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カミラ・パン『博士が解いた人付き合いの「トリセツ」』

☆mediopos3188  2023.8.10

著者のカミラ・パンは
ADHD(注意欠如・多動性障害)
ASD(自閉症スペクトラム障害)
GAD(全般性不安障害)のある生化学博士である

「地球での生活が始まってから5年目のこと、
私は間違った場所に着陸したのではないかと
思い始めていた」
「言葉は理解できるのに伝わらない。
仲間の人間たちと同じ外見をしているのに、
本質的な特徴はまったく違う」・・・と

「普通」がわからないがゆえに
科学のレンズを通してみることで
人間やその社会的慣習といった「普通」を探求し
自分のための「人間の取り扱い説明書」を書き上げる

ぼくは著者のように生まれてはいないけれど
ずいぶんと「違和感」をもって生きてきた
かろうじてまわりに合わせることはできていて
とくに大きな問題はないものの
どこか「間違った場所」に来てしまった感も強くある

「科学」というレンズを通してではなかったけれど
おなじように「人間の取り扱い説明書」的なものを
じぶんなりに少しずつ意識化しながら
生きてこざるをえなかったので
本書『博士が解いた人付き合いの「トリセツ」』は
深く頷けるところが多分にあった

そのなかから
基本的な視点が示唆されている「第1章」
「機械学習と意思決定/
箱形思考から抜け出して、型にはまらず考えるには」を
とりあげることにしたい

コンピューターの「機械学習」には
「教師あり学習」と「教師なし学習」があるという

「教師あり学習」は
「正しい答え」ありきの
「高速な仕分け・ラベル付けマシン」であるのに対し
「教師なし学習」は
「答えがどうあるべきかという
見解をもたない状態でスタート」し
「データに固有のパターンを
見つけ出すようプログラムされる」アルゴリズムである

それに対応する
わたしたち人間の思考方法が
それぞれ「箱思考」と「木思考」である

「箱思考」は基本的に正誤の二択による判断で
選択肢が明確に提示されている場合にしか機能しない

世の中のほとんどの思考パターンはこの「箱思考」で
箱のなかで自足しているときは安心できるが
箱の外にでて「教師なし」で学習することはできない
つまり「箱の外」は存在しないことになる
一見「科学的」とか「エビデンスがある」とか言いながら
その実まったくそれは非科学的で
「箱内」のエビデンスにしか依ることはできない

それに対して「木思考」は
有機的に生長する木のように「たくさんの枝があって、
葉が房(クラスター)となって生い茂り、
そこにはあらゆる種類の複雑さが隠れている」
そのためときに制御不能となったり
「結論のない袋小路や、完全な迷宮」となったりもするが
それでもそれは
矛盾と予測不可能性とランダム性のもとにある
フラクタル性をもった
ほんらいの「科学」を可能にする生きた「思考」である

「箱思考」も「箱」の内で可能なときは必要なのだが
そこで「エラー」が起こってしまったとき
「木思考」がなければ現実という複雑さには
対応することができなくなる

著者にとって「科学」は
「この世界を見るためのレンズ」であり
「科学がなければ、
扉は私の前で閉ざされたままだっただろう」という

そして本書では第2章以降
「がん細胞」からチームワークを学び
体内のたんぱく質から
人間の関係性や相互作用についての新しい視点を学び
ゲーム理論で礼儀作法を学ぶなど
さまざまなテーマが展開されているように
興味深い「トリセツ」となっているのだが

現代においてはともすれば
「科学者」たちの多くが
政治や経済の力によるバイアスの前で
極めて非科学的にさえなってしまっているけれど

本書はほんらいの「科学」という「レンズ」を通し
人間理解のための新鮮な「トリセツ」として
「普通」とされている「常識」の「外」へと
わたしたちを導く貴重な視点を提供してくれる

■カミラ・パン(藤崎百合訳)
 『博士が解いた人付き合いの「トリセツ」』
 (文響社 2023/8)

(「はじめに」より)

「地球での生活が始まってから5年目のこと、私は間違った場所に着陸したのではないかと思い始めていた。降りる惑星を間違えてしまったのに違いない。自分と同じ種と暮らしているのに、よそ者のような気分がしていた。言葉は理解できるのに伝わらない。仲間の人間たちと同じ外見をしているのに、本質的な特徴はまったく違う。」

「自分がこの惑星に放り込まれたのには、なにか理由があるに違いないとわかっていた。年月が経ち、自分の状態について認識が深まり、科学への関心も高まると、これこそが理由なのだと気がついた。これまでずっと必要としてきた取り扱い説明書を、自分が、書けばいいのだ。人間を理解できない私のような人たちに向けて、人間について説明する本を書こう。人間を理解していると思っている人たちが、違う物の見方をするのにも役立つに違いない。アウトサイダーのための人生の案内所。それが。この本だ。」

