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暦本 純一 『妄想する頭 思考する手/想像を超えるアイデアのつくり方』

☆mediopos-2580  2021.12.9

真面目と不真面目は
同じ価値軸の上に乗っているが
非真面目はその軸上には存在しない

「非」であるということは
Aに対するアンチの関係から
自由であるということだ

「多数派」と「少数派」も
互いにアンチである関係にあり
「派」から自由であることはできない

世の中の多くの発想は
ほとんどAと非Aという
互いにアンチであることで構造化されていて
その関係から外れると
世の中からは理解されない場所にいることになる

本書ではそうした
Aと非Aという関係でもある
「現在の延長で物を考え」ることを超えるために
「妄想」が肯定される
(とはいえ著者はあくまでも研究者であって
商品化される研究という発想からは外れないでいるのだが)

「妄想」が生きた妄想になるためには
「頭」だけではなく
「思考する手」がなければならない
さらにいえば「手」が「思考」をサポートしながら
新たな場所へと連れていかなければならない

実際のところ「思考」は
基本的に過去からやってくるものだからだ
そしてその「思考」を生み出したのは
過去の四肢(手足)にほかならない
従って今試行錯誤を重ねる四肢(手足)がなければ
「思考」を生み出すこともできなければ
それが新たなアイデアとなることもできない

現代の管理社会的状況は
その四肢(手足)と頭が逆転した状態にほかならない
頭で決めたことが四肢(手足)を縛り付ける
そこから新たなものが生み出されることはない

非真面目であること
「アンチ」的な関係性から逃れること
四肢(手足)で試行錯誤すること
そこからしか開かれない扉がある

■暦本 純一
 『妄想する頭 思考する手/想像を超えるアイデアのつくり方』
 (祥伝社  2021/2)

「我々は、現在の延長で物を考えがちである。妄想は、今あるものを飛び越えて生まれるものであり、だからこそ「新しい」。いや、何かを妄想しているとき、最初からそれが新しい発想だとは自分でもわかっていないかもしれないのだ。むしろ「なんでこうなっていないんだろう」「こっちのほうが自然じゃないだろうか」と漠然と思っているだけで通り過ぎてしまう場合も多い。だから、妄想によって「新しいことを生み出す」には、思考のフレームを意識して外したり、新しいアイデアを形にし、伝えたりするためのちょっとしたコツが必要だ。頭の中の妄想を、手で思考するのだ。」

「非真面目」は「不真面目」とは違う。私が考える違いはこうだ。
 たとえば学校で教科書をしっかり勉強し。先生が与える課題をきちんとこなす生き方。これが「真面目」なのは言うまでもない。一方、教科書を落書きで埋めたり、先生に反発して授業をサボったりするのは何かというと、これは単なる「不真面目」だ。
 不真面目は、いわば「真面目度」を計る価値軸の上に乗っている。(…)学校、教科書、先生といった真面目路線への「アンチ」として成り立つものだから、不真面目は真面目に依存しているといってもいいだろう。逆らっているようでも元の価値軸の枠内にいるわけだ。
 しかし「非真面目」は、その「真面目度」を計る価値軸の上に乗っていない。非真面目な人は、そもそも真面目路線が眼中にない点で、不真面目な人とは違う。学校の授業や先生の命令があろうがなかろうが関係なく。自分がやりたいことに集中しているのが非真面目な態度だ。」

「未来を予測して課題を設定し、「これからの世の中はこうなるはずだ、そしてこいういう課題があるはずだ」と想像するところから始まるのは、課題解決型のイノベーションだ。しかしそれだけでは、想像の範囲内での未来しかつくることはできないかもしれない。想像を超える未来をつくるために必要なのは、それぞれの個人が抱く「妄想」だと私は思っている。」
「他人にはすぐには理解されず、そのため広く共有もされない妄想であっても、本人はそこに何らかのリアリティを感じている。つまり、乗っている価値軸が違うということだ。本人にとっては自然なことであって、奇をてらって「不真面目」におかしなことを言っているわけではない。自分の価値軸の上で「面白い」と感じたことを、率直かつ真剣に考えている。」

「眼高手低、という中国の故事をご存じだろうか。
 「眼」は、たとえば美術や文学の鑑賞力や批評力など物事を評価する力のこと。「眼力」「目が肥えている」というときの「眼」だ。一方の「手」は、何かを創作する技能や能力のこと。その「眼」が高くて、「手は低い」。つまり「批評は上手だが実際に作らせると下手」という意味だ。口では立派な能書きを垂れるけれど、いざ自分で作ってみると実力のない「口先だけ」みたいな人を揶揄する言葉である。「眼高手高」を目指すべきだ、ということだろう。」
「その能力は「高」であってほしいが、高いところ(頭の上とか)に置いて考えているだけでは何も始まらない。そのまま「お手上げ状態」になってしまわないうよう、せっせと手を動かす。(…)
 もちろん、手を動かしてうまくいかないこともある。
 逆に言えば、手を動かさないと失敗さえできない。失敗によって問題の構造が見えてくれば前進だ。うまくいかないなら、その問題を解決する方法を考えながら、また手を動かせばいい。」
「試行錯誤は、傍から見れば地道な作業だろう。でも、地道に手を動かすことによって、さらに別の妄想が沸いてくることもある。また、問題の構造を理解して「ああそうか、この手があったのか!」と解決策を思いついたときは、「既知×既知」の組み合わせから新しいアイデアを思いついたときと同じように気持ちがいい。悪魔のように細心に作業をしながらも、天使が微笑んでくれる瞬間があるわけだ。
 だから私は、何度も失敗を重ねながら手を動かす時間は「神様との対話」をしているのだと思っている。天使のようなひらめきは、腕を組んで考え込んでいてもやってこない。」

「日本は妄想に不寛容なので、新しい技術の「お試し」もなかなかしない。「うまくいくことや安全性が完全に確かめられるまでは使わない」のが今の日本社会の基本姿勢なのだ、それがうまくいくかどうかより、「ルールに則っているかどうか」が重視される。一応の「実証実験」はやるが、あとはうやむやのまま実用まで進めない場合も多い。
 しかもルールを現状に合わせて柔軟に変えることにも消極的だ。」
「本当にイノベーションを起こしたいなら、「こうあらねばならない」的な真面目路線のほかに、「非真面目」な路線を確保することが必要だと私は思う。つまり、人をキョトンとさせるような妄想を語る人間を排除しない。役に立つかどうかわからないアイデアでも、とりあえずやってみる。それが、妄想に寛容な社会だ。
 誰もが正しいと認める課題を設定して、その解決策を真面目に追求することを否定はしない。そういう行動ができる人間も、間違いなく社会に必要だ。
 しかし、そうやって与えられた問題の正解を模索するだけでは、真面目一辺倒の社会になってしまう。それによって社会全体に悲壮感のようなものが漂っているのが、今の日本ではないだろうか。」

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