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守中高明『浄土の哲学/念仏・衆生・大慈悲心』/「守中高明インタビュー 念仏とは〈風 - になること〉である ・なぜ、他力=浄土の哲学なのか」

☆mediopos-2571  2021.11.30

守中高明ははじめ現代詩人として
(『現代詩文庫157』思潮社1999.5)
そしてそのことをつうじ
ドゥルーズ&ガタリの『千のプラトー』の
訳者であることにもあらためて気づいたのだが

その後あらためて出会った守中高明は
いきなり浄土教の「他力」の人であった

そのときの驚きもあり
(mediopos-1623 2019.4.26)の
『他力の哲学』でとりあげてもみた

ちょうど夜光社からでている『HAPAX14』に
インタビューが掲載されており
今回の『浄土の哲学』について語られているので
その概略がわかるよういくつか引用しておいたが

なにせフランス現代哲学のデリダ・ドゥルーズ・フーコー
そして批評家のブランショから
「他力」でありそして今回の「浄土」へである

インタビューに答えている最初が
「私は外側から見ると、
きわめて胡散臭い人間ですよね」で
詩人でフランス現代文学と哲学がなぜ
「浄土」なのかということからはじまっている
たしかによくわからない人だ

守中高明は浄土宗の寺に生まれ育ち
僧侶の修行も学生時代には終え
二十四歳からは正式な僧としての活動も続けてきた

その多面性には一貫性がなさそうにも見えるが
実際のところは
「すべてを結ぶ核みたいなもの」としての「存在感情」
「強い拘束性をもつひとつの存在機制」があり

それはひとつには「存在の有責性」という問い
さらには「存在の時間錯誤」という問いであって

その「二重の負の存在感情から解放されるプロセスで
生まれてきたのが『他力の哲学』であり、
『浄土の哲学』」であるのだという

そのあいだにもさまざまな葛藤があったようで
やはり「浄土宗の僧侶という社会的な立場から離れ」ようと
寺を継ぐ後継者をつくる試みをさえおこなったものの
結局それがかなわず「浄土宗・専修寺住職」となっている

さて守中氏は二〇一三年の早春
「突然、「私は赦されている!」
という感覚に打たれる経験」をしたのだという
それによってさきの「二重の負の存在感情」に
「廻心」が訪れることになった

当初「この感情を論理化」することはできない
そう思ったそうだが
今回の『浄土の哲学』はその試みでもある

さてここからがようやく本題なのだが
「私は赦されている!」というのは
「時間錯誤の価値転換」だという

さきの「二重の負の存在感情」は
「〈今〉という時間との不調和、〈今 - ここ〉の充溢から」
「つねにすでに決定的に追放されているという存在感情」で
その負の感情が「まったき肯定性の経験へと価値転換」した
そのことが「「赦し」の経験」として訪れたのだ

人間存在は「時間」という「強い拘束性をもつ
ひとつの存在機制」に縛られているがゆえに
〈今 - ここ〉にいることができずにいる
それこそが「存在の有責性」であり
「存在の時間錯誤」となって「救済」がなされないでいる

「赦し」というのは
その意味において「時間」の拘束から自由になる
「他力」の訪れであるともいえる
それは「自然(じねん)」を生きるということでもある

浄土宗の僧侶としての守中氏は
かつての宗派制度の維持への「異議申し立て」のために
「他力」「浄土」を哲学として論じることで
あらたな歩みをはじめようとしているのだといえる

その試みは興味深いともいえるが
その論述はかなり難解な表現に満ちている
はたして守中氏の歩みはどこへ続いていくのだろう
個人的にいえば守中氏の
あらたな詩をこそ読んでみたいところだが・・・

■守中高明『浄土の哲学/念仏・衆生・大慈悲心』
 (河出書房新社 2021/8)
■「守中高明インタビュー 念仏とは〈風 - になること〉である
  なぜ、他力=浄土の哲学なのか 聞き手=HAPAX」
 (『HAPAX14 気象 (14) 』夜光社  2021/11 所収)

(「「守中高明インタビュー」より)