「私は自分のことを「普通」だと感じたことがないのだが、それは私が「普通」ではないからだ。私にはASD(自閉症スペクトラム障害)、ADHD(注意欠如・多動性障害)、GAD(全般性不安障害)がある。そんなふうに感じることがよくある。自閉症であるとは、コントローラーなしにコンピューターゲームをしたり、フライパンなどの調理器具なしで料理をしたり、音符なしに演奏するようなものだ。」

「このような生活はイライラすることが多い反面、完全に解き放たれてもいる。(・・・)ASDによって、私は人と違った視点で世界を見ることができる。それも、先入観なしに。また、GADとADHDによって、極度に集中しては飽きてを繰り返しながら情報を高速で処理できるようになり、自分が置かれた状況から生じうるありとあらゆる可能性を想像できるようになった。私のニューロダイバーシティは、人間であることの意味についてたくさんの疑問を生み出したが、それに答える力を与えてもくれたのだ。」

「科学は、この世界を見るためのレンズを私にくれた。この惑星「ヒューマン」での冒険中に遭遇した、ヒューマンたちの行動の最も謎めいた側面の多くを説明してくれるレンズだ。(・・・)効果的な連携のあり方について知りたければ、チーム育成のどんなプログラムよりも、がん細胞から多くを学ぶことができる。体内のたんぱく質は、人間の関係性や相互作用についての新しい視点を与えてくれる。もっと整理された方法で意思決定を行いたければ、機械学習が助けになる。熱力学は、私たちの暮らしに秩序を生み出すための努力について説明してくれるし、ゲーム理論は礼儀作法の迷路を抜けるための道しるべとなる。そして、進化論によって、人それぞれの意見がなぜこれほどまでにかけ離れたものになるのかがわかるのだ。科学的な原理を理解することで、私たちは、生きることをありのままで理解できるようになる。つまり、恐怖の源や、人間関係の基礎、記憶の働き、意見が食い違う原因、感情の不安定さ、自分が他者の助けを借りずにすむ範囲について、わかるようになるのだ。
 科学とは世界への扉を開く鍵である。科学がなければ、扉は私の前で閉ざされたままだっただろう。神経学的に多様であろうと定型であろうと、すべての人にとって、科学が教えてくれることは重要だと私は信じている。人をよりよく理解したいと思うのなら、人の仕組み、つまり人体や自然界の働きを実際に知らなくてはならない。」

「私は、人間を、そして人間の行動を、外国語として学ばなければならなかたt。その過程で、その言語を流暢に話せると主張する人たちにも、語彙や理解に欠けた部分があるのだとわかってきた。この本は、私が必要に迫られてつくった取り扱い説明書だけれど、すべての人にとって、自身の生活を決定づける人間関係や個人的なジレンマ、社会的状況をよりよく理解するための助けになると新じている。
 物心ついたときからずっと、私の人生はあるひとつの問いによって支配されてきた。それは、他者とつながるようにできていない人間が、どうすれば他者とつながれるのか、という問いだ。私は、愛や共感や信頼がどのような感覚なのかを、本能的には理解できない人間である。なのに、どうしても理解したいのだ。そこで私は、自分を材料にして生きた科学実験をすることにした。そうして、完全には人間になれなくとも、少なくともなんらかの機能を果たせて、自分が属する種の一員になれそうな、言葉を、行動を。考え方を。試し続けている。」

(「第1章 機械学習と意思決定/箱形思考から抜け出して、型にはまらず考えるには」より)

「人間の考え方は、コンピュータープログラムの動作の仕方と大差ない(・・・)。
 私たちは皆、スーパーコンピューターを頭に詰めて持ち歩いている。なのに、私たちは日常生活での決断でつまづくことがある。(・・・)「何を考えればいいかもわからなくて」「情報や選択肢がありすぎて決められないんだよね」などと言ったりする。
 脳という強力な機械を好きなように使えるというのに、これではあんまりだ。意思決定の方法を改善したいのならば、この専用器官をもっと有効活用しなければ。
 機械は人間の脳の代用品としては貧弱かもしれない。脳に具わっている創造性や適応能力、感情を理解する機能などはないのだから。しかし、思考と意思決定のより効果的な方法について、機械はたくさんのことを教えてくれる。機械学習の科学を学ぶことで、情報を処理するさまざまな方法を理解して、意思決定の手法を細かく調整できるようになる。」

