスの思想に
教会と信者の関係に代わる新たな個の在り方である
本来的な共同・全一性の萌芽を見たのだという

フロレンスキイの思想もまた
個をいかに捉えるかという
当時のロシア宗教思想に共通する問いへの返答でもあった

mediopos2764でフロレンスキイの
「イコン」の「逆遠近法」における
「双方向性」をとりあげたが
ミクロコスモスとマクロコスモスにおいても
相互の入れ替え可能性が示唆されている

入れ替え可能でありながら
両者はそれぞれ「一個の」集合であることをやめない
双方向的でありながら
「個」は「個」であるということである

自然神秘思想からくる「存在の大連鎖」の問題に関しても
ミクロコスモス・マクロコスモスの照応における
「流出や融合・融解」を起源とするのではなく
存在者の各段階における
「境界による両者の断絶と接続という形」
「連続」ではなく「断絶」そして「接続」である

それを音楽的に表現すれば
個と個は連続せず「断絶」しているがゆえに
両者が出合うということは
「リズム」において「接続」する
つまり「リズムが合う」ということでもある

個と個は
「境界」によって閉じられ
「一個」として不連続であるが
「境界によって隔てられつつも結び合わされ」
むしろ「境界において開かれ」
双方のリズムの一致することで
それが「現実」となる

世界はそうした
「体系なき体系」である
そんな「花序」として「記述」される

「それぞれの花はただ花として存在する」が
「一つの統一」と「世界としての相対」が
「花序性」において一致するとき
その「花序」が「現実」となるというのである
そしてそれは「体系」としてではなく
「ポエジー」によって展開する

その「体系なき体系」としての「花序」は
ノヴァーリスの「断章」という形式と共振している
まさにノヴァーリスの「花粉」が
フロレンスキイの「花序」として展開しているのだ

■細川瑠璃「花粉から花序へ/「個」をめぐるロシア思想とノヴァーリス」
 (『思想 2022.6 No.1178』岩波書店 2022/6 所収)

「ノヴァーリスと二十世紀ロシアの幾人かの思想家たちの間には、百年という歳月を経て、不思議な呼応とも言うべきものがあり、ノヴァーリスの思想は、二十世紀初頭のロシアの宗教思想、とりわけその「個」をめぐる思想において、いくつもの重要なインスピレーションを与えている。本稿ではまず、ノヴァーリスの思想がなぜこの時代のロシアに届き、それが当時の思想家たちにどのように受け止められのかという点に言及したのち、パーヴェル・フロレンスキイ(一八八二−一九三七)の思想との関わりを取り上げる。フロレンスキイは二十世紀ロシアを代表する思想家の一人で、モスクワ大学で不連続関数や集合論といった当時の最先端の数学研究に携わった経歴を持ち、ロシア正教の司祭を務める傍ら、技術者としてソヴィエトの電化時事業に関わり、国立高等芸術工芸工房(ヴフテマス)では空間論の講義を受け持ってもいた。フロレンスキイの思想は、神学から数学、科学、言語論、美術論等に至るまで多岐にわたるが、その主要な関心は、あらゆる学問・文化において「個」を定立することにあった。」

(「ロシアにおけるノヴァーリス」より)

「二十世紀初頭になってようやく、ノヴァーリスは詩と思索の両面から注目され、評価されるようになるのだが、それには(…)文学者ヴァチェスラフ・イヴァーノフの貢献が大きい。イヴァーノフ(一八六六−一九四九)は、神秘主義的傾向の強い象徴主義詩人であると同時に高名な文献激写でもあり、ドイツ滞在中にノヴァーリスの作品に触れる機会があった。ペテルスブルクで象徴主義のサロン「塔」を主宰していたイヴァーノフは、同時代の詩人や文学者たちに強い影響力を持っており、イヴァーノフがノヴァーリスを高く評価したことが、この時期のノヴァーリスの受容の在りようを決定したと言っても過言ではない。」