「守中/私は外側から見ると、きわめて胡散臭い人間ですよね。まず詩を書くことから出発し、同時に日本の現代詩を論ずることからパブリックな活動を始めましたが、他方、学生時代に自分なりに培った素地は、フランス現代文学であり、それを論ずる際の必須の武器としてのフランズ現代哲学です。とりわけデリダとドゥルーズ、そしてフーコーが私にとっては重要で、かつその三者を受容する前提としてモーリス・ブランショの存在がきわめて大きかった。しかしもう一方には、浄土宗の寺に生まれ育ったという出自と来歴があります。僧侶になるための修行も学生時代にはすでに終えていて、二十四歳からは正式な僧としての活動も続けてきました。
 ですから、よく言えば多面的、悪く言えばつかみどころがないのが私のアイデンティティなのですが、自分としては一貫性があり、すべてを結ぶ核みたいなものがあると考えています。しかし、それではいったい何が一貫しているのか、その核はなにかということをあらためて説明しようとすると、ものすごくむずかしい。やや大仰な言い方になりますが、そこにはひとつの存在感情といいますか。強い拘束性をもつひとつの存在機制がある、あるいは存在機制が「あった」と今や過去形で言えるか否か----いずれにせよ、その存在機制を言語化するのは初めてのことで、かなり勇気がいるのですが、複雑に絡み合ったその存在感情、その存在の拘束性を、この機会にあえて二つの角度からお話してみたいと思います。
 第一に、存在の有責性という問いがあります。つまり、みずからの存在がギルティである、あるいはみずからの存在が非合法でしかありえないという抜きがたい感覚があるのです。そして第二に、存在の時間錯誤性という問いがあります。すなわち、みずからの存在が現在とつねに不調和をきたしている、あるいは〈今〉という時間と適合した「生き生きとした現在」という感覚をもてない、つまり〈いま - ここ〉から、わずからだけれども決定的なずれがあった、〈いま - ここ〉からつねにすでに追放されているという感覚が私の中にあるのです。そして、まさにこの二重の負の存在感情から解放されるプロセスで生まれてきたのが『他力の哲学』であり、『浄土の哲学』なのです。そのことをなんとかうまく語りたいというのが今日の、この場に臨んでの私の率直な心境です。」

「この三人(カフカ、前期ハイデガー、デリダ)はいずれも、人間における存在的機制をある種の「法」ないし「掟」とみなし、その拘束性、存在を拘束してくるその力を重視し、それ向き合い続けた作家であり哲学者で、存在の拘束性を最大の強度にぽて描き出すという方向性において、作品を書き、哲学的な概念形成をし、あるいはそのような仕方で哲学的体系を脱構築することに言語と思考を賭けた人たちだと和私は考えています。
 ところが、私のそのようないわば存在論的な構えに転機が訪れました。それが「赦し」の経験です。『他力の哲学』という私にとっての大きな転回----「ケーレ」というと大げさですが----、浄土の教えでいえばまさに「廻心」です。
 その転回=「廻心」が起きたのは、「赦し」というまったく別種の存在感上をあるとき私が現実に生きたことによります。これはデリダの『赦すこと----赦し得ぬものと時効にかかり得ぬもの』(未来社、二〇一五年)を翻訳して刊行した際の「あとがき」にも書いたことですが、二〇一三年の早春、私は大学から帰宅する途中、自宅まであと数十メートルという路地を歩いているときに、突然、「私は赦されている!」という感覚に打たれる経験をしました。まったく思いもかけぬ、予想もしない、予想しようもない感覚で、純粋で完全な、文字どおり全身を貫き、浸すような感情でした。ほんとうにあれこど純粋な強度の経験と言うべき経験で、その時はなぜこんな感情に浸されるのか、まったく理解すべくもありませんでしたし、「あとがき」の中でも「分析はすまいと思う」と書いたように、この感情を論理化できるとは思っていませんでした。しかし、『他力の哲学』を書き終え、『浄土の哲学』へと歩みを進めることができたので、この機会に多少とも分析的に考えてみたいと思います。」

