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マリー・スタイン『ひとつの心とひとつの世界――越境するユング心理学』

☆mediopos2816  2022.8.3

世界が「分断」され
国と国が「分断」され
社会と社会が「分断」され
人と人が「分断」され
「わたし」と「あなた」が「分断」され
「わたし」の「こころ」と「からだ」が「分断」され
「わたし」の「こころ」も「分断」され
そうしたなかで
わたしたちはどう生きてゆけばいいのだろう

本書の示唆するユング心理学の視点は
「こころ」の意識と無意識の「分断」から
「世界」の「分断」まで射程に置いている

ユング心理学はそれらの「分断」を越境する
そのための指針を提供するものでもあるという

「分断」「分離」が「悪」だというのではない
それは必要なプロセスでもあるからだ

ユングの基本的な視点は「個性化」
つまり「個」であることである
それは「複数の個人からなる大集団ではなく、
一人の個人だけに本来的に属するもの」と定義される
それは分離(セパラチオ)ということでもある

かつて心と世界はひとつだった
しかしやがて
自己と他者
内なるものと外なるもの
「わたし」と「あなた」は隔てられ
私たちの心と世界は分断されてしまうことになった

しかしそれは「個性化」のための
「わたし」が「わたし」以外のなにものでもなくなるための
つまり自我を発達させるための
出発点でもあったといえる

その出発点がなければ
ユングの最後の著書『結合の神秘』において
錬金術的な統合として示唆される
結合(コニウンクチオ)は生まれえない

しかし分離(セパラチオ)のままでは
自我はそのほんらいの姿をとることができない

わたしのこころのなかの
意識と無意識が成熟した自我によって
統合されていくことで
「わたし」が成長していくように

そのプロセスを
こころとからだ
わたしとあなた
人と人
社会と社会
国と国
そして世界へと
錬金術的な結合へと辿らねばならない

そのひとつひとつのプロセスは
それぞれのプロセスにおける「個性化」として
とらえる必要があるだろう

まず「分断」「分離」によって
それぞれのレベルにおける「個」の自覚が求められ
そのうえで「個性化」という統合が求められる
そのいちばん最初のプロセスである
「わたし」の「個性化」を外しては
そこから先へと進んでは行けない

「ユング心理学は越境する」のだという
「分断で覆い尽くされた世界の中だからこそ、
越境の意味を語りつづける」ユング心理学の視点は欠かせない

■マリー・スタイン(大塚紳一郎訳)
 『ひとつの心とひとつの世界――越境するユング心理学』
 (みすず書房 2022/7)

(「日本語版への序文」より 二〇二二年三月)

「深層心理学のすべての創始者の中で唯一、ユングは閉ざされた個々の心という見方を超えて、心を周囲の物質的世界や自然と結びつける、より広い世界観の中で、シンクロニシティという観念を取り入れていました。「意味のある偶然の一致」や「非因果的な秩序」を近代の世界観に加えることができれば、深い変容がもたらされます。内なるものと外なるものとの結びつきが、深層心理学が明らかにする心的現象という図式に唯一無二の特徴を加えることになるのです。近年、ユング派の著述家かたちがこの観念を取り上げ、さらに発展させていきました。そして、それはポストモダンのコスモロジーの特徴にもなっています。シンクロニシティの理論は、意味のある軌跡を描く個人的な運命としての個性化という考え方に、不可欠な貢献をなすものなのです。」

(「第一章 外側でも、内側でも、どこででも」より)

「内なるものと外なるものとの区別が、さまざまな理由、特に防衛的な理由で、私たちの意識が作り出した恣意的なものだというのは一般によく知られている。(ユングに就いて)ノイマンが示したとおり、この区別は自我発達の副産物である。内なるものと外なるものという区別は実際的な目的や適応上の目的にかなったものなのだ。それは意識そのものの必然的な産物であり、意識はそうした区別をなすように設定されている。それがこうした区別が存在する理由だ。この区別は種が生存する上で価値を持つ。この区別なしでは、体と心を持つ自分自身と環境の中にあるその他の客体との境界線をめぐって、私たちはきっとひどく混乱する羽目に陥っていたことだろう。
 ただし、こうした区別がどのように構成されているか、そしてそれがどのように用いられているかに関しては。大きな文化的差異が存在するということも、私たちはよく知っている。共同体的な「わたしたちという自我」と呼ばれるものを持つ文化もあれば。個別的な「わたしという自我」を持つ文化もある。これは東洋と西洋のあいだにある違いであり、またアルカイックかつ伝統的な意識と近代的意識とのあいだにある違いでもある。西洋の心理療法家として、他者や周囲の環境(家族、友人、文化など)との心的な関わり合いから自分自身を内的に切り離し、そうすることで「自分自身を探していく」よう、私たちは患者にうながしている。西洋文化のなかであれば、こうした心理学的発達に関するユング派の文献が示してきたとおり、自己と他者の間にこのようにはっきりした分離をつくり出すことは、個性化のプロセスの重要な部分である。ただし、分析心理学のグローバル化に伴い、この点は疑問視されるようになってきている。
 同時に、そしていくぶんパラドックス的ではあるが、自己と他者、内なるものと外なるもの、「あなた」と「わたし」という、この単純かつ厳然とした区別はフィクションであり、心理学的な現実とははるかに複雑なものだということも、私たちは知っている。さらに言うと、個性化のプロセスが進行した段階では、自我意識が明確な境界や差異を維持しつつ、それと同時に世界と自己の結合「(一なる世界)」という深い認識へと至るということもわかっている。
 本章では、この内なるものと外なるものとの区別を、三つの側面から考えていきたい。すなわち(一)自我意識(主体性)対「外なる」他者(人物、社会、客体、世界全般)、(二)自我意識対「内なる」無意識(コンプレックス、本能、元型)、(三)自我意識対「上なる」超越的精神の三つだ。これらは現代社会を生きて行く自我意識が生み出した、三つの次元の「分離」である。」