「私たち人間に必要なのは、機械のように物事を明晰に見る力と。単純化も簡略化もできないような事柄をもっと複雑な方法で考えようとする積極的な姿勢である。」

※「そもそも機械学習とは?」より

「「機械学習」については、最近よく取り上げられるようになった。やはり4文字の「人工知能」(AI)との関連で聞いたことはあるかもしれない。次に迫る大きなSF的悪夢のように言われることも多い。しかし、人類が知る強力なコンピューター、つまりあなたの頭のなかに納まっているものと比べれば、機械学習なんて大海の一滴といったところだ。意識的な思考、直感、想像力といった能力を備えている脳は、これまでにつくられたどんなコンピュータープログラムとも一線を画している。アルゴリズムは、膨大な量のデータを高速で処理することにかけれ、そしれ標的にするようプログラムされた傾向やパターンを識別する能力にかけて、とてつもなくパワフルだ。反面。その能力は悲しいほど限定的でもある。
(・・・)
 人間の脳からすれば取るに足りないけれど、こういった基本的なコンピューター・プログラムにも、私たちが脳というコンピューターをもっと有効に活用するためのヒントが隠れている。その方法を理解するために、機械学習で最も一般的な2つの方法、教師あり学習と、教師なし学習を見ていこう。」

「教師あり学習は、特定の答えが念頭にあって、それを達成するようなアルゴリズムをプログラムするときに使われる。(・・・)「教師あり」と呼ばれるのは、プログラマーであるあなたが、あるべき答えを知っているから。難しいには、いろいろな可能性をもつ多種多様な入力から、常に正しい答えに到達するようなアルゴリズムをいかにつくるかという部分だ。(・・・)
 この点を支えるのが、「分類」(classification)という、教師あり学習の主な利用法のひとつである。分類をさせるときには、基本的に、アルゴリズムに正しくレベル付けをすることを教え、実世界のありとあらゆる状況において正しくレベル付けできるという信頼性を(・・・)示すように努める。教師あり学習にとってつくられるアルゴリズムはとても効率的に機能し、あらゆる種類の応用例があり。しかし、本質的には、使えば遣うほど性能がよくなる、ものすごく高速な仕分け・ラベル付けマシンにすぎない。」

「これと対照的に、教師なし学習は、答えがどうあるべきかという見解をもたない状態でスタートする。アルゴリズムは、正しい答えを追求せよといった指示を受けない。その代わり、データにアプローチして、そのデータに固有のパターンを見つけ出すようプログラムされる。(・・・)
 私の仕事は免疫系の細胞構造の研究だが、教師なし機械学習を使って、細胞集団におけるパターンを抽出している。なんらかのパターンを道蹴出したいが、どんなパターンでどこにあるのかがわかっていないので、教師なしの手法を使っているわけだ。
 これは「クラスタリング」(clustering)といって、共通する特徴やテーマに基づく、データのグループ分けである。(・・・)答えありきで結論を押しつけるのではなく、データそのものに答えを抽出させたい場合にも用いられる。」

※「箱を使った考え方と、木のような考え方」より

「私たち人間が決断を下す場合にも、先ほどの説明と同じような選択肢がある。ひとつは、可能性のある結論を好きなだけ想定しておいて、そのなかから選ぶ方法だ。問題へのアプローチはトップダウン型で、望ましい答えから出発する。つまり。教師ありアルゴリズムにかなり似ている。たとえば、企業が求職者を、一定の資格があるか、最底辺の経験があるかといった条件に基づいて判断するような形だ。一方で、下から順に証拠を集めながら上昇し、詳細を確認しながら、結論を有機的に浮かび上がらせる方法もある。こちらは教師なしのアプローチだ。(・・・)このボトムアップ型のアプローチは、自閉症スペクトラム障害をもつ人にとって、最初の関門となる。なぜなら私たちは、結論を出すために、詳細な情報を正確に分類することを生きがいにしているからだ。実際のところ、結論のようなものに近づく前に、ありとあらゆる情報と選択肢を確認しなければ気がすまない。
 これらのアプローチは、箱の組み立て(教師ありの意思決定)と、木を育てること(教師なしの意思決定)にたとえるとわかりやすいだろう。」

「箱というのは心強い選択肢だ。入手可能な証拠や代替案を囲ってきれいな形に整えるので、すべての側面を見ることができるし、選びやすくもなる。箱を組み立てて、積み上げて、その上に立ったりもできる。矛盾はなく、一貫性があり、論理的だ。これはきちんと整理された思考法で、どのような選択肢があるのかがわかるようになっている。
 それに対して、木は有機的に生長し、場合によっては制御不能となる。たくさんの枝があって、葉が房(クラスター)となって生い茂り、そこにはあらゆる種類の複雑さが隠れている。木は、私たちをありとあらゆる方向につれていってくれるのだが、結論のない袋小路や、完全な迷宮が待ち受けていることも多い。
 では、箱と木との、どちらがいいのだろうか? 本当のところは両方が必要なのだけれど、現実にはほとんどの人が箱のなかにはまり込み、決定木の最初枝にすら辿りつけない。
 以前の私は確実にそんなひとりで、根っからの「箱思考」タイプだった。」