「イヴァーノフはノヴァーリスの思想に、従来のキリスト理解、翻って人間理解に代わる新たな個の在り方を、そして従来の教会と信者の関係に代わる新たな、かつ本来的な共同——全一性、ソボールノスチの萌芽を見たのであった。中井(章子)は、ノヴァーリスの思想の特徴が「個」の重視にあると指摘しているが、この個というテーマほど、二十世紀初頭のロシアで繰り返し論じられたものもない。当時のロシア思想において、個をどのように捉えるかという問題は、一方では西欧近代の、専ら利己的な意味で解せられる個人主義に対する反発と反省の中で、他方ではキリスト教の文脈を汲む人格(リーチノスチ)の問題として、また国家や民族、あるいは世界や宇宙といった「全体」との関係において議論されていた。フロレンスキイの思想もまた、個をいかに捉えるかという、この時期のロシア宗教思想に共通する問いへの返答という側面を多分に持っている。」

(「ミクロコスモスとマクロコスモス(あるいは「表面」の深み)」より)

「フロレンスキイが「人間と自然は相似しており、内的には同一である。人間は小さな世界、ミクロコスモスである。我々の周囲は大きな世界、マクロコスモスである」と述べるとき、それは人間を宇宙の縮図と捉える、ミクロコスモス・マクロコスモスの一般的な概念と等しい。しかしフロレンスキイはさらに進んで。この対応関係における相互の入れ替え可能性を示唆している。(…)

 直感的には人間は自然の一部であるが、一方で、フロレンスキイの考えでは自然も人間も無限であって。自然は「人間の投影」、つまり人間から自然へ、また自然から人間へ、一対一の対応がつけられるものであり、両者は同等の複雑さ=等しい濃度を持っている。無限集合の真部分集合がもとの集合と等濃である場合としては、たとえば有理数全体の集合と自然数全体の集合があるが、こと人間と自然・世界の関係においては、両者の等しい無限性ゆえに、いずれがいずれの部分ともなりうるとフロレンスキイは考える。

 だがともに無限であるミクロコスモスとマクロコスモスは、相互に入れ替えが可能であるとしても、一方が他方に跡形もなく溶け込むのではなく、たとえ「互いが互いの部分」となろうとも、その都度において一方はミクロコスモス、他方はマクロコスモスであるのであって、両者はそれぞれ「一個の」集合であることをやめない。それは両者の間に、双方を一個の集合と捉えることを可能にする厳然たる境界があるからであり、フロレンスキイはこの境界を身体と呼ぶ。身体をこのように捉えるとき、身体は人間にとっての外皮であるだけでなく、自然・世界にとっての外皮である。」

「身体の境界性に注目するフロレンスキイには、表面の深みとも言うべきものへの志向がある。これはフロレンスキイの思想全般に及んでおり、本稿では立ち入る余裕がないが、たとえばフロレンスキイのイコン論(…)の主題でもある。興味深いのは、フロレンスキイがこのように身体・皮膚を論じる際に、ノヴァーリスの次の言葉を援用していることだ。

  外的なものは、神秘状態に高められた内的なものである。(おそらくはこの逆も言えるだろう)

 フロレンスキイはこの一文を、内と外との入れ替え可能性を説いたものと受け止めた。内が外であり、外が内であり、内はその内奥ではなくむしろその最も外側において自らを表す。」

(「「存在の大連鎖」の問題」より)

「この時期のロシアにおけるノヴァーリス受容は自然神秘思想への関心と連動している。ルネサンス期に再発見された新プラトン主義やヘルメス思想の流れを汲み、ベーメにおいて体系化された自然神秘思想を、ノヴァーリスは「新たな自然学」構築の拠り所の一つとしていた。だが、フロレンスキイには自然神秘思想に手放しで与することができない事情がある。それは「存在の大連鎖」の問題である。

 「存在の大連鎖」は、鉱物から人間に至るまで、すべての存在が階層を成しつつ一本の鎖として繋がっているという概念で、古くはプラトンにまで遡り、自然神秘思想を中心としてヨーロッパの思想・文化に繰り返し現れてきた。この「存在の連鎖」においては、連鎖のすべての段階は存在物によって充填されていなければならないという「充満の原理」が働くが、この各段階間に飛躍を認めない連続性こそ、フロレンスキイが自身の全思想を通じて批判してきたものである。」

「フロレンスキイには、有機的でありつつも、不連続に基づくような宇宙像を提示する必要があった。それゆえに、フロレンスキイがミクロコスモス・マクロコスモスの照応を唱える際にも、その照応は流出や融合・融解を起源とはせず、境界による両者の断絶と接続という形をとるのである。」