「背景となる要因として、その頃、浄土宗の僧侶という社会的な立場から離れて自由になれる可能性が近づいていたということがあります。当時私は、寺の住職を辞めてその地位を譲るべく弟子を一人育てていました。その弟子が、その年の夏に三回目の修行を大本山で行ない、その年の暮れに最後の「加行」というかなり厳しい行を同じく大本山で修めれば正式に僧侶の資格を得ることができるという見通しが立っていたのです。
 現代の日本社会において、僧侶であるということはさまざまな矛盾や葛藤、時として深い欺瞞や偽善を生きなければならないということを意味します。たとえば、資本主義経済の中で生きなければならない以上、宗教上の行ないも、それをいかに取り繕ってみても、結局は賃労働と同じだと見なされることを避けられませんし、他方、日本中世に生まれた教義は、そのままでは現代においてはたんなる神話的価値しかもたないことを知りつつも、宗派の制度の中では、その教義を伝統という美名のもとに墨守しなければならない、などなど、僧侶であることは日々そんな葛藤の連続そのものです。私は寺で生まれ育ち、先ほど語ったような父からの特有の「呼び声」を受け取った以上、大学教員と寺の住職をなんとか両立させていくほかないと思って、二重生活を続けてきたわけですが、その頃にはもう限界だと感じて、世間的身分としての僧侶を辞める決心をしていたのです。
 そして事実、翌年二〇一四年一月にはいったん住職を正式に退き、大学での研究と教育に専念することになります。しかしその後、残念なことに、その弟子が健康上の理由で住職を続けられなくなって、二〇一七年七月には私がまた復帰することになり、現在にいたるわけですがその詳細は省きます。とにかく、その時は宗派び固定したドグマティックな制度からいったんは解放されて、矛盾や欺瞞から自由になれるという期待があり、制度の外で、浄土教や自分の〈信〉を検証することができるはずだという展望が拓けていたのです。
 しかしそうは言っても、これは依然として外形的な要因で、「私は赦されている!」というあの力の一撃は、やはりもっと本質的な別のところからやってきたと考えられます。そのとき起きたのは、一言でいえば、「時間錯誤の価値転換」だったと概念化することができるように思います。」

「〈今〉との不調和という感覚に存在論的根拠があるとしても、「生き生きした現在」からの追放という表現が暗示しているように、この感覚は悲劇的であることを絶対に免れないというのが当時の私の考え方でした。」
「いや、そうではない----そう私は、ようやく考えられるようになったのです。この特異な時間構造はまったく両義的であって、肯定的にはたらくこともできるし、否定的な結果を生むこともある。そして「赦し」とは、まさにこの時間構造がそのまったく肯定性において作動したときに得られる経験である、というのが現在の私の考え方です。事実、二〇一三年に早春に力の一撃に打たれた私の中に響き渡ったのは、つぎのようなフレーズでしや------「私は - 明日 - 産まれました」。これもいっさい偽りのない証言です。
 これはつまり、誕生という一回きりの出来事、一般にはある人の起源だとみなされる一回性の出来事を、これから到来する過去という謎へと、あるいはいまだ完了せざる時刻へと開く、そんな反復可能性の論理です。」
「こうしたすべてを総合して考えると、〈今〉という時間との不調和、〈今 - ここ〉の充溢から、わずかではあるけれど、つねにすでに決定的に追放されているという存在感情、その時間錯誤の感覚が、負の悲劇的なる経験から、幸福なまったき肯定性の経験へと価値転換したのが、私における「赦し」の経験であり、その概念の確立だったと言えるのではないか、と今あらためて考えています。つまり、存在を前 - 起源的に拘束する「罪」の掟から「生成の無垢」を回復することができた------そう要約することができるでしょうか。」

「現在の浄土宗は、きわめて重要な仏教概念を、あくまでも神話体系を構成する一般概念にとどめ、その一般概念を基盤として宗派の制度を維持するということを続けています。」
「それに対して徹底的に異議申し立てをしようとしたのが『他力の哲学』であり、『浄土の哲学』です。日本中世に形成された教えは、その概念の「名」だけを継承したのでは無力であり、無価値であることは言うまでもありません。」
「阿弥陀仏・往生・浄土という概念をドゥルーズ、ニーチェ、スピノザなどの眼差しから読み換えようとしたのが『浄土の哲学』です。(・・・)たとえば「阿弥陀仏」とは、親鸞がすでにはきりと定式化していたように「自然(じねん)」であり、その「おのずから」「しかしむ」はたらき以外のものではありません。それは、衆生がそこに内在することしかできない生成のプロセスであり、したがって「阿弥陀仏」への〈信〉とは、「自然」のはたらきに内在し、その「ひとのはじめてはからざる」生成の必然、つまり、人間がことさらに思量する余地のないその「他力」の必然を生きることであると言えます、別の角度から言えば「阿弥陀仏」とは「自然」という形相なき力能の名であり、したがって、それを人格化し、超越的〈一者〉として表象することは、人間中心主義が生んだ妄念にすぎません。そのことが理解されれば、「浄土」が、はるか彼岸に位置する超越的領土ではなく、衆生が称名念仏の声とともに生成変化していく内在性の平面にほかならないということがおのずと明らかになりますし、「往生」もまた死後の出来事ではなく、衆生が念仏を称えるという行為の遂行によって「本願」の時間構造の中にみずからを投げ入れ、その開かれた未来完了という時間構造の中でみずからをそのつど新たに生成させつつ、この穢土そのものを「浄土」へと生成させていくプロセスを指すことが明確化されるはずです。その意味=方向性において、浄土宗の神話体系を構成する一般観念を解体し、その地盤から掘り崩すことが、今回の私の目的のひとつでした。」