(「第一五章 人類の個性化における激動の時代」より)

「近代性、および過去数世紀かけて達成された自我の姿勢の問題は、自己とのつながりからの深い断絶です。その結果、自律性と権力に関する誤った主張が生まれています。「フェイク・ニュース」とはこの手のわがままな表現なのです。精神性——見ることのできない世界、超越的な意味や判断、神の存在とモラル面での導きなどの感覚——は失われてしまったか、もしくはぼやけてしまって、もはや巡礼者の道を照らすことはありません。ですので、心理学的発達の次の課題とは、自我−自己軸を構築するということです。そうするためには、強く、よく発達した自我が絶対に必要になります。それがなければ、ひど退行が起こり、インフレーションがまるでフグのようにパーソナリティを埋め尽くすことになるでしょう。そうなれば必然的にイカロスのような墜落、惨めな失敗へとつながります。別の言い方をすると、この段階は前の段階の代わりとしてではなく、追加される階として、その上に築かれなければならないということです。全体性、つまり対立するものどうしを包み込むマンダラのためには。こうした意識が必要なのです。
 これよりもさらに先の段階もあるのでしょうが? 私はそうだと思っています。ユングは最後の大著『結合の神秘』の中で、それについて簡単に触れています。おそらくそれは、ひとつの世界という意識のことです。ひとつの世界という意識の中では、人間の違いをすべて包含する生成的な集合意識を優先して、一人一人の自我は背景に沈むことになります——姿を消すのではなく、背景に沈むのです。世界政治の舞台で言うと、それは個々の国家が人類全体のために相当な量の主権を預ける、国連となるでしょう。ここでは、自我の機能は、少なくともその大部分が、平等な正義とみなのための声について考える、複数の実行センターを持つ集合的意識と交代します。今日では、はるか彼方にあるヴィジョンです。ですが今後はどのような障害があったとしても、努力すべき目標として、それを維持しなければなりません。
 個人のレベルでは、自我−自己軸のことです。そこで自己は意思決定に関わる案内役の多く——すべてではなくとも、その大部分——を引き受け、そして個人の自己は集合的自己、つまり世界の魂と力を合わせるようになります。」

(大塚紳一郎「解題」〜「3 個性化」「4 おわりに」より)
 