(「すべての方法はリズムである」より)

「「存在の大連鎖」の考えはノヴァーリスにも流れているのだが、フロレンスキイにとってノヴァーリスの思想は、それ以上に個の不連続な在り方に示唆を与えるものであった。

 フロレンスキイは、ノヴァーリスの「すべての方法はリズムである」という言葉を反芻する。(…)

   「すべての方法はリズムである」とノヴァーリスが言っていたように、現実の把握とは、精神の鼓動のリズムが合うことであり、それは認識される者から発せされたリズムに呼応して生じる。言い換えれば、認識の方法は認識される者によって決まるのである。

 認識のきっかけは常に、彼方にあり、両者が出合うということはリズムが合うことである。ただし、いずれが此方/彼方であるかというのは実は些末な問題であって、ミクロコスモス・マクロコスモスの関係において観たように、両者は入れ替えが可能である。それはちょうど、イコノスタスを前にしてイコンを見る我々が、同時にイコノスタスの奥にいる神からも見られているように。重要であるのは、双方のリズムが合っていくこと、一つの新たなリズムになること、それこそが「現実」であることだ。

(「花序へ」より)

「境界によってひとまずは閉じられ、「一個」となっているそれぞれに不連続な存在は、しかし完全にばらばらに、他と無関係にあるのではなく、他と境界によって隔てられつつも結び合わされ、境界において開かれてもいる。現実とはそのように境界を共有する双方に、リズムの一致するところであり、世界はその総体である——しかしフロレンスキイにとって、世界をそのようなものであると単に言うだけでは十分ではない。認識において主体と客体は入れ替え可能であり、表裏一体であるからには、あらゆる事実には、それに対応する記述がなければならばい。むしろ事実は、記述と合うことで初めて「現実」となる。

(…)

「フロレンスキイは個に基づく記述の体系を「具体的形而上学」と名づけ、自身のすべての思索・著書をこのもとに配置することで、この問題の解決を試みている。体系と言いはするものの、それはいわば体系なき体系であり、そのような体系をフロレンスキイは「花序」と呼ぶ。

(…)

「花序」とは花のつく並びである。合理性のもとで統一・普遍化すること(…)においては見落とされ、取り零されてしまう。それぞれの存在の個別具体性を損なわずに記述しようとするとき、それら記述は花序的統一を成していなければならないとフロレンスキイは考える。それぞれの花はただ花として存在する、この意味で一つ一つの記述は、その対象と同等に不連続であり、自らのもとで閉じている。だが個々の花に先立つ大いなる花序がなければ、花びらは花びらですらなく、それらは「論理的図式」とは全く異なるけれども、しかし一つの統一を、世界としての相対を成してもいる。ここで花序とは、記述体系の花序性でもあり、記述対象でもある世界の花序性でもある。両者が花序性において一致するときに初めて、その花序が「現実」となるのである。

 「具体的形而上学」がその存在意義において普遍への志向を放棄するとき、それはポエジーを軸として展開されることになる。

  体系的な教科書ではなく、ポエジーを。使徒パウロはパラグラフ・ライティングなどしなかった。見出しに従って内容を配置することは、聖書の本質の歪曲である。音楽的本質は、内的に深く有機的で、それはシステム的ではない。

 このような学の在り方を、ノヴァーリスもまた夢想したのであった。『花粉』をはじめとするノヴァーリスの思想的断章は、彼の早すぎた死ゆえに断章のまま残されたのではなく、断章集という形式はノヴァーリスが初めから構想していたものである。ノヴァーリスは断章集において、ある支配的な観念に他が従属するような体系ではなく、様々な観念が並び立ち息づくような「観念のパラダイス」を表現することを試み、未来のすべての学問と芸術の目指すところを、フロレンスキイと同じ「ポエジー」という言葉で呼んだ。(…)

 その方法は、フロレンスキイにおいては「具体的形而上学」であり、ノヴァーリスにとっては断章集であった。このようなフロレンスキイとノヴァーリスの関係を見るとき、フロレンスキイの花序は、ノヴァーリスの思索の花粉がロシアまで届いた結果であり、それはわかりやすく言えばノヴァーリスからフロレンスキイへの影響であるということになるのだが、より正確には、これもまた、フロレンスキイとノヴァーリス、双方のリズムがふと合ったということである。」

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