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李禹煥『両義の表現』/メルロ=ポンティ『見えるものと見えないもの』

☆mediopos2599  2021.12.28

見ることは
たんに光が物に当たり
それが眼に入って網膜に映る云々
といったことではない

見ることが成立するためには
私が「それ」を見ると同時に
「それも」私を見ていることが
成立していなければならない

メルロ=ポンティがいうように
「見ると同時に見られ、見られると同時に見る」
という両義性において
見るということは成立している

私がそれを見ると同時に
それも私を見ているともいえるのだ

「見えるもの」が「見える」
ということはどういうことだろうか。

「見る」ということは手がつかむように
「見えるもの」をとらえるということであり
逆にいえば「見えるもの」が見ている私を逆につかむ
ということでもなければならない

しかしこの転換可能性(可逆性)は
見るものと見られるものの同一性ではなく
見るものと見られるもの
さらにはふれるものとふれられるものの
否定的な意味での同一性を意味している

以下のメルロ=ポンティの引用に
手袋を裏返すという比喩があるが
それはそうした交差配列(キアスム)的な関係における
否定的な同一性ということである

さて李禹煥は『両義の表現』に収められている
「表現としての沈黙」というエッセイで
「絵画や彫刻において、語り出ぬもの
見え得ぬものの次元を開いてみたい」と述べているが

見えないものの次元を開くということは
見るものと見られるものとのあいだの
転換可能性(可逆性)において
表現がなされるということでもあるだろう

「見ることは、見られるものに対する
私たちの身体の行動そのもの」だともいうが
見るというとき
交差配列(キアスム)的な否定的同一性において
見られるもののなかに
見えないものが折り畳まれている
あるいは奥行きとして存在している
ということもできるのではないだろうか

その意味において
「表現としての沈黙」は
見ることの奥行きへと向かうことで
見えるものと見えないものとを
総合する行為であるということもできる

「耳に届いたり眼に映る音や色彩を越えて、
広大な宇宙に満ちている鳴らぬ音、
聞こえぬ言葉に出会」い
「語り出ぬもの見え得ぬものの次元を開」くために

■李禹煥(リ・ウファン)『両義の表現』
 (みすず書房 2021/5)
■モーリス メルロ=ポンティ(中山 元訳)
 『メルロ=ポンティ・コレクション』
  (ちくま学芸文庫 筑摩書房 1999/3)
■モーリス・メルロ=ポンティ(滝浦静雄・木田元訳)
 『見えるものと見えないもの』
 (みすず書房 1989/9)

(李禹煥『両義の表現』〜「見ることの成立(1982/2016)」より)

「人は眼を開いていても、普段はそこにあるものを見ていない。しかしぼんやり見ている。そこにあるやなしや。それがある瞬間見えてくる。こちらが見ているのだ。対象において眼に刺戟を与える変化が起こったのか、脳にそれを見ようとする何かの契機が生じたのか、その両方なのか。どちらかなのか解らないが、見えるようになる。だからぼんやり見えている間は見ていることにはならない。
 見ることは一つの意志である。この意志はヒエラルキーがあって、初期の段階で見えることと、よく見ているうちの見えることは違ってくる。カントは『判断力批判』の中で、そこに見える対象はそこにあるがままのものではなく、自分で見ようとして構成した対象である、というようなことを言っている。いかにも観念論者らしい見方ではあるが、そのような考え方もありうる。
 しかしこのような見方は、こちら側を主体にしたあまりにも一方的なものと言うしかない。ものが見えるということは、対象が幻でない限り、その対象のこちら側もこちらを見ているということである。そこでメルロ=ポンティは「見ると同時に見られ、見られると同時に見る」という両義性を指摘し、見ることの成立の水準を明らかにした。
 私の考えでこの論を進めると、見ることと見られることの交差の中でもう一つの対象が構成される。それが絵になることもあれば、文章として記述されるものになる場合もある。この交差は中性的であるわけではない。時には向こうから来る眼差しが強かったり、時にはこちらから行くそれが強かったりして、絶えず揺れる時空の中で交差する対象が出来る。
 ところで人間は、見ている時間の経過の中で対象をどんどん自己に引き寄せる傾向を持つ。つまり対象を引き寄せるとは、逆に対象から遠のくことであり、自己のイメージにして構成したものを対象に被せるという意味である。従って見るとはこの場合、そこにあるものを捩じ伏せて、自分のこしらえたイメージと向き合う構造になるということである。
 この考えで外界を再構成する姿勢が、近代世界を作り上げたのは言うまでもない。しかし今はそのような表象的帝国主義的植民地主義的眼差しは解体された。いずれにしても普段は、眼を開いていてもその気にならなければ、よっぽどのことがない限り向こうから対象が飛び込んでくることもないし、こちらが勝手に襲いかかることもない。要するにぼんやりしているうちは、見ることは成立しないのである。
 眼を開いている間はいつも見えるということになれば、おそらく人間は気が狂ってしまうに違いない。否、見られる側も人間の眼差しに耐えられず、荒廃してしまうだろう。このようなパニックが起こらないのは自然の摂理であり、人間の幸運と思う。人間はこれが基本であるこおを肝に銘ずるべきであろう。こちらが見ようとするか、向こうから合図するかではじめて見ることが始まるのである。」

(李禹煥『両義の表現』〜「内なる構造を越えて(1975.5)」より)