「称名念仏が気息=風であり、したがって、大気への生成変化であり、称名念仏によって〈風 - になること〉がまさに自然に内在しつつ決定不可能性の場に出ていくことである、というのが『浄土の哲学』の結論です。純粋に生理学的に言っても、私たちは呼吸をしなければ三分と生きてはいけないわけですよね。呼吸をとおして、つまり、大気とのガス交換をとおして、酸素を取り入れ二酸化炭素を排出するといくことを私たちは繰り返しています。その際、体外とのガス交換という外呼吸のみならず、細胞レベルでも血液を通じて酸素を送り込み、二酸化炭素を排出するという内呼吸を行なっている。つまり、念仏という声=気息は、私たちが細胞レベルからして自然に内在してあるほかないということを、そのつど確認する行ないだと思うんです。念仏が空虚な祈りではないというのは、そういうことも含んでいるわけですえ。自然に内在することが「他力」への〈信〉なのだと(…)あらためて感じます。
 そして、国家による捕捉からいかに逃れるか、いかに別の場を開くかというのは、まさにこの本のもうひとつの大きな主題であり、問題設定です。国民国家がその領土内に人民を国民化しつつ捕捉し、統計的処理が可能な人口集団とみなし、その安全を保証するという口実のもとに労働資源として管理するというこの現在の統治システムを、とにかく疑い、可能な限りシステムに亀裂を入れ、〈外〉への脱出口を密行けて「非国民」としての新たな人民を生成させることを開始し、そして何度でも繰り返すほかありません。」


◎守中高明『浄土の哲学: 念仏・衆生・大慈悲心』・目次

序 パンデミックと祈り――危機の時代、回帰する浄土

第I部 浄土と衆生――法然、親鸞、そして一遍へ

第1章 浄土という場
(1)浄土はどこにあるか――法然における生の肯定、念仏の意志
(2)阿弥陀仏の力――親鸞における信・廻向・往生

第2章 衆生とは誰か
(1)「一切衆生」という名――一法然における平等、親鸞における差異の肯定
(2)「不可思議の法」――一遍における〈離隔を惹き起こすもの〉たち、無底という自由

第II部 他力の論理学

第1章 他力、あるいは自然【じねん】
(1)「他力」と「自然法爾【じねんほうに】」――法然から親鸞へ
(2)「神あるいは自然」――スピノザと親鸞
第2章 他力、あるいは無媒介の力
(1)「心によらざる法」――一遍における「他力」
(2)名号の力――弁証法を消尽する、あるいは決定不可能なるもの

第III部 大慈悲の倫理学

第1章 念仏とマイノリティ
(1)中世被差別民と浄土の教え――親鸞における「悪人」
(2)「非人」とは誰か――排除‐包摂から生成変化へ
第2章 念仏と結び合い
(1)「浄不浄をきらはず」――一一遍、被差別民とともに
(2)踊り念仏――身体・コナトゥス・解放

第IV部 浄土革命のほうへ

第1章「立正安国」という問い
(1)「先づ国家を祈って、須く仏法を立つべし」――排撃される専修念仏
(2)「王法/仏法」の彼方――主権権力と念仏の衆生
第2章 浄土コミューンの原理
(1)大地の民族と根本情調――ハイデガーと共同体の問い
(2)風の衆生と称名念仏――来たるべき浄土コミューン

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