「個性化は本書全体を貫く本流だ。本書に収められた一六本の論考のうち、個性化というテーマと無関係のものはないと言っていい。
 個性化とは文字通り「個」になることを意味する言葉である。ユングはこの「個」であること、すなわち個性を「複数の個人からなる大集団ではなく、一人の個人だけに本来的に属するもの」と定義している。恐ろしく厳しい定義だ。たった一人でも自分以外に持っている人がいるのなら、それは個性ではないというのだから。
 このような意味での個性を手に入れることなど、私たちに可能なのだろうか? そもそも個になることにどのような意味や価値があるのだろうか?
 以前の著作の中で、著者は個性化には分離(セパラチオ)と結合(コニウンクチオ)という二つの動き、もしくは原理があると述べている。分離とは、自我(「わたし」)が外的にも内的にも集合的な内容と自らを区別することを意味する。x世間の流行や周囲の一般的なムードとは異なるものであっても、必要とあらば自分自身の意見や感情を抱き。それに基づいて行動することが「個性」の重要な要素だというのは当然だろう。これは内なる心と世界を切り離すことだと言える。
 そして、それと同じくらい重要なのは、心の集合的内容と自分を区別することである。他の誰かに対する激しい憎悪や羨望に身を焦がされるような思いを抱くとき、私たちには「集合的な影」の元型が付置されているのかもしれない。自分を含めた多くの人を覆い尽くす、巨大な悪意にのっとられてしまっているということだ。そうした際に、過剰な攻撃や悲惨な破滅を回避するためには、集合的かつ無意識的な影から自らを区別するという、過酷な心の作業が必要になる。
 外なる世界においても、内なる心においても、集合的なものから自らを区別する。この分離の原理はもちろん重要である。ただし、それはユングの言う個性化のすべてではない。もしも分離だけが働くようであれば、それは個人を孤立させ、ただ単に周囲の人々や社会に反する存在にしてしまうことになるだろう(ときにはそういう時期が必要なこともあるが)。
 個性化の第二の、そしておそらくより本質的な原理は結合である。内なる体験においては、それは意識と無意識、もしくは自我とこころ(アニマ/アニムス)の結合を意味する。経験に近い言葉に言い換えるならば、それまで自分が生きてきたものと生きてこなかったものをひとつにすることだと言ってみてもいいだろう。夢分析やアクティヴ・イマジネーションといったユング派の技法は、この内なる結合をもたらすための仕組みのひとつだ。
 この内なる結合は一見すると分離と矛盾するもののようにも思える。せっかく切り離したはずの集合的な心と、またひとつになることを意味しているからだ。ただし、分離の前にひとつであることと、分離を経て再びひとつになることには決定的な違いがある。自我の意識、もしくは気づきだ。自我は無意識に呑み込まれるのではなく、意識の気づきを保ったまま、こころ(アニマ/アニムス)とひとつになるのだ。そしてそれこそが、個人に備わったすべての可能性の実現という意味で、ユングが「自己の元型の実現」「全体性」といった言葉で表現しようとしたもの、すなわち真の個性なのである。
 そしてこの結合にもまた、いわば「外なる世界との結合」が存在するのだと著者は言う。切り離された心と世界が、もう一度ひとつになるという意味での結合である。ユングは錬金術の用語を借用して、それを一なる世界との結合と呼び、最後の著書『結合の神秘』で微かにその可能性を示した。ノイマンもまた、心と世界の分離と再統合を晩年のエラノス会議での講演の主要テーマに選んだ。ユングとノイマンは共に未完成のまま後世に託した、この一なる世界との結合こそ、本書の最大のテーマなのである。
 一成る世界との結合が実現するならば、私たちは他人に人権や尊厳を自らと同じ価値を持つものとして尊重することができるように、つまり真の意味で利他的に生きることができるようになる。そしてそれは、私たちの種が今後も生存していくために、いま、もっとも必要なものでさえあるかもしれない。
(・・・)
 あまりにも壮大なヴィジョンであり、到底不可能なことのように思えるかもしれない。まるで悪が最終的な勝利を収めたかのような世界を生きなければいけない私たちにとっては非現実的な目標だと思う人もいるだろう。けれども、本書は言うのだ。私たちの集合的な心は、いまは遠く離れたものであっても、少しずつこの一なる世界の気づきへと、すなわち真の個性化の道を歩んでいる。私たちは絶望だけでなく、希望も持っていい。それこそが本書のメッセージなのである。」

「いま、私たちが生きている世界のリアリティを一言で言い表す言葉があるとすれば、それは「分断」だろう。神話風に、私たちの集合的な心は「引き裂く神」の姿をしていると言ってみてもいい。世界中のどの地域でも、貧富の差の拡大は深刻な社会問題を引き起こしている。少子高齢化の傾向は改善されるどころか進行する一方であり、そのことは異なる世代間に不公平感、場合によって憎しみさえ生んでいる。経済成長と覇権の拡大を続ける国とそうでない国々との国際的な競争力の差は開いていくばかりだ。挙げ句の果てにが東西の対立という、とうの昔に葬ったはずの亡霊まで復活を遂げてしまった。
 分断それ事態は悪いことではない。それは私たちに安定をもたらしてくれるものでもあるのだから。けれども分断が深刻なものになり、一面的な偏りを増していくならば、行き着く先はいつでも破壊的な反動であり、いま、私たちは集合的なレベルで、そしれ最悪の形で、それを目の当たりにしている。
 ユング心理学はその一〇〇年余りの歴史の中で越境性、すなわち分離を乗り越えるという課題への取り組みを重ねてきた。意識と無意識、「わたし」と「こころ」、自己と他者、個人と集合、そして心と世界。必然的に生じたそれらの分離をいかにして越境するかという問いは、ユングの時代から今日に至るまで、ずっとユング心理学の中心にある。
 ユング心理学は越境する。分断で覆い尽くされた世界の中だからこそ、越境の意味を語りつづける。それこそがいまも、これからも、ユング心理学やユング派の心理療法が存在する理由なのだ。」

【目次】
日本語版への序文
序文

第1章 外側でも、内側でも、どこででも
第2章 時間と永遠を重ねる
第3章 後代のための音楽――ヴォルフガング・パウリの「ピアノ・レッスン」
第4章 終末のためのレクチャー――「書物なんかじゃありません。パンです」
第5章 悪の問題
第6章 心の創造性について
第7章 変容の瀬戸際で
第8章 個性化の坩堝(るつぼ)の中の失敗
第9章 心理学的次元におけるイマーゴ・デイ
第10章 ユング心理学とプロテスタンティズムの精神
第11章 文化の溝を越える元型
第12章 東洋が西洋と出会う場所:個性化の宿にて――河合隼雄の思い出に捧げる
第13章 象徴から科学への道のり
第14章 文化的トラウマ、暴力、治療
第15章 人類の個性化における激動の時代――ロブ・ヘンダソンとの「エンタービュー」
第16章 症状が象徴であるとき

解題
訳者あとがき

文献
初出一覧

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