「私の仕事は、作品の成立の起源を問うことにある。既成観念の解体作業とか脱構築というより、その後に来る新しい出発の試みなのだ。当然ながら、無からではなく近代の成果とその批評からであり、また個人的な経験と問題意識の積み重ねに拠っている。私の作品に接する人もまた、作品の起源に立ち会ってほしいと思う。
 近代は、作家が人間の理性を全一なものとし、エゴに基づくコンセプトを普遍性の名の許に対象化全面化しようとした時代である。その結果、自己と同一化された存在、言表の世界、視覚化されたもののみに価値が認められ、一切の外部性が無視されてしまった。つまり作品は外界−自然や歴史や社会−から断絶され、閉じられた全体となり他との関わりを失くした。ついにはプログラム化、システム化された一つの内なるコンセプトでキャンバスを、壁を、空間を覆いつくそうとする全体主義的な表現まで出現している。
 人間中心主義の再現的な生産価値を絶対化する考えは修正されなかればならない。作ることを高度化することは必要であっても、それを拡大化全面化することは、人類を窒息させ生存を不可能に追い込む。作らざるもの、タッチしない外界、未知の世界にも価値を認め、それらとの新しい関わりを模索したいものだ。作ることの限定と高次元化、そして外界との開かれた関係によって、むしろ人間はもっと大きな自由と解放と飛躍が可能となろう。
 私の仕事は、描かざるものと描くもの、作らざるものと作るものを出会わせることにある。内的なものと外的なものとの相互干渉作用に着目して、作品を形成するという意味だ。自己を限定し、外部性を受け入れることによって作品に他者性をもたらしたい。そのためには、一層自己を整備し、厳格にし、こちらの能動的な思考を高めると共に、向こうから来る受動的なものを受け止められる力を磨かなくてはならない。」

(李禹煥『両義の表現』〜「表現としての沈黙(2018.8 パリにて)」より)

「人は私の多くの作品に、沈黙を感じるという。鈍重で幅広い鉄板を壁に立て掛け、その前に大きな自然石を置いた作品では、空間との響き合いに無言のこだまを見る。そして、大きなキャンバスに平筆で白から黒に広がるグラデーションのストロークを一つか二つ描いた絵画は、緊張と解放のせめぎあう空間となり、それが沈黙のバイブレーションとして迫ってくる。このことは、私の作品が言葉や音声の途絶えと共に、言い得ぬものとの出会い、そして無言の応答をもよおしていることを表していよう。
 私の作品に見られる沈黙の性格は、おそらく非−人間的だ。それは作品が特定の素材や方法の駆使もさることながら、やはり発想の根幹が自然や外部との関わりにあるためであろう。私は、人間の言葉を拒むわけではないが、人間以外の音や声にも耳を傾けてみたい。それも耳に届いたり眼に映る音や色彩を越えて、広大な宇宙に満ちている鳴らぬ音、聞こえぬ言葉に出会いたいのだ。
 おそらく音楽家の究極の関心は、音の向こう側にある。私の関心も似ている。絵画や彫刻において、語り出ぬもの見え得ぬものの次元を開いてみたい。私の作品の波状は、まだ人間の言葉の領域から遠くない。何処まで行けるか、沈黙の彼方は遠くて深い。」

(『メルロ=ポンティ・コレクション』〜「絡みあい/キアスム」より)

「見る者と見られる者の間の複雑な意味とは別に、視覚はまなざしによって触ることであるから、視覚はそれが私たちに示す存在の秩序のうちに刻み込まれている必要があるのは明らかである。見る者は、見る世界に対して他者であることはできない。わたしが見る瞬間から、視覚という語の二重の意味[見ることと見えること]が示すように、視覚は補足的な視覚、あるいは別の視覚によって裏打ちされる必要がある。わたし自身が外から見られる。わたしがある場所から他者を見ると同時に、他者はその見られた場所において、わたしを見るのである。」

(メルロ=ポンティ『見えるものと見えないもの』〜「研究ノート」1960年11月16日「交叉配列ーー転換可能性」の項/みずず書房 P.388より)

「転換可能性ーー裏返しになった手袋の指ーーひとりの目撃者が表裏両方のがわにまわってみる必要はない。私が一方のがわで手袋の裏が表に密着しているのを見るだけで、私が一方を通して他方に触れるだけで十分である(領野の一点ないし一面の二重の「表現」)、交叉配列とは、この転換可能性のことなのである。ーー
 <対自>の<対他>への移行が行われるのも、この転換可能性によってのみである。ーー実のところ、私と他者が事実的なもの、事実的な主観性として存しているのではない。私と他者とは、二つの隠れ処、二つの開在性、何ものかが生起してくる二つの舞台なのである。ーーそして、これらはいずれも同じ世界、<存在>という舞台に属しているのである。
 <対自>と<対他>とがあるわけではない。それらはたがいに他方の裏面なのである。だからこそ、この両者はたがいに合体するのである:投射ー取り込み。ーー私の前にいくらかの距離をおいて、私ー他者、他者ー私の振替えがおこなわれる線があり、境界面があるのである。ーー
 与えられたただひとつの軸、ーー手袋の指の先は無である。ーーしかし、それはひとが裏返すことのできる無であり、そのときひとがそこにもろもろの物を見ることになる無なのである。ーー否定的なものが真に存在するただ一つの「場」は襞であり、つまり内と外とがたがいに密着しているところ、裏返し点である。
ーー
私ー世界 私ー他者の交叉配列ーー私の身体ともろもろの物の交叉配列、これは私の身体が内と外とに二重化されることーー
そしてもろもろの物が(それらの内と外とへ)二重化されることーーによって実現される。」

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