「箱思考に従っていると、まるでハムスターとネズミを見わけるアルゴリズムのように、自分が行うあらゆる判断に対して、100%正しいか間違っているかに分けたうえでラベル付けをするようになってしまう。その結果、ニュアンスや、どちらとも言えないグレーな領域、まだよく考えていないことや見つかっていないことの余地がなくなる。(・・・)
 箱思考はまた、根本的には非科学的である。結論が、手に入ったデータを指し示すのだから(本来はその逆であるべきなのに)。自分はエビデンスを検討するまでもなく人生のあらゆる問題の答えがわかると心底信じているのでない限り、箱思考によって、よい決定を下しための能力は制限される。選択肢が明確に提示されているのは気分がよいものだが。それはおそらく誤った安心感を得ているのだ。
 だからこそ、私たちは、意思決定をする際に普段浸かっている箱の外に出て考えて、教師なしアルゴリズムからいくつかのことを学ぶ必要がある(なんだったら子どもの頃に戻って木登りするおんもいいかもしれない)。」

※「エラーを受け入れよう」より

「意思決定にこのアプローチを採用して。木思考や教師なしアプローチによってカオスと複雑性を自分のメンタルモデルに組み込むことで、私たちは、手に入るエビデンスに基づいて事象を予測し意思決定を行うために、さらに現実的な手法の開発を始められる。」

「エラーに対して反射的に過剰反応するのは、箱思考の主な欠点のひとつだ。教師ありアルゴリズムと同じように行動すると、私たちは、すべてのデータポイントや状況に対して、二択の答えを用意してそのどちらかを押しつけることになる。」

「現実は二択などではなくもっと微妙なので、問題を考えて判断を下すための技術もまた、もっと微妙でなくてはならない。箱を使うと、何か問題が起きたときにどこにも行き場がなくなる。唯一できるのはその箱に「失敗」というラベルを付けることだけで、最初からやり直しだ。木を使う場合は、あなたは代替の枝で囲まれている。つまり、あなたが頭のなかで思い描いていた、先へと進むルートがいくつもある。
(・・・(
 木のような思考が重要なのは。私たちを取り巻く複雑さを反映しているからだが、同時に立ち直る力を与えてくれるからでもある。何百年も前から生えている樫の木の大木のように、決定木はどんな天候にも耐えて立ち続ける。箱が踏まれて壊れて打ち捨てられた、そのずっと後までも、」

(「訳者あとがき」より)

「カミラ・パンは8歳でASD、26歳でADHDと診断された。幼い頃から自分は間違った惑星に降りたよそ者だと感じ、「人間の取り扱い説明書」があればと願った。強い疎外感を抱えて成長したが、やがて科学に慰めと情熱を見いだす。科学のレンズを(それも広範な分野のたくさんのレンズを)とおして見ることで、外の視点から、人間の社会的慣習を、そして人間の本質を探究するようになった。その試みをまとめた本書は、自分のための「人間の取り扱い説明書」であるだけでなく、家族のための本であり、科学へのラブレターでもあるという。」

「本書を支えるのは、世界をパターンで理解するという著者の能力だ。その文章は、パターンやアナロジー、複数の意味をもつ言葉などが重層的につながり、共鳴しているかのようだ。
(・・・)
 愛や共感が本能的には理解できないという著者の文章に通底するのは、この世界に生まれた孤独と疎外感だけでなく、少しでも人の役に立ちたい、人の気持ちを明るくしたい、人とつながりたいという思いである。」

◎カミラ・パン
カミラ・パンは、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンで生化学の博士号を取得した、トランスレーショナル・バイオインフォマティクスを専門とする博士研究員。8歳のときに自閉症スペクトラム障害(ASD)、26歳で注意欠如・多動性障害(ADHD)と診断された。キャリアと学問はその診断に大きな影響を受けており、人間とその行動、人間がどう機能しているかを理解したいという情熱に博士は突き動かされている。

◎藤崎百合
高知県生まれ。名古屋大学の理学系研究科にて博士課程単位取得退学。訳書に『ウイルスVSヒト』(文響社、共訳)、『川と人類の文明史』『砂と人類』(草思社)、『ディープラーニング革命』(ニュートンプレス)、『生体分子の統計力学入門』(共立出版、共訳)などがある。

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