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吉田隼人『死にたいのに死ねないので本を読む 絶望するあなたのための読書案内』/吉田隼人『霊体の蝶』/塚本邦雄『定家百首 良夜爛漫』

☆mediopos-3063  2023.4.7

吉田隼人の『霊体の蝶』という歌集に惹き込まれ
それが第二歌集であること
十六歳で自殺未遂を犯してから
「死にたいのに死ねないので」読んだ本の
読書案内としての著書のことを知る

著者はホフマン・ボードレール・マラルメ。ニーチェ
ハイデガー・バタイユ・藤原定家・上田秋成・波多野精一
九鬼周造・塚本邦雄・三島由紀夫・・・と
さまざまな文学書・思想書を拠り所としたことを
回想し紹介しているが

昨日(四月六日)知人の油彩画展に赴き
そこで長く話し込むなかで
高校時代の話にもなり
自殺云々ほどのことではないにせよ
じぶんがその時代をずいぶんと
暗鬱に過ごしていたことを思い出し
その頃の心の拠り所としていたのはなんだったのか
そしてその後そこからなにを見出し得たのかを
思い返すことにもなった

著者は福島生まれであることもあり
地震や原発事故といったことが
大きな影を落としているのだというが

「定家に————あるいは、定家に心を寄せた
堀田や塚本といった書き手に————心の拠り所を求め」

「荒廃していく世の中」の暗さだけではなく
「それ以上に荒廃してしまっているかもしれない
自己の内面」の暗さとあわせた二つの闇を抱えることで

「定家の歌の荒涼たる美にも通じている」
「醜さと隣り合わせの美しさ」という「末期の眼」に
「詩歌の本質」を見出そうとしているのだろう

光そのものを見ることはできず
そこには闇がなければならないように
世を観るにせよ
自己を観るにせよ
その闇をどのように観るかによって
開かれるものはずいぶんと異なった様相を見せる

闇を見据えた言葉でなければ
ひらかれない世界と自己がある

闇のなかでみずからを見失ってしまい
そこから逃れられなくなることもあるだろうが
その闇のなかからでしか見えない光がある

この読書案内にもそして歌集にも
そんな闇のなかでこそ
観ることのできた光を垣間見ることができる

■吉田隼人
 『死にたいのに死ねないので本を読む/
  絶望するあなたのための読書案内』
 (草思社 2021/10)
■吉田隼人『霊体の蝶』(草思社 2023/3)
■塚本邦雄『定家百首 良夜爛漫』
 (河出書房選書 河出書房新社 昭和五二年五月)

(吉田隼人『死にたいのに死ねないので本を読む』〜「美とは虚無のまたの名――『定家百首』」より)

「大学そばの古書店街を巡っていて、古びた岩波文庫の棚に佐佐木信綱校訂『藤原定家歌集』(一九三一年初版)を見かけた。三百円という値段を見るか見ないか、ほとんど反射的にこの本をレジに持っていっている自分に気づいた。新古今時代を代表する歌人・藤原定家の家集『拾遺愚草』には後年に出たさらに詳細な校注を加えた版が存在するわけだけれど(・・・)、ぼくがよりにもよってこの古い文庫本をかれこれ三、四年ほど探しまわってきたのは、塚本邦雄『定家百首 良夜爛漫』(・・・)がこの文庫本を敢えて底本として採用していることを知ってからだった。(・・・)

 いつの間にか定家をはじめとする新古今歌人に関心を寄せるようになり、同じ塚本邦雄の『雪月花 絶唱交響』(・・・)や『藤原俊成・藤原良経』(・・・)、『清唱千首』(・・・)などの評釈本や古典和歌アンソロジーを手始めに、安東次男『藤原定家 拾遺愚草抄出義解』(・・・)や久保田淳『藤原定家』といったモノグラフ、それに堀田善衛『定家明月記私抄』正続(・・・)のような伝記的著作と、あれこれ定家周辺に関連する書籍を渉猟し、特に系統立てることもないまま読み漁るようになった。その理由を探るのもまた詮無いことかも知れないけれども、そこにはやはり二〇一一年以降という時間が深く関わっているのだと思う。

 たとえば堀田善衛が『定家明月記私抄』を、太平洋戦争中の青春時代に「世上乱逆追討耳ニ満ツト雖モ、之ヲ注セズ、紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ」という有名な一節に惹かれて、当時の国書刊行会から出ていた返り点も何もない三巻本の漢文日記『明月記』を古書店のおやじをおどして買い求めたという経験かた書き出していることを、いくらかぼく自身の経験に引き付けて考えてみたい気もする。これを「自分が始めたわけでもない」戦争に振り回され、若い命をよくわからないまま危機に晒され、生活や文化のあちこちが息苦しくなっていく中で若き文学者・堀田善衛がいかに生きたか、というより具体的な生々しい経緯は自伝小説『若き日の詩人たちの肖像』(・・・)に縦横に書き尽くされている。定家との出逢い、とりわけそれが暗い時代をいかに生きるかという点で、戦乱と滅亡に彩られた平安朝末期を生きた宮廷歌人と戦時下の若き詩人とをつないでいたことは、たとえば思想犯として投獄された留置場の陰惨な光景を前にして主人公が芥川龍之介や新古今集、それに中原中也について思索をめぐらす場面や、大学の繰り上げ卒業と徴兵を控えて下宿に引きこもり、『明月記』をはじめとする中世の暗い時代を生き抜いた人々についての資料を抜き書きしていく場面などに如実にあらわれている。

 こうした定家の受容はほぼ同世代の塚本邦雄にも共通しているのかもしれないが、ここまで深刻な在り方ではないにせよ、震災があり、原発事故があり、社会が右傾化し、息苦しくなり、人の心も荒んで・・・・・・という時代背景の中でぼくが定家を手にとって読み始めた気持ちも、これに一脈通じるものがあるのではないか、と手前味噌ながら考える。」

「ぼくはぼくなりに、定家に————あるいは、定家に心を寄せた堀田や塚本といった書き手に————心の拠り所を求めていたのだと、振り返ってみて思う。荒廃していく世の中と、あるいはそれ以上に荒廃してしまっているかもしれない自己の内面。時代の暗さと自己の暗さと、二つの闇を抱えたとき、人は堀田善衛のいう「末期の眼」を手にする。その眼に映じるのはあらゆるものの「醜さと隣り合わせの美しさ」であり、そしてそれこそが定家の歌の荒涼たる美にも通じている。強引なこじつけのようだけれど、人生のどん底に沈みきって、絶望することにもいい加減に憔悴しきったぐらいの状態でなくては味わえないような書物とか、読書体験とかいったものが恐らくは存在するのであって、定家に関するあれこれもまた、そうした読まれ方をするに相応しい書物なのだと、ぼくはここで無理を承知の上で断言しておく。」

「定家の歌に没頭していた頃のぼくは二〇一一年という、いくつかの美談をも生みこそすれ、それ以上に、保身と利益とに汲々とし、流言飛語をまき散らす、そんな人間の醜い面、愚かな面を身近にも間遠にも嫌というほど見せられる経験を経て、ほとほと「人間」なんてものとは関わり合いにならず静かに隠れて生きていきたいものだと思っていた。冷静で頭が切れると思っていたある知人が震災に際してデマをSNSで拡散しているのを見て以来、誰も信用できないという気持ちになった。」

「ぼくは塚本が定家の作品に見た非人間の極致ともいうべき美にこそ詩歌の本質が、とりわけ、定家の生きた平安朝末期から鎌倉という時代、塚本や堀田善衛が生きた愚かな戦争の時代、そしてぼくたちがいま生きつつある困難な時代という三つの「乱世」にあるべき詩歌の本質があるのだ、と強く確信している。その詩歌が織りなす人外境を『定家百首』の塚本邦雄は、有名な「見渡せば花ももみじもなかりけり浦のとまやのあきの夕ぐれ」を題材にとり、次のような詩のかたちで現代語に翻訳してみせた。

  はなやかなものはことごとく消え失せた
  この季節のたそがれ
  彼方に 漁夫の草屋は傾き
  心は非在の境にいざなはれる
  美とは 虚無のまたの名であつたらうか

まこと、美とは虚無のまたの名のことであろう。」

(吉田隼人『霊体の蝶』収録歌より)

「寂滅(ほろび)とはこころのすがた朝つゆは穹(そら)をやどしてきらめきやまず
 霊魂(プシケエ)と称ばれてあをき鱗粉の蝶ただよへり世界の涯の
 みなそこにみなもはかげをなげかけてながるる時は永遠の影
 蓮(はちす)いちりんみちたりて燃ゆ生き死にの条理のよそに浮かむかにみえ
 うちそとのかなしみのごと風すさび身熱(しんねつ)はただ吹かるるばかり
 灯もひとつともしておきぬ たましひのあくがれいづる夜(よ)と知りしかば
 生きて在る罪をおもへば山桜うすくれなゐに黙(もだ)してばかり
 ともしびのゆらぎのこころ安からずこの世のよその風に吹き消(け)ぬ
 こころみだるる陽気のさなか希死の蝶うかみつ消えつ花にただよふ
 たまのをのもゆらに鳴りてしづまりしこころにぞなほもゆる火のたま
 ふかくれなゐの腹みせて藻のまに消ゆるゐもりのいのち致死の毒もつ
 目覚めとは断念の謂(いひ) 春の雪ふりつむさなか駒よいななけ
 闇に眼はいよいよ冴えて宙空に息詰まるほど花のまぼろし
 みづからを赦しえざりし夜の涯のラムプに焼けて蝶か詩稿か」

(吉田隼人『霊体の蝶』〜「あとがき」より)

「パンデミック以前はいちおう自分のなかでルールを決めて歌を作っていました。能う限り文語を用いること、「われ」「わが」「吾」といった語を用いないこと、助詞の「が」を主格で用いないこと、内面の空虚と肉体の荒廃とを『試論』より洗練されたかたちで表現すること、など。ルールに反した歌および性に関する表現を含む歌はほぼすべてこの集からは落としました。
中井英夫が『黒衣の短歌史』に採録した「光の函」という吉井勇と釈迢空について触れた文章で、意味の追求から解放され、空虚ななかにただひたすら光を湛えただけの函のような歌を称揚し、また別の箇所でそうした歌の詠み手として浜田到を挙げていたことがこのような集を編む気持ちにさせたようなところがあります。」

◎吉田隼人『死にたいのに死ねないので本を読む』目次

はしがき

I 記憶――十二の断章
一行のボオド「レエル」――『パリの憂愁』
傍観者のエチカ――『エチカ』
存在と弛緩――『存在と時間』
記憶の周波数――『物質と記憶』
浅茅が宿の朝露――『雨月物語』
放課後の物騙り――『アクアリウムの夜』
コッペリウスの冬――『砂男』
雨はライプニッツのように――『形而上学叙説』
カフカと父親の話――『文学と悪』
かるてしうす異聞――『省察』
アナベル・リイ変奏――『美しいアナベル・リイ』
書かれざる物語――『二人であることの病い』

II 書物への旅――批評的エセー
世界は一冊の書物――『マラルメ詩集』
ブライヤーは何の花?――『思想のドラマトゥルギー』
木漏れ日の哲学者――『喜ばしき知恵』
終る世界のエクリチュール――『渡辺一夫敗戦日記』
ある自伝の余白に――『闇屋になりそこねた哲学者』
美とは虚無のまたの名――『定家百首』
時間についてのエスキース――『時と永遠』
劇的人間と劇場型人間――『岬にての物語』
視ることのドラマトゥルギー――『内的体験』
ジル・ド・レ覚書――『異端の肖像』
一輪の花の幻――『夏の花』
翻訳の悪無限――『「いき」の構造』
さよならの不可能性について――『さよならを教えて』

あとがきにかえて――「早稲田の文学と私」

◎ 吉田隼人『霊体の蝶』[目次]

内心の春
のちのこころの
瞑想録(レ・メディタシオン)
全休符
アンチ・ノスタルジア
二十歳(はたち)より先は晩年
穢土に春
青の時代
結晶嗜癖(クリスタロフィリア)
永遠なるものの影
Self-Destruct System
やまぶきのしみづ
建築の寓意
勝ち逃げの自殺
駒よいななけ
うたびとの墓
抹消と帝政

◎吉田 隼人(よしだ・はやと)プロフィール
1989年、福島県生まれ。県立福島高校を経て2012年に早稲田大学文化構想学部表象・メディア論系卒業。早稲田大学大学院文学研究科フランス語フランス文学コースに進み、2014年に修士課程修了、2020年に博士後期課程単位取得退学。高校時代より作歌を始め、2013年に第59回角川短歌賞、2016年に第60回現代歌人協会賞をそれぞれ受賞。著書に歌集『忘却のための試論』(書肆侃侃房、2015年刊)、『死にたいのに死ねないので本を読む』(草思社、2021年刊)